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2009年3月 アーカイブ


2009年3月31日

【新刊】『人文学の生まれるところ』  【お知らせ】

『人文学の生まれるところ』書影  【新刊のご案内】
  栗原 隆 編
  『人文学の生まれるところ』
  東北大学出版会
  定価2,100円(税込)
  ISBN978-4-86163-118-4

新潟大学人文学部の教員が中心となって、「人文学」に包括される17の分野について、その生まれるところを訪ね、それぞれ核となる「問い」から学問的な探究が育まれる道筋を描きだした入門書です。
人間学履修コースからは、編者の栗原隆先生をはじめ、井山弘幸先生と城戸も執筆陣に加わっています。
以下は「目次」です。

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2009年3月24日

ご卒業、おめでとうございます!  【イベントの記録】

昨日(2009年3月23日)は、全学での卒業式(=朱鷺メッセ)につづき、人文学部での卒業祝賀会(=新潟グランドホテル)、さらには人間学履修コースでの謝恩会(=大助)が行なわれました。

卒業祝賀会では、履修コースごとに学位記が手渡されます。今年度は25名が人間学履修コースから巣立ちました。
学位記の授与

「卒業おめでとう!」

祝賀会場でのひとコマ。にぎやかに卒業の宴を楽しんでいます。
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最後に人間学履修コースでの記念撮影です。
祝賀会での記念撮影


daisuke.JPG さらに「大助」に移り、今年度修了の大学院生も交えて、卒業生主催の謝恩会になりました。(幹事の方、お疲れ様でした。)
四年間お世話になった先生方とも最後の宴です。
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今年は、男子学生諸君が余興を用意してくれました。かぶりものと変声器で、だれがだれかを当てるクイズです。
(ご苦労さまでした!)

謝恩会では人間学恒例の(!)スピーチもありました。卒業生からは学生生活の思い出と今後の抱負について、先生方からは卒業生諸君を送る言葉です。
笑いあり、涙ありのひとときでした。

最後はふたたび記念撮影。
謝恩会での記念撮影


卒業生の皆さん、あらためてご卒業おめでとうございました。
人間学履修コースで学んだことを活かして、ぜひ新天地でもお元気でご活躍ください。

2009年3月21日

鈴木佳秀先生の最終講義。お疲れさまでした。  【イベントの記録】

昨日は、長らく人間学講座のスタッフとして教鞭を執られた鈴木佳秀先生の最終講義が行われました。

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先生の下で学んだ古くからの学生さんたちをはじめ、多数の方々にご来場いただきました。
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お話は、これまでの人生を振り返るなかで、先生の足跡をあらためて辿り直すものでした。なぜ旧約聖書学を志すにいたったのか、関根正雄先生との出会い、アメリカでPhD取得までのたいへんな試練、新潟大学に赴任するまでの決断、そして申命記研究を中心としたこれまでのお仕事とこれからの課題について、などなど、濃密な学問的人生を凝縮したお話は感動的でした。

鈴木先生、すばらしい講演をありがとうございました。

終了後の記念パーティの様子。
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卒業生からの送る言葉です。慶應大学からは前スタッフの山内志朗先生にもお越しいただきました。

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人間学スタッフからの贈り物、最後は記念撮影です。

鈴木先生、長い間本当にお疲れさまでした。
あらためて、どうもありがとうございました!

鈴木佳秀教授 最終講義  【お知らせ】

人文学部の人間学履修コースで比較宗教学を教えてこられた鈴木佳秀先生が、2009年3月をもって定年退職されます。最終講義は下記のように予定されています。なお、最終講義は一般公開されています。

鈴木佳秀教授 最終講義
日時 3月20日(金)15:00~16:30
場所 クロスパルにいがた 映像ホール
   新潟市中央区礎町通3ノ町2086番地
講義題目 「なぜ旧約聖書か?」

2009年3月13日

【再録】『啓蒙とはなにか』を読む  【】

最前のエントリーで、カントの実践哲学がもつ未来を指示する力について言及したが、このような側面がもっとも純粋に発揮されているカントの論文のひとつとして、『啓蒙とはなにか』(Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?) を挙げることができるだろう。カントは「われわれはいま啓蒙の時代に生きている」と書きしるして、啓蒙というプロジェクトの開かれた未来を提示したのであるが、いうまでもなくその未来は現在まで続いているのである。

ところで『啓蒙とはなにか』については、数年前に学内用の教科書『賢い大人になる50の方法』に、「啓蒙時代における成年市民の概念 ── カント『啓蒙とはなにか』を読む」と題して一文を寄せたことがある。軽い内容だが、いまだに参考にしてくれる学生もいるようなので、以下にあらためて掲載しておくことにしよう。(ただし校正前原稿にもとづく等の事情で、刊行本とは字句が異なるところがある。)

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2009年3月11日

【哲学ノート】人間通としてのカント  【】

カントの倫理学や社会哲学については、考えかたは正しいが結論は間違っている、と言われることがある。カントのかかげた高邁な理想と厳格な道徳性は、原理原則としては結構だけれど、現実社会に適用して運用するには不都合が多い、というわけである。

しかし、わたしの見るところでは、真実はちょうどその逆なのである。実践哲学の場面でのカントの思考の際立った特長は、考えかたの個々のプロセスにおいては強引であったり疑わしい論点をふくんでいたとしても、かならず正しい結論に到達する、という点にある。たとえば『人間愛から嘘をつく権利の虚妄』や『永遠平和のために』などは、その典型例だといえるだろう。カントのいっけん途方もないような結論は、没後200年のあいだに人類が積み重ねてきた経験と、そこで培われた新たな思考の試練を経ても、いまだに輝きを保っているのである。

なにがカントをそのように際立たせているのだろうか? それは、カントの思考がもつ、未来を指し示す力であろう、とわたしは思っている。過去の経緯に囚われ、現在の状況に巻きこまれるとき、われわれはしばしばみずからを見失って、正しい結論に固執できずに砕けてしまう。そのときカントは決然と未来を指し、進むべき方向を教えるのである。

いうまでもなく、無垢を装ったこのような決然たる態度は、老練なるカントの人間観察に裏打ちされたものである。カントは、われわれ人間があまりにも脆弱なものであり、せめても北極星のような高き理念を必要とするということを見通していた。カント実践哲学の結論の正しさは、カントが徹底的な人間通であったことの証明でもある。

2009年3月 8日

シンポジウム終了。  【イベントの記録】

シンポジウム「生の矛盾は解消されるのか」は昨日盛会のうちに終了しました。

会はアットホームな雰囲気のなかで行われ、先生方の熱のこもった講演、ドイツ語・英語・日本語で交わされる対話を通じて参加者は、濃密な時間を過ごすことができました。

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久保先生の講演は、ホンブルク時代のヘルダーリンが練り上げようとしていた「生の認識」を「エンペドクレスの死」に至る文献を辿り直して跡づけた非常に重厚なお話でした。

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エンゲルハルト先生の講演は、ヘーゲルの矛盾概念に、現代論理学のパラコンシステント論理等の知見を踏まえたうえで再解釈を施し、その核心を救い出そうとする刺激的なお話でした。

久保先生、エンゲルハルト先生、そして発表とともに通訳を担当された満井先生、どうもありがとうございました。

シンポジウム「生の矛盾は解消されるのか」  【お知らせ】

久保陽一教授(日本ヘーゲル学会代表)と
エンゲルハルト先生(ケルン)を招いてのシンポジウム

生の矛盾は解消されるのか

日時:3月7日(土)14時00分〜17時30分
場所:新潟大学駅南キャンパスCLLIC:演習室

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2009年3月 5日

【哲学ノート】カントの観念論  【】

2007年度に定年退職された佐藤徹郎先生は、形而上学的な実在論の哲学者であって、その確固たる思考にはわたしも強い印象をうけた。存在するものはその知られかたにかかわらずそのように存在する、というのが先生の確信であった。観念論に対しては、終始、批判的な議論を展開されたものである。観念論者によれば、物のありかたは知られかた次第で変わり、その意味では精神に依存するのであるが、先生はその点を認めず、存在の同一性を事実として確信しているといって譲らなかった。ときには、超越論的観念論を標榜するカントの研究者であるわたしにも、批判の矢が向けられた。

ここでは、遅ればせながら先生のカント批判に対する応答のつもりで、すこしカントの観念論について考えてみたい。

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2009年3月 1日

自己紹介  【】

カント『純粋理性批判』第二版(Immanuel Kant, Kritik der reinen Vernunft, 2. Aufl., 1787)の題扉

城 戸 淳 (きど あつし)

専門は哲学・西洋近世哲学史です。イマヌエル・カントの哲学を中心にして、西洋近世の哲学とその歴史を研究しています。

カント研究については、『純粋理性批判』、とりわけその超越論的弁証論を読み解いて、カントの「批判哲学」を伝統的な形而上学や当時の哲学思想との対決のなかに位置づけることを研究課題としており、その成果は『理性の深淵──カント超越論的弁証論の研究』(知泉書館、2014年)として刊行されました。この研究は、今後は感性論や分析論へと戦線を移しつつ継続される予定です。

また、カントの倫理学に関しても、自分なりの問題関心からアプローチを試みている最中です。

哲学史的な研究としては、「デカルトからカントまで」を範囲として、17世紀の近世形而上学から、18世紀の啓蒙期の哲学をへて、19世紀初頭の「カントの時代」までのドラマを再構成することを目指しています。

哲学的なテーマとしては、自我や自己意識の問題、心の哲学、無限の思想史、自由と行為の問題、懐疑主義や観念論の本質、存在の根拠への問いなどに関心をもち、カントや近現代哲学史の研究を踏まえて思索を続けています。

おもな研究業績については以下の続きを参照してください。

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言語学とは  【言語学】

言語学は,ことばの仕組みと働きについて広く学びます。たとえば,1)世界の数多くの言語は,どのように互いに異なっているのか,2)しかし,共通の本質のようなものがあるのだろうか,3)ことばによるコミュニケーションがしばしば失敗するのはなぜだろうか,4)逆に,一見つじつまがあわないやりとりでも,コミュニケーションが立派に成立することがあるのはなぜだろうか,5)ことばは,なぜ,どのようにして,変化するのか,6)日本語と日本社会・日本文化との間には,何らかの関係があるのだろうか,などです。言語学の理論面を中心とする勉強と,ことばの実例のデータ分析を中心とした勉強の両方を行ないます。ことばを分析する能力を養うと同時に,ことばに対する認識を深め,ことばに関する感覚を磨くことが求められます。

科学思想史とは  【科学思想史】

この分野には,科学思想史と科学基礎論(科学哲学)が含まれます。科学知識か唯一の正しい知識として真理の地位を保ち続けてきたという,よくありがちな誤解を解き,宗教や思想の影響を受けながら,歴史的に形成されてきたという事実を学ぶのが科学思想史で,今日の科学知識がなぜ信頼できるものなのか,その根拠を考えるのが科学基礎論です。実験や観察をするよりは,実験することで何が証明されるのか,顕微鏡観察による客観的な記述はどのようにして生まれたのかを,原語で書かれた文献や図像資料に直接あたって考察する学問です。

宗教思想史とは  【宗教思想史】

宗教思想史を学ぶことは,特定の宗教を「信じる」ため,あるいは「より深く信じる」ためではなく,なぜ人は宗教を求め,神や仏,運命や宿命を信じるのか,その要因を探ることです。そのために,宗教の構造や型を探りながら,帰依している人の生き方や死に方に宗教がどのような影響を与えているかを学ぶのです。具体的な学習内容は,宗教思想を成り立たせている宗教文書を読むことに始まります。ただし,テキストを読むことでは終わりません。宗教思想を学ぶことは,自分がどのような価値観で生きているのか,何を目的としてどこに向かって生きるのか,そうした疑問を持つことによって支えられているように思うのです。なお,人間学履修コースでは,中国の宗教,儒教,道教,仏教を学ぶことを通して,中国思想史を研究することもできます。

倫理学とは  【倫理学】

科学技術の進歩によって,従来の倫理観は再検討を迫られることになりました。生命倫理学が取り上げる問題である移植用臓器の配分,中絶された胎児の実験利用,生殖医療や遺伝子治療,さらにはクローン技術の応用による再生医療は,巧利主義的な発想で論じられることが少なくありません。しかし,先端技術の臨床応用について,〈できることをするべきだ〉とばかり進めてゆくなら,〈するべきことを行う〉ところに成り立つ人間の尊厳に反する形で暴走しかねません。医療技術と倫理との対話を試みるのが生命倫理学です。また,現代の消費文明が便利で豊かな生活を追求した余り,地球規模の深刻な環境破壊を招いてしまったことへの反省から生まれたのが,環境倫理学です。将来の世代に,今日の私たちが享受しているように,美しい環境の中で豊かで快適な暮らしを送る権利があるのなら,つまり私たちに将来の世代へ美しい地球環境を残す責務があるのなら,資源を大量に使い,環境を汚染する消費文明は私たちのエゴイズムに他なりません。技術を通して人間が自然を創造する力を得た時代に生きる私たちが,自らの生き方を問い直して,日常生活を自覚的にするところにこそ,今日の倫理学の課題があるように思われます。

哲学とは  【哲学】

哲学の出発点は,一つの問いに徹底的にこだわることにあります。たとえば,「自分とは誰か」,「自分が死んだらどうなるのか」,「他人の本当の〈気持ち〉は分かるのか」,「〈心〉と〈身体〉,〈理性〉と〈情念〉とが時に矛盾するのはどうしてか」などという疑問がふと心に浮かんだ体験は誰にでもあるでしょう。こうした問いを心のどこかで反芻しつづけるとき,ひとは否応なく哲学の迷路のなかに足を踏み入れることになります。そして哲学者は多くの場合,同じような問いを発した過去の哲学者たちの思想から学ぼうとします。しかしそれは,他人の解答やテクニックを借りて問題を解決するのではなく,過去の思索の跡であるテキストを辿りなおし,読み解くことで,同じ問題に一層深く関わるためです。哲学とは,無限に繰り返されてきた問いを,常に新たに考え直していく学問だと言えるかもしれません。

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