また四月が
去る者と来る者が交錯し、感傷的にも残酷にもなるこの季節ですが、個人的には、とにかく「年度末」という言葉に追いまくられ、おおむね灰色の日々を過ごすことを余儀なくされた数カ月でありました。このブログの読者ならおわかりのように、自分の年収をはるかに上回る予算の年度内執行というやつですね。2月とか3月とかにやたら道路工事が増えるアレですが、臆病者のBは、後ろ指をさされないように、少しでも有益でアカウンタブルな使い方をせねばと、神経をすり減らしておりました。そのストレスもあってか、最近、会議等で、ついかっとなって粗野な言葉を吐く事態が続出。少々反省しているところです。
とはいえ、また四月が来ました(註)。憎々しかったあの人たちが去り、騒々しかった彼女が戻って来、寡黙な彼が変わらぬ寡黙な姿を私たちの前に現す四月、そして、まだ見ぬ人たち――元気いっぱいかもしれないし、とても落ち着いているかもしれないし、漠然とした不安に苛まれているかもしれない新入生たち――がやってくる四月です。過去の「同じ日」を思い出させるとともに、けっしてそれと同じではない日々が始まります。彼ら彼女らに圧倒されないように、いまのうちに少しでもパワーをためておかなければ。とはいえ、今日は風邪気味なので、もう寝ます。
註)以前、ブログにおける歌詞の引用について、著作権の絡みでちょっと議論されたことがあって、このブログでも過去に遡って書き込みの手直しがされたことがあるのに、慧眼な――あるいは、よっぽど暇な――読者は気づかれたかもしれません。しかし、「引用」の問題は文化理論における大問題の一つである以上、ちょっと境界に「かすって」遊ぶくらいのことはしてみてもよいでしょう。
この問題の奇妙さは、ちょっと考えてみれば分かることです。
かりにある人が市販されているCDの歌詞をまるまる引用し、作者として自分の名前を記してしまった場合――これは文句なし、剽窃ですね。
同じ歌詞から三行を引用し、ちゃんと出典を付した場合――これは引用ですが、著作権料の支払い義務は発生するのでしょうか。
歌詞の一行だけ引用した場合はどうでしょう。
これは小説の例になりますが、「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」――ご存じ(ではないかもしれませんが)、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一文ですね。これはたしかに「引用」という感じがする。いかにも小説家らしい、巧い言い方、オリジナルな言い回しで、いかにも著作権(=作者の権利)が発生しそうな気がします。
(実際には、トルストイはもうかなり昔に亡くなっているので、ロシア語原文の権利は存続していないが、この日本語訳者(木村浩氏)の権利は存続しているという、もう少しややこしい話になるのだと思います。厳密なことは確認していないのでよくわかりませんが。また、小説からの引用は、学術目的という観点から、かなり自由に許されている、ということもあります。)
では、「役所で……」だとどうでしょう。
人によっては(あまりいないでしょうが)、ただちに「それはゴーゴリの『外套』の冒頭の引用だ」と言うかもしれません。
でも、「役所で」という言葉は、別にゴーゴリでなくても誰でも口にする言葉にすぎない。私だってこれまでに無意識のうちに何度も言ったことがあるでしょうし、みなさんだってそうでしょう。そんなとき、「作者の権利」は、発生するのでしょうか。
百歩譲って、「役所は」のあとに「……」をつけて語り手の言い淀みを巧みに表現した点に、ゴーゴリという「作者」の比類のない独創性があったとしましょう。そう考えるなら「役所で……」は「引用」であるといっていいかもしれません。ならばもう一歩進めて「役所で」だけ、あるいは「役所」だけであったなら、それは「引用」でしょうか。
原理的に考えれば、私たちが発する言葉は、それが言葉である限り、すべて「引用」であるはずです。だって、私たちは、かつて私たちの同胞が一度も口にしたことのない言葉を、けっして言うことができないのですから。
それならば、「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」を「引用」であると認定し、「役所で」を「引用ではない」と断じる社会の力は、いったいなにに由来しているのでしょう。
タイトルに戻りますが「また四月が」は「引用」なのでしょうか、そのあとに「来たよ」と続けると「引用」になるのでしょうか。ならば「四月が来たよ」は、どうでしょう。(例によって一部の人にしか分からない話にしてしまいました。すみません。文コミのみなさんにはバレバレかもしれませんが)。