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2009年9月 アーカイブ


2009年9月25日

大学院生夏季合宿の記録。  【イベントの記録】

 9月の連休の最後となる22日〜23日は、大学院生(哲学系)を中心とした研究会の合宿がありました(4年生も卒論準備発表で一部参加)。
 行き先は、新潟越後は関川村。多いに勉強し語り合って楽しく過ごした、充実した二日間となりました。

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 現地に着くと、まずは朝市に寄り、しばし一息。鮎の塩焼きを堪能しました。猫ちぐら(猫のゆりかご)という民芸品の制作実演もやっていました。大人気で、一年以上先まで予約が入っているそうです。

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 宿に着くと昼食を待たずに研究会開始。途中休憩を挟みながらも、夕食時までぶっ通しで、参加者各人の発表と質疑応答が続きました。学部生のみんなには、ちょっとキツかったかもしれません。本当にお疲れさまでした。


 お待ちかねの夕食。残りの時間は、懇親会と入浴でゆっくり疲れを癒して就寝。

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2009年9月10日

人間学講座回想録(3)  【】

コンパの思い出を綴ってみる。六月の夕暮れ時に行なわれた「浜コン」は、新潟に来て初めて体験した行事の一つであった。「資料室」 (図書室であると同時に学生の勉強場所であり、夜間はコンパ会場にもなった共通スペース。現在、総合教育研究棟に移転してからも存続している) から鍋釜や食材を運び、学生と一緒にキャンプファイヤー用の廃材や枯木を収集し、授業を終えた教官 (必ずしも人間学講座に限らず、文化課程の先生方や集中講義で来られている他大学の先生も含む) をまじえて宴会が始まる。沈みゆく夕陽を見ながらビールを飲み、鍋をつっつく。どんな鍋だったか忘れたが、「砂を噛むような味」とも言える、実際に砂が混じった鍋だったことは鮮明に記憶している。談笑する時間よりも、四六時中歌っていたようだ。旧制高校時代の寮歌とか、戦中の歌謡曲とか、とにかく昭和59年~62年に在籍した学生たちはやたらと歌が好きだった。東京でいえば歌声喫茶とか新宿の「どん底」や銀座の「ミュンヘン」などのビアホールで昭和30年代に好んで歌われた曲が多かった。浜コンらしいところは、水着をつけずに海水にはまる者がいたり、投げ込まれる輩がいたことだ。きわめつけは最後に見ることのできる「深沢先生の火渡り」で、これはもの凄い迫力であった。

もちろん資料室では毎週のように宴会があったし、学期の切れ目や卒論構想発表会の夜には自然発生的に誰ということなく集まってきた。酒・ビールが中心でつまみ・料理の類はさほど凝ることはなかったが、大井学君という天才シェフが加わってからは、宴会の食料事情は大幅に改善された。大井君は定年最後の年の児嶋洋先生の単身生活の慰めるため、毎週晩餐会の料理をつくったほどだ。包丁捌きも器用だし、なんといっても食材を一つ一つ大切にした。玉葱の尖端を切り落として捨てようとした私を咎めたこともある。大根の葉だけで乙なツマミを作ったり、「女房に欲しい」とよく言われていた。

資料室のコンパも基本は歌謡合戦であり、山内志朗先生が赴任した直後 (1988年) は「人間学専用歌集」を印刷したこともある。深沢先生が「ステンカ・ラージン」を歌い始めると一堂の注目は先生とほとんど毎回参加していた山影先生に集中する。コサック・ダンスが始まるからである。コサックよりも韃靼人よりも強壮で迫力のある踊りで、わが講座の文化遺産とでもいうべき芸術でもあった、と思う。他の先生もそれぞれ味のある芸を披露していた。山崎先生がラテン語の唄を歌ったり、佐藤徹郎先生が井上陽水を歌ったり、山内先生が花笠音頭をと、資料室の宴は大抵は夜明けまで続いた。私は声の方はからきしダメで、会場にピアノがあるときは即興変奏曲「人間学教官の歩き方」を演奏した。(大分メンバーが変わったので、新しいバージョンを考えている)。(続)

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2009年9月 9日

人間学講座回想録(2)  【】

赴任した最初の年(1984年)は、その後二十年近く続く「人間学合宿」は始まっておらず、旧・哲学科時代のハードな合宿が存続していた。場所は妙高にある「好山荘」(管理人の不始末から失火し、後に廃業)で夏休みの4日間ほど。(その前に、佐渡島の寺で開催されたときのことを、伝説として、佐藤先生から聞いたことがある。地元の差し入れで、大量の魚、カワハギをもらったが、毎日が同じメニューで難儀したとのこと)。この年の夏、私は数名の学生とラテン語、ドイツ語など辞典類を車で運搬した。学生よりも辞典の方が重かったのではないか? 合宿所での夜は原書講読で、私はその頃熱中していたアナトール・フランスを読んでいた。中日には妙高山登山があり、山頂で撮影した往時の写真をみると学生よりも教官の方が多い。英文科の山影隆先生(故人)も元気な姿で(登山中は私と最下位争いをしたのに)写っている。深沢先生が隊長で、山頂に達すると黙々とラテン語の原書を読んでいた。 登山の習慣はその後「人間学登山」として5月期の二王子山(標高1450mほど)、夏のアルプス登山へと継承されていき、夏合宿は推薦入試の始まった1989年に復活し、昨年2008年まで続いた。(続)

2009年9月 1日

人間学講座回想録(1)  【】

1984年5月に赴任した当時は、私を呼んでくれた渡辺正雄先生(科学思想史・故人)、講座主任の大野木哲先生(哲学史・故人)、猫好きでカネボウのオーデコロンのきつかった児嶋洋先生(現象学・故人)、若いころの宮沢賢治に風貌の似た深沢助雄先生(古代中世哲学)、話すときに「いや、まー」と言い出すことが多く、私のことを呼んでいるのかと誤解することの多かった佐藤徹郎先生(英米哲学、一昨年退官)、すぐにシャーロッキアンであることが判明した山崎幸雄先生(言語学)と私(助手)の七人が人間学講座を構成していた。学生は一学年に4人前後で、まだ存続していた専攻科の学生が資料室に夜遅くまで屯していた。初めてのコンパはよし半でおこなわれ、昭和30~40年代のフォークソングをやたらと唄っていた。終電で帰る学生がいないため、深更まで宴会は続き、その間、佐藤先生と山崎先生は必ず一度は熟睡した。助手の仕事は4年続いたが、思い出してみると仕事らしい仕事をしたことはなかった。一応図書の管理が主たる仕事だったが、人間学の先生方は他人に任せることに慣れていなかったらしく、自分のことは自分でされていた。したがって4年間まったく干渉されずに自由な時間を過ごすことができたわけだ。この年に富士通のオアシス(ワープロ専用機)が初めて講座に装備され、朝日出版の科学の名著シリーズの仕事は、覚えたての親指シフト方式でその原稿を仕上げた。(続く)

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