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2008年4月 アーカイブ

2008年4月 1日

また四月が

去る者と来る者が交錯し、感傷的にも残酷にもなるこの季節ですが、個人的には、とにかく「年度末」という言葉に追いまくられ、おおむね灰色の日々を過ごすことを余儀なくされた数カ月でありました。このブログの読者ならおわかりのように、自分の年収をはるかに上回る予算の年度内執行というやつですね。2月とか3月とかにやたら道路工事が増えるアレですが、臆病者のBは、後ろ指をさされないように、少しでも有益でアカウンタブルな使い方をせねばと、神経をすり減らしておりました。そのストレスもあってか、最近、会議等で、ついかっとなって粗野な言葉を吐く事態が続出。少々反省しているところです。

とはいえ、また四月が来ました(註)。憎々しかったあの人たちが去り、騒々しかった彼女が戻って来、寡黙な彼が変わらぬ寡黙な姿を私たちの前に現す四月、そして、まだ見ぬ人たち――元気いっぱいかもしれないし、とても落ち着いているかもしれないし、漠然とした不安に苛まれているかもしれない新入生たち――がやってくる四月です。過去の「同じ日」を思い出させるとともに、けっしてそれと同じではない日々が始まります。彼ら彼女らに圧倒されないように、いまのうちに少しでもパワーをためておかなければ。とはいえ、今日は風邪気味なので、もう寝ます。

註)以前、ブログにおける歌詞の引用について、著作権の絡みでちょっと議論されたことがあって、このブログでも過去に遡って書き込みの手直しがされたことがあるのに、慧眼な――あるいは、よっぽど暇な――読者は気づかれたかもしれません。しかし、「引用」の問題は文化理論における大問題の一つである以上、ちょっと境界に「かすって」遊ぶくらいのことはしてみてもよいでしょう。

この問題の奇妙さは、ちょっと考えてみれば分かることです。

かりにある人が市販されているCDの歌詞をまるまる引用し、作者として自分の名前を記してしまった場合――これは文句なし、剽窃ですね。

同じ歌詞から三行を引用し、ちゃんと出典を付した場合――これは引用ですが、著作権料の支払い義務は発生するのでしょうか。

歌詞の一行だけ引用した場合はどうでしょう。

これは小説の例になりますが、「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」――ご存じ(ではないかもしれませんが)、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一文ですね。これはたしかに「引用」という感じがする。いかにも小説家らしい、巧い言い方、オリジナルな言い回しで、いかにも著作権(=作者の権利)が発生しそうな気がします。

(実際には、トルストイはもうかなり昔に亡くなっているので、ロシア語原文の権利は存続していないが、この日本語訳者(木村浩氏)の権利は存続しているという、もう少しややこしい話になるのだと思います。厳密なことは確認していないのでよくわかりませんが。また、小説からの引用は、学術目的という観点から、かなり自由に許されている、ということもあります。)

では、「役所で……」だとどうでしょう。

人によっては(あまりいないでしょうが)、ただちに「それはゴーゴリの『外套』の冒頭の引用だ」と言うかもしれません。

でも、「役所で」という言葉は、別にゴーゴリでなくても誰でも口にする言葉にすぎない。私だってこれまでに無意識のうちに何度も言ったことがあるでしょうし、みなさんだってそうでしょう。そんなとき、「作者の権利」は、発生するのでしょうか。

百歩譲って、「役所は」のあとに「……」をつけて語り手の言い淀みを巧みに表現した点に、ゴーゴリという「作者」の比類のない独創性があったとしましょう。そう考えるなら「役所で……」は「引用」であるといっていいかもしれません。ならばもう一歩進めて「役所で」だけ、あるいは「役所」だけであったなら、それは「引用」でしょうか。

原理的に考えれば、私たちが発する言葉は、それが言葉である限り、すべて「引用」であるはずです。だって、私たちは、かつて私たちの同胞が一度も口にしたことのない言葉を、けっして言うことができないのですから。

それならば、「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」を「引用」であると認定し、「役所で」を「引用ではない」と断じる社会の力は、いったいなにに由来しているのでしょう。

タイトルに戻りますが「また四月が」は「引用」なのでしょうか、そのあとに「来たよ」と続けると「引用」になるのでしょうか。ならば「四月が来たよ」は、どうでしょう。(例によって一部の人にしか分からない話にしてしまいました。すみません。文コミのみなさんにはバレバレかもしれませんが)。

2008年4月 4日

勝鬨橋とゴジラ映画 ― 銀幕の東京を偲ぶ ―


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勝鬨橋 (西岸,築地6丁目,はとば公園から)


先月末,勝鬨橋(かちどきばし)へ行った。都営バス15系統に乗り,鉄砲洲,明石町を経由して,築地7丁目で降りる。はとば公園から勝鬨橋を望む。この橋は,築地6丁目と勝どき1丁目(旧月島)を結ぶ,隅田川最下流に架かる橋で,通りの名は,晴海通り。1954年,ゴジラが壊した橋だ。『ゴジラ』(1954年)で,芝浦埠頭に再上陸したゴジラは,銀座4丁目の交差点から晴海通りを通り,数寄屋橋方面へと向かう。日劇,国会議事堂,テレビ塔(平河町)を経て,その後,上野,浅草から隅田川を下り,この勝鬨橋に至る。

勝鬨橋は,1940年(昭和15年)6月に完成した跳ね橋で,その名は,1905年(明治38年),日露戦争での旅順陥落の戦勝に因んで設置された「勝鬨の渡し」に由来する。1970年(昭和45年)までは,1日5回,橋の中央部が跳ね上がり,船が通行していたが,現在は,開かずの橋となっている。


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勝鬨橋 (東岸,勝どき1丁目,旧月島から)


勝鬨橋の静かなシーンに続き,隅田川にゴジラが現われる。ゴジラは,橋の東側(上の写真で右側)を大きく持ち上げて破壊し,その衝撃で,築地側に大きな波が押し寄せる。東京都中央卸売市場築地市場のある辺りだ。旧東京市設魚市場は,1923年(大正12年),関東大震災で焼失し,現在の築地に移っている。

ゴジラの東京蹂躙は,東京大空襲の再現でもあるが,その通過経路がB-29そのものの反復であるかどうかは,実は,定かではない。映画でも,ゴジラの移動経路が,すべて描かれている訳ではない。私の父の証言によると,B-29は,市川上空に飛来しているのである。なお,言問橋は,勝鬨橋よりずっと上流にある。


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勝鬨橋より隅田川上流を望む (見えるのは,佃大橋)


更に,勝鬨橋を月島側(隅田川東岸)に渡り,築地市場方面を望む。ゴジラが,東京湾へと去ってゆく方向でもある。


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築地市場 (勝鬨橋,東側河岸から)


上の写真では,東京タワーも見えるが,1954年当時,東京タワーはまだない。東京タワーは,今年,50周年を迎えるが,東京タワー大展望台に登って,こちらの隅田川下流を望んだのが,下の写真である。


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隅田川河口域 (東京タワーから)


写真左上に勝鬨橋が見える(写真が小さくて見えないって?)。上2枚の写真は,向かい合わせの写真である。この一帯が,実は,『ゴジラ』の銀幕の舞台なのである。更に東京湾を進んだ所(写真のもっと右側)には,レインボーブリッジも見えるのだが,東京タワーに訪れた折にでもご覧いただきたい。

ところで,ゴジラが東京初上陸の際に,最初に壊すのは,八ツ山橋である。ゴジラは,品川埠頭に上陸し,東海道線に至る。現在のJR品川駅を南に下って最初に潜る跨線橋が,八ツ山橋である。ゴジラに最初に壊された,名誉ある建造物だ。


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八ツ山橋 (京浜東北線下りの車窓から)


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