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井山 弘幸 アーカイブ


2013年3月15日

【新刊】井山先生の著書『パラドックスの科学論』刊行!  【お知らせ】

978-4-7885-1327-3.jpg   井山 弘幸 著

  パラドックスの科学論
  科学的推論と発見はいかになされるか

  
  新曜社
  46判・312頁
  税込定価 2940円
  ISBN978-4-7885-1327-3
  2013年3月15日発行
  出版社紹介ページ

 【本書の紹介文】
 パラドックスとは何か、その魅力はどこにあるのでしょう。
「一見、不合理であったり矛盾したりしていながら、よく考えると真理である事柄。逆説」と辞書にはあります。「アキレスと亀」の話などが有名ですね。パラドックスはあらゆる分野に現われますが、特に科学の分野には多く、科学的発見が世間の常識を覆すことでなされることが多いからでしょう。
 本書は、科学の歴史に現われてきた多くのパラドックスを、ユーモアをまじえて詳述します。「アキレスと亀」の卓抜な解釈から始めて、サイズの話、「量る」ことのパラドックス(「たましい」や「幸せ」を量る)、ニセ科学、セレンディピティー論(発見のパラドックス)、そしてサンデル先生の白熱教室でおなじみの「路面電車問題」などまで、さまざまなパラドックスを取り上げ、意想外の思考が展開されます。パラドックスの魅力を満喫させてくれる第一級の読み物・テキストです。

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2013年4月 8日

【新刊】『感情と表象の生まれるところ』  【お知らせ】

954   栗原 隆 編
  『感情と表象の生まれるところ』
  
  ナカニシヤ出版
  A5判・256頁
  税込定価 2730円
  ISBN978-4-7795-0739-7
  2013年3月29日発行
  出版社紹介ページ

 【本書の紹介文】
 私たちの感情や表象はどのような仕組みで生まれ、
 どのような役割を果たすのか。
 いま人間の「感性」が失われつつあるという危機感の下、
 哲学・心理学・社会学・美学・文学など多彩な観点から、
 人間の「心の動き」に迫る共同研究の成果。

 私たちの人間学講座からは、編者の栗原隆先生をはじめ、井山弘幸、城戸淳の両先生、宮﨑裕助が執筆しています。以下は「目次」です。

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2010年2月15日

人間学講座回想録(5)  【井山 弘幸】

1989年から推薦入学制度が始まったため、学年人数が数名から20名前後の大所帯となる。最初の年は、課外の授業を私と山内先生とでもって、木曜の夜に自主的に集まってもらった。専門の講義が始まるまでに志望の気持ちが萎えないように、という配慮からだが、むしろ見合いをした相手に早く会いたくなるように心持ちで、何かと旧資料室に集まる機会を設けていた。やがて推薦入学生が大半を占めるようになり、初夏に合宿をする慣行が生まれた。第一回は、巻町にある金仙寺の仏堂で、恒例となる「読書クイズ」(初期は私が問題をつくり、やがて山内先生、城戸先生、そして現在の宮崎先生へと継承する)だけが唯一のイベントで、あとは釈迦像の面前で飲みあかすというだけの質素な合宿であった。翌日、角田山に登って鬼ごっこをした記憶がある。佐藤徹郎先生が真剣に学生を追いかけていて、その俊敏さに瞠目した。第二回以降は点々と合宿先を変える。金仙寺が廃寺となったこともある。よく覚えていないので年代順ではないが、過去に選んだ宿泊地を思い出す順に書いてみよう。新発田の青年の家(そんなような名前)。ここは五十公野公園に隣接した施設で、新発田駅からの徒歩は辛かったが、翌日は野球場でソフトボール大会となった。五頭山麓の少年の家。県の施設でユースホステルなみのやっかいな規則があった。このときは教官ごとに即席のセミナーを設定して班に分かれ、自然のなかで読書したり議論をしたりした。冷蔵庫に隠したビールが事務員にバレてしまい、ずいぶんと叱られた。「もう来ないでください」とも言われた(こちらも行く気はなかったけれど)。咲花温泉の旅館で開催したときもある。温泉旅館なので、硫黄臭のある濃厚な湯を堪能できて教官は満足。翌日、阿賀の里という観光施設に歩いていって、希望者は阿賀野川を船で下った。やたらと饒舌な船頭は、しかしながら、他県の人間でよくよそ見をするために、ずいぶんと水しぶきを浴びた。柏崎の南方、高柳町のじょんのび温泉で合宿をしたこともある。ここは手作り豆腐の美味な場所で、湯も淡褐色で木造りの立派な湯船で、すばらしいものであった。夜はトリヴィアル・パスートというクイズゲーム(生協で展示してあったものを、宣伝用にと借りてきてあった。一般常識問題を、地理・歴史・科学・芸能・スポーツのジャンルに分けて解いて、双六のような形式でゴールをめざすもの)にほぼ全員参加して楽しんだ。経過は忘れたが、ダントツで優勝したのが栗原隆先生だったことはよく覚えている。いやはや、よく知っておりました。
21世紀になってからは、大抵は、上川村あるいは鹿瀬の施設がよく使われた。上川温泉は四度ほど利用した。はじめてのときはやたらと歓迎してくれて、追加の宴会料理も山菜を中心に豪華なものであった。鹿瀬ではやはり温泉の亀田郷山荘を利用した。この頃から卒論の構想発表を兼ねるようになり、遊び中心だった合宿がすこしまともなものになりつつあった。磐越西線を週末走る蒸気機関車を利用することも何度かあった。六日町の「いろり庵」は最近利用した。雲洞庵、トミオカホワイトなど周辺の寺社、美術館に立ち寄り好評を博した。六日町駅前にネパールカレーの店があり、私は早めに到着して賞味したが、これを聞いた佐藤徹郎先生が敏感に反応し、持ち前の早食いで数分で平らげてきた。余興の新企画として、「ほぼ100円ショップ」を開催。100円ショップで購入した商品に、高額商品をまぜてそれをあてさせるゲームで、なかなか的中せず楽しい時間だった。このゲームには「高額商品」の所有者が必要で、佐藤先生がいないと実行できない。
昨年(2009年)は十数年ぶりに合宿が中止になった。マンネリ化したことへの反省もある。今年は準備も早く、すでに栗原先生に赤崎荘(鹿瀬)を確保していただき、新しいスタッフの青柳かおる先生も加えて合宿の新時代を迎えようとしている。今後は、OBも気軽に参加できる行事になればと願っている。

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2010年2月 3日

人間学講座回想録(4)  【井山 弘幸】

学生と旅行した思い出を記す。年代順でなく北から書くと、平成元年あたりに入学した学生と北海道ドライブ旅行に行ったことがある。フェリーで小樽に出て(三角市場を物色して)早朝に札幌を通過(クラーク博士像に一礼)、富良野の「北の国から」のセット近くで宿泊(一泊千円弱のライダーハウスが中心)、帯広で豚丼を食べ(ご当地出身の学生推薦)、釧路泊。客車を開放した宿(300円)で寝袋にくるまり、翌日、支笏湖と川湯温泉経由で網走で一泊。旧刑務所を見学すると女子学生が「私たちよりいいところで寝ている」と感嘆の声をあげたのが印象的。水族館を見てから旭川に向かう。ここで初めて旅館(一泊2000円)に泊まる。翌日層雲峡経由で小樽に戻り、一夜波止場であかしてフェリーで新潟にもどった。
青森県に行ったのは恐山参詣のときだ。人間学資料室に深夜集まって出発した。仙台あたりのSAでテントを張って一泊し、翌日にはむつ市の民宿に到着。イタコさんに降霊してもらう予定だったが、命日が分からないと呼べないということで断念。宇曽利湖の神秘的でぞっとする光景、水子供養の参詣客が岩間に置き去った無数の風車が妖しく印象的であった。もちろん、境内の温泉には浸かった。三途の川をわたったところに「霊場アイス」の旗があったのをなぜか覚えている。帰路八幡台の温泉で宿泊し四日目にもどった。1989年(珍しく年号を覚えている)には、冬に東北旅行をした。人間学に8年在籍した山之内君、天才シェフとして紹介した大井君、寡黙な土屋君、酔っぱらうとやたらと言い寄る癖のある一倉女史、現在、現代社会研で助教をしている、当時はオーケストラの一員だった石田さん、いつでも誘いを断らなかったナビ役の山内先生と私が全メンバー。車は二台。一日目が平泉の中尊寺近くの民宿で、毛通寺とか厳美渓(ロープを伝って名物団子が運ばれる)を見て最後に中尊寺を参詣。翌日、花巻の宮沢賢治記念館でたっぷり時間をとった。会館となりの山猫軒でデクノボーランチとか賢治ゆかり?のメニューを楽しんだ。夜に盛岡にでてわんこ蕎麦を「直利庵」で堪能。私は95杯食べて死ぬ思いをした。夜間に小岩井牧場に到着、寝台車スタイルの宿で一泊。朝食が美味。翌日は乳頭温泉郷に向かう。国民宿舎で宿泊したが、付近の湯を梯子した。帰路は田沢湖で雪合戦をし、羽後本荘駅前の「薫」で休憩をとり、一気に新潟にもどり泥のように疲れて眠った。
会津若松は何度も行った。平成6年には一緒に芝居をした学生と、平成8年には1年生のゼミで行った。通称「旅ゼミ」を始めたのもそのころで、大阪、京都、東京、横浜、能登(お目当ては輪島の朝市ではなく、ランプの宿「蒒ヶ浦温泉」と珠洲ハーブ園)を学生と回った。こう思い返してみると、何か教える-教わるという関係ではなく、学生とはよく一緒に遊んでいたものだ。
旅先の南下を続けると、長野県の御代田(浅間山南麓、軽井沢の西)にある別荘には、何度も行った。ここを拠点として、荒船牧場とか、八ヶ岳登山(赤岳山頂に公衆電話があって絶句した)、飛騨高山(朝市は大したことがなかったが、朴葉味噌は最高で大量に買って帰り、資料室で酒のツマミにした)、松本(古本屋街、ちきりや、古風な喫茶店「まるも」)、別所温泉(前山寺のおはぎ)各地に飛び回った。
長く在籍した山之内君の引っ越しも、平賀源内で卒論を書いた佐藤東州君、大井君をつれて知人から借りたトラックで広島まで遠征した。大井君との帰路は高速道路を避けて日本海沿いにもどってきた。城崎温泉の飲み屋でマダムが松本清張そっくりだったことは今でも忘れない。金沢で立ち寄ったおでん屋「赤玉」の品揃えの豊富さも旅のよい思い出の一つだ。
最後に九州旅行の思い出。平成5年頃だと思う。メンバーは、絶対つきあってくれる山内先生、石田さん、独文の木村先生(昨年末、悲しいことに、逝去された)と姪御さん。佐藤東州君に犬飼君(最近になって石田さんに「あのときいたでしょ」と指摘されて発覚)、そして推薦入学で入った柏木さん。新潟から福井に出て温泉センターで一泊。鯖江の眼鏡会館(プレゼンが故障だらけで滑稽だった)とアイスクリームの問屋に立ち寄って一路神戸へ。三宮や中華街を散策し夜にフェリーに乗って別府へ。地獄めぐりは実に楽しく、地獄と無関係なグッズの多角的販売に驚かされながら、突如ワニに出会ったりした。湯布院で露天風呂に浸かり、やまなみハイウェー経由で阿蘇山の地獄温泉の湯治棟で宿泊。翌日阿蘇山火口と牧場へ。木村先生がポニーに乗って喜んでいた。山頂でオニキスのグラスを買ったが、同じものを山口県で売っていて後でショックを受ける。熊本へ下山して熊本城へ。私は商店街で緑と白の縞々パジャマを買う。夕方平戸方面に向かい民宿で一泊し、フェリーで島原に出て雲仙経由で長崎のユースホステルで一泊。犬飼君が南京玉簾を執拗に探していた。グラバー亭やシーボルト記念館を見て、翌日、秋吉台を見て京都まで一気にいたる。木村先生の学生時代の下宿で一泊し、最後の日に明治村を見学して新潟にもどった。東北旅行はマツダのルーチェと山之内君のサニーだったが、その後、私は9人乗りのボンゴに乗り換えていた。七年で13万㎞乗った。

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2009年9月10日

人間学講座回想録(3)  【井山 弘幸】

コンパの思い出を綴ってみる。六月の夕暮れ時に行なわれた「浜コン」は、新潟に来て初めて体験した行事の一つであった。「資料室」 (図書室であると同時に学生の勉強場所であり、夜間はコンパ会場にもなった共通スペース。現在、総合教育研究棟に移転してからも存続している) から鍋釜や食材を運び、学生と一緒にキャンプファイヤー用の廃材や枯木を収集し、授業を終えた教官 (必ずしも人間学講座に限らず、文化課程の先生方や集中講義で来られている他大学の先生も含む) をまじえて宴会が始まる。沈みゆく夕陽を見ながらビールを飲み、鍋をつっつく。どんな鍋だったか忘れたが、「砂を噛むような味」とも言える、実際に砂が混じった鍋だったことは鮮明に記憶している。談笑する時間よりも、四六時中歌っていたようだ。旧制高校時代の寮歌とか、戦中の歌謡曲とか、とにかく昭和59年~62年に在籍した学生たちはやたらと歌が好きだった。東京でいえば歌声喫茶とか新宿の「どん底」や銀座の「ミュンヘン」などのビアホールで昭和30年代に好んで歌われた曲が多かった。浜コンらしいところは、水着をつけずに海水にはまる者がいたり、投げ込まれる輩がいたことだ。きわめつけは最後に見ることのできる「深沢先生の火渡り」で、これはもの凄い迫力であった。

もちろん資料室では毎週のように宴会があったし、学期の切れ目や卒論構想発表会の夜には自然発生的に誰ということなく集まってきた。酒・ビールが中心でつまみ・料理の類はさほど凝ることはなかったが、大井学君という天才シェフが加わってからは、宴会の食料事情は大幅に改善された。大井君は定年最後の年の児嶋洋先生の単身生活の慰めるため、毎週晩餐会の料理をつくったほどだ。包丁捌きも器用だし、なんといっても食材を一つ一つ大切にした。玉葱の尖端を切り落として捨てようとした私を咎めたこともある。大根の葉だけで乙なツマミを作ったり、「女房に欲しい」とよく言われていた。

資料室のコンパも基本は歌謡合戦であり、山内志朗先生が赴任した直後 (1988年) は「人間学専用歌集」を印刷したこともある。深沢先生が「ステンカ・ラージン」を歌い始めると一堂の注目は先生とほとんど毎回参加していた山影先生に集中する。コサック・ダンスが始まるからである。コサックよりも韃靼人よりも強壮で迫力のある踊りで、わが講座の文化遺産とでもいうべき芸術でもあった、と思う。他の先生もそれぞれ味のある芸を披露していた。山崎先生がラテン語の唄を歌ったり、佐藤徹郎先生が井上陽水を歌ったり、山内先生が花笠音頭をと、資料室の宴は大抵は夜明けまで続いた。私は声の方はからきしダメで、会場にピアノがあるときは即興変奏曲「人間学教官の歩き方」を演奏した。(大分メンバーが変わったので、新しいバージョンを考えている)。(続)

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2009年9月 9日

人間学講座回想録(2)  【井山 弘幸】

赴任した最初の年(1984年)は、その後二十年近く続く「人間学合宿」は始まっておらず、旧・哲学科時代のハードな合宿が存続していた。場所は妙高にある「好山荘」(管理人の不始末から失火し、後に廃業)で夏休みの4日間ほど。(その前に、佐渡島の寺で開催されたときのことを、伝説として、佐藤先生から聞いたことがある。地元の差し入れで、大量の魚、カワハギをもらったが、毎日が同じメニューで難儀したとのこと)。この年の夏、私は数名の学生とラテン語、ドイツ語など辞典類を車で運搬した。学生よりも辞典の方が重かったのではないか? 合宿所での夜は原書講読で、私はその頃熱中していたアナトール・フランスを読んでいた。中日には妙高山登山があり、山頂で撮影した往時の写真をみると学生よりも教官の方が多い。英文科の山影隆先生(故人)も元気な姿で(登山中は私と最下位争いをしたのに)写っている。深沢先生が隊長で、山頂に達すると黙々とラテン語の原書を読んでいた。 登山の習慣はその後「人間学登山」として5月期の二王子山(標高1450mほど)、夏のアルプス登山へと継承されていき、夏合宿は推薦入試の始まった1989年に復活し、昨年2008年まで続いた。(続)

2009年9月 1日

人間学講座回想録(1)  【井山 弘幸】

1984年5月に赴任した当時は、私を呼んでくれた渡辺正雄先生(科学思想史・故人)、講座主任の大野木哲先生(哲学史・故人)、猫好きでカネボウのオーデコロンのきつかった児嶋洋先生(現象学・故人)、若いころの宮沢賢治に風貌の似た深沢助雄先生(古代中世哲学)、話すときに「いや、まー」と言い出すことが多く、私のことを呼んでいるのかと誤解することの多かった佐藤徹郎先生(英米哲学、一昨年退官)、すぐにシャーロッキアンであることが判明した山崎幸雄先生(言語学)と私(助手)の七人が人間学講座を構成していた。学生は一学年に4人前後で、まだ存続していた専攻科の学生が資料室に夜遅くまで屯していた。初めてのコンパはよし半でおこなわれ、昭和30~40年代のフォークソングをやたらと唄っていた。終電で帰る学生がいないため、深更まで宴会は続き、その間、佐藤先生と山崎先生は必ず一度は熟睡した。助手の仕事は4年続いたが、思い出してみると仕事らしい仕事をしたことはなかった。一応図書の管理が主たる仕事だったが、人間学の先生方は他人に任せることに慣れていなかったらしく、自分のことは自分でされていた。したがって4年間まったく干渉されずに自由な時間を過ごすことができたわけだ。この年に富士通のオアシス(ワープロ専用機)が初めて講座に装備され、朝日出版の科学の名著シリーズの仕事は、覚えたての親指シフト方式でその原稿を仕上げた。(続く)

2009年8月 1日

自己紹介  【井山 弘幸】

井 山 弘 幸 (いやま ひろゆき)

偉人であれ凡人であれ、自分のことを書いたものは大抵信用できない。誇大宣伝するにせよ、過少評価して卑下するにしても、リアリズムに欠いていることだけは確かである。他人からそう見られたいという願望を綴ったようなものもあるから、自己紹介を読む者は心してかからねばならない。もし私のことを誇大に書くとすると、おそらく小学校の時にオペラの脚本を書き、独りで作曲をして、その作品がNHKで放映されるくらいに早熟だったというような話をするだろう。(真に天賦の楽才があったなら、今こんなことをしているわけがない)。過少に語るならば、人間嫌いの引きこもり人間で勉強が嫌い。ゲームばかりしているダメ人間であると胸を張る(違うか?)だろう(これもまた真実ならば、今こんなことをしているわけがない)。願望を吐露するならば、アルゲリッチよりも上手にショパンのバラードを弾くことができ、世界の一切を稠密な方程式のなかに封じ込める表現能力をもち、万巻の書物を読まずにすむほど知性に恵まれ、人に会わずとも何を考えているか事前に理解でき、米粒に般若心経を書き込むことができ、小林カツ代のレシピはそのすべてを諳じていて、談志百席は三回聞いただけで覚え、寒さの夏はオロオロせずに自適し、毎日幻のリヒト珈琲を三合ほど堪能し、街の誰からも気づかれずにいる、そんな人間になりたいと思っている。客観的な情報を知りたい人は大学の教員紹介を読んでほしい。