『恋空』と『カラマーゾフ』の午後
なにか面白いことを書こうとすると更新が滞ってしまうので、二学期の授業内容の紹介でもぼちぼち書いていこうかと思います。まずは月曜の昼下がり、3-4年生向け講義「表象文化論B」。前夜、悩みに悩んで決めたお題は「文学とテクノロジーとリアリティの(ポスト)モダン」。
詳しい内容は書けませんが(というか、まだこれからどう展開していったらよいのか、本人にも分かっていないのです、、、)、初回のつかみは、昨年から今年にかけての日本の文学状況。2007年の書籍の年間ベストセラー(トーハン調べ)で、いわゆる「ケータイ小説」が文芸部門のベスト3を独占したということと、昨年7月に完結し、このブログでもとりあげたことのある、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』新訳が、2008年9月の増刷で全5巻合わせてミリオンセラーになったということ。この二つのニュースを、まったく別々の出来事としてとらえるのではなく、ひとつの状況の異なる現れとして理解することはできないか、という問題提起でした。
あえて戯画的に誇張して書けば、
(ある人々に言わせれば)「軽薄」な「ポストモダン」の「dqn」のきわみである美嘉『恋空』と、
(ある人々に言わせれば)私たち読者を人間の「闇の世界」へといざない、9・11以降の人類につきつけられた根源的課題を解くヒントを与えてくれる大小説『カラマーゾフの兄弟』
この二つはそれほどかけ離れたものなのか、という問いですね。
いや、もちろん、結論ははじめから分かっていて、「それほどかけ離れている」なのですが(笑)、しかし、言いたかったことは、あらゆる違いにも関わらず、両者のあいだには、「小説」というジャンルのリアリティを保証する構造に関して、ある種の共通点があるのではないかということ、いいかえてみれば、前者をくだらないものと貶め、後者を深遠な文学として祭り上げてしまうのではなく、両者を積極的に関係させ、いわば、『恋空』を通して『カラマーゾフ』を読むことによって、はじめて見えてくるものがあるのではないか、ということでした。
あまりうまくいかなかったのですが(笑)。
これからどうすればよいことやら。