« 2008年9月 | メイン | 2008年11月 »

2008年10月 アーカイブ

2008年10月 8日

『恋空』と『カラマーゾフ』の午後

なにか面白いことを書こうとすると更新が滞ってしまうので、二学期の授業内容の紹介でもぼちぼち書いていこうかと思います。まずは月曜の昼下がり、3-4年生向け講義「表象文化論B」。前夜、悩みに悩んで決めたお題は「文学とテクノロジーとリアリティの(ポスト)モダン」。

詳しい内容は書けませんが(というか、まだこれからどう展開していったらよいのか、本人にも分かっていないのです、、、)、初回のつかみは、昨年から今年にかけての日本の文学状況。2007年の書籍の年間ベストセラー(トーハン調べ)で、いわゆる「ケータイ小説」が文芸部門のベスト3を独占したということと、昨年7月に完結し、このブログでもとりあげたことのある、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』新訳が、2008年9月の増刷で全5巻合わせてミリオンセラーになったということ。この二つのニュースを、まったく別々の出来事としてとらえるのではなく、ひとつの状況の異なる現れとして理解することはできないか、という問題提起でした。

あえて戯画的に誇張して書けば、

(ある人々に言わせれば)「軽薄」な「ポストモダン」の「dqn」のきわみである美嘉『恋空』と、

(ある人々に言わせれば)私たち読者を人間の「闇の世界」へといざない、9・11以降の人類につきつけられた根源的課題を解くヒントを与えてくれる大小説『カラマーゾフの兄弟』

この二つはそれほどかけ離れたものなのか、という問いですね。

いや、もちろん、結論ははじめから分かっていて、「それほどかけ離れている」なのですが(笑)、しかし、言いたかったことは、あらゆる違いにも関わらず、両者のあいだには、「小説」というジャンルのリアリティを保証する構造に関して、ある種の共通点があるのではないかということ、いいかえてみれば、前者をくだらないものと貶め、後者を深遠な文学として祭り上げてしまうのではなく、両者を積極的に関係させ、いわば、『恋空』を通して『カラマーゾフ』を読むことによって、はじめて見えてくるものがあるのではないか、ということでした。

あまりうまくいかなかったのですが(笑)。

これからどうすればよいことやら。

2008年10月12日

金曜5限、文コミ基礎演習B

金曜日、そろそろ薄暗くなろうかという時刻に始まる2年生向けの基礎演習。文献の読み方、ハンドアウトのまとめ方、発表の仕方など、大学での勉強の基礎的な作法を身につけるとともに、文コミでの専門的な勉強の導入となる演習です。お題は、英語で読む視覚文化論入門。絵画や写真、広告などの視覚イメージを論ずる方法の基礎を、比較的やさしい英語で書かれた入門書を読みながら学びます。

テクストに選んだのは、その筋では定評ある、Marita Sturken and Lisa Cartwright, Practices of Looking: An Introduction to Visual Culture, Oxford University Press, 2001の第1章。実質的な初回となる2回目の授業で読んだのは、ウィージーという写真家の『彼らが最初に見た殺人の光景』(Their first murder)という、いささかショッキングな写真に関する分析でした。

こちらを見つめ、興奮して奇妙な笑いを浮かべている子どもたちと、そうした彼らを困惑した表情で制止している大人たち。子どもたちが見ている画面手前の光景は写真には写っていませんが、題名が示しているように、おぞましい殺人現場であったはず。

美術史とか写真史というとき、ふつう考えられているものは、そこに描かれた光景であり、見られているイメージです。モナ・リザの謎めいた微笑、モネの睡蓮、ピカソの泣く女、アジェのパリ、メイプルソープの花、等々。

ところがスターケンとカートライトの書物は、見られるイメージ(=完成された作品)より、むしろイメージを「見るという実践」そのものに私たちの注意を向けようとします。あるアーティストによって作られた映像作品のみならず、それを見るという行為そのものが、私たちの文化をつくりだしている。文化は、見るという行為そのものを規制しているのです。これは見なければならない、これは見てはならない、これは真面目に見ないふりをしなければならない、これは大人は見てもよいが子どもは見てはならない……等々。かつてフランスの哲学者フーコーが指摘したように、私たちが実際に見たり、語ったりしているものは、可能性として私たちが見たり、語ったりできるはずのものより、つねに少なくなっている。

であるとすれば、本来なら見ることができたはずなのに、実際には私たちが見なかったものは、何であったか。

……そんなことを考えるのがこの演習の目的ですが、とりあえず、参加した学生は、英語の意味をとるだけでいっぱいいっぱいだった様子。最初のうちはそれも仕方ないかもしれません。とりあえず、高校で習った英文法って、やっぱり大事だったんだなということを実感してもらえれば、それだけで最初の2回の授業をやった甲斐があったとすべきでしょう。

2008年10月21日

女子文化と教養

後期の火曜4限はおなじみ1年生向けの入門講義「情報文化入門B」。昨年と同じく、Bによる2回のイントロダクションのあと、3人の先生による3つのセッションで、文コミの学問への導入をおこないます。

今日は「情報文化入門B」初登場の I 田先生の講義初回。お題は「教養の変容と女子文化――読む私とつくる私」。現代日本においていたるところで唱えられ、時には称揚され時には唾棄され、時には死を宣告され時には復活を祈念され、ほとんど意味不明な呪文と化したかの感さえある概念「教養 culture, Bildung」について。明治・大正以降の「教養」の歴史的成立過程の説明のあとは、エリート「男子」の(中途半端な)「教養」主義が、いかに、ゆえもなく「女子文化」や「少女趣味」を貶め、差別してきたかというお話でした。

例えば、こんな感じ。

「小林秀雄なんてね~、吉屋信子っていう人の本を、「感傷的」で「通俗的」で「子供の弱点にひっかけるといふ文体」で「向つ腹が立つてきて」読めない、なんて言いはるんですよ~。ひどいですよね~。読めなかったんだったら黙っとけばいいのに、そんなことをわざわざ書いて、出版しはるんですよね~」(注:これはBによる I 田先生の声の不正確な再現です)

科目代表として出席していたBを筆頭に、教室の3割程度を占めていた男子学生たちにとっては、なんとも居心地の悪い時間であったに違いありません。というより、いまの男子学生には別にあまり堪えないのかな。教室の前のほうでうつむいて坐っていたBは、講義を聞きつつ、ぼそぼそと、「あ、そういえば『資本論』は(1)しか持っていなかったな」とか、「ヘルマン・ヘッセも馬鹿にしてろくすっぽ読まなかったな」とか、「でも「少女趣味」って言われたらやっぱり傷つくよね」などと呟いておりました。イタい、イタい。

3回のセッションが終わった後のまとめで、なんとか復讐できないかと思いつめているBでした。

About 2008年10月

2008年10月にブログ「文化コミュニケーション 公式ブログ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2008年9月です。

次のアーカイブは2008年11月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 5.2.3