劇団私事。 最後の審判

 日頃、劇評を書く際、テーマの問題はあまり触れないことにしている。いや、正確にはこういうことか。例えば、友情について描いているものに対し、「何故、愛について描かないのか?」と書く類いは避けているということだろう。ただ、今回は、この禁を破ろうと思う。関係者は、「あのおっさん、何言ってんの?」と思うかもしれないが、心のどこかに、こんなことを書いていたのがいたという記憶が残ればいい。
 昔、「飢えた子供の前で文学は可能か?」(要旨)という問いを立てた文学者がいたが、そのひそみにならうなら、イスラム国の前で演劇は可能か?と言ってみたい。ナイジェリアでは、ボコ・ハラムが学校から女子生徒を誘拐し、挙げ句の果てには、人間爆弾として利用し、自爆テロを行っているという疑いが持たれている。それを思う時、この作品のエピソード的な爆弾犯の描き方は、とても悲しい。ここで、「エピソード的」としたのは、物語の構成上、爆弾犯である必然性はなかったのに、それが選択されたという意味だ。警察が張り込み捜査をし、あげくのはてに、小包が送られてきて、同居している知人が実はその犯人かもしれないと疑われるという流れさえあれば構わない訳だ。例えば、麻薬の売人という設定だって、充分可能であったはずなのだ。その中で、爆弾犯が選ばれたことが悲しい。が、この悲しさは、むしろ、イスラム国でのテロも、川崎の中学生殺人も、淡路島の殺人事件も、次々とエピソード的に消費されていく日本社会そのものに向けられるべきものかもしれない。
 あとは、演技について、一言。アドリブができることは、よく分かった。だから、そろそろ、アドリブなしの脚本通りの芝居をやる気はないだろうか? 「できる」とは書いたが、プロではないのだから、そんなに効果があるとは思えない。むしろ、アドリブをやられた方が、一瞬、崩れるから、むしろマイナスになっている。悪く言えば、足の引っ張り合いになっている。で、もし、あれがアドリブでないとしたら(そんなことはないと思うが)、それは、もう考えるだに恐ろしい。
 3月4日午後7時 新潟市民芸術文化会館スタジオB
10/03/2015

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