東京芸術劇場 かもめ

 これはどういう「かもめ」なんだろう。ボードヴィルとしての「かもめ」というところだろうか? 「ボードヴィルとしての」というのは、例えば、次のようなシーンのことだ。2幕でドールンがニーナからもらった花をポリーナが捨てるというのは、原作にあるが(そして、それで十分に笑いが起きるのだが)、それを食べて、口から吐き出すという描き方。チェーホフの望んだ(かも知れない)ようにやると、伝統的な「かもめ」ファンからは遠くなるな。少なくとも「喜劇」とは書いてあるのだが、あれこれ盛って喜劇というわけではなく、この脚本自体で喜劇だったはずだ。私は、鈴木忠志のチェーホフを受け入れるくらいの度量はあると思うのだが、これは悪ふざけとしか思えなかったな。と言うのは...
 例えば、4幕でトリゴーリンはソーリンが危篤であると聞いて、「喪服で来ちゃった」とか言って、黒いネクタイを取る。こういうのいらない。また、今まで、「惑わしの湖よ」などと、各種、思い入れたっぷりの日本語にされてきた2幕、幕切れあたりのドールンの台詞。「湖の魔法か」となって、そのあと石を投げて、「ぴんぴんぴん」という擬音入りのジェスチャー(あの遊び、何という名前か分からないが、石が湖面すれすれに飛ぶあれ)。これも無駄。
 分かりやすくしようという演出もあったかな。2幕の最後。なんでトレープレフがピアノの前に座っているのが見えているんだと思っていたら、銃声が聞こえ、担架で運ばれるところまであったか。反対側に座っていたのでよくわからなかったが、自殺をほのめかす、いや、はっきりと見せる。これにはチェーホフもびっくりだろう。はっきりと見せないのがチェーホフの流儀だったから。銃声といえば、幕切れの銃声も大きすぎて、あれで「エーテルの瓶が破裂」というのは無理だろう。もっとも旅公演ならではの音だったかもしれないが。時は、どうやら現代になっていて、4幕でニーナは馬車でなく車を待たせていると言っていた。しかも、場所は日本になっていて、アルカージナは松本信用金庫に7億預けているという噂があるとのこと。こういう観客へのくすぐりもいらないよな。それに、妙に性的なしぐさがたくさん。股を触るシーンがあちこちに。
 逆に象徴的な処理がされていたのがかもめ。冒頭、紙が何枚か降ってきて、まるで野田の『エッグ』みたいだな、もともと東京芸術劇場の作品だからかな、最初から作家として失敗するトレープレフの暗示かと思ったが、これはかもめの象徴だった。トレープレフが2幕でかもめを撃ち落としたとするところが、紙で表現されていた。これ(本物に見えるかもめを出さなかったこと)が効果的に使われたのが、幕切れ。ニーナは外へ行くと別室にいる人々が座る後方の椅子に後ろ向きに座ったので、なんで去らないんだ?と思っていたら、シャムラーエフがトリゴーリンに「あなたが注文なさったものです」とやるときに、座っているニーナにライトがあたり(と記憶する)、彼女自身が剥製になった。唯一、よかったシーンだ。
 このように見るべきところもあったが、ボードヴイルにするためにミソもクソも動員したというのが正直な感想。ドールンが観客に呼びかける所とか、役者が会場に降りていくとかという方向と、静かな演劇的な同時多発の台詞(どこだったかな、2幕のモーパッサンの朗読の直後だと思うが)という方向とが共存している。違う演劇的な方向だと思うのだが。
 その一方で、丁寧に扱って欲しいところがすっぽり抜け落ちている気もする。2幕でアルカージナがモーパッサンの朗読をする時には、まだニーナは出ていないと思うのだが、今回、(記憶違いでなければ)ニーナは朗読を聴いていた。4幕で、ニーナがトリゴーリンの笑い声を聞いて彼が来ていることを知るというシーンがあるのだが、これもなかったと思う。つまらない細部だと言うなかれ。トリゴーリンがいることを知って彼との回想に入り、「それでも彼を愛している」と彼女が言うことがトレープレフの自殺につながると思うから。
 4幕でニーナが昔の芝居の台詞を言っているところで、「聖者の行進」の音楽が鳴ったのだが、さすがにあれは携帯か何かの音? 何でもありだったので、もしかして、効果音だった?
 11月20日午後1時 まつもと市民芸術館 主ホール
21/11/2016

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