- 下條信輔,『サブリミナル・インパクト――情動と潜在認知の現代』,ちくま新書,2008年
報告は、我々の「自由な選択」の基礎になっていると想定され、また我々自身がそう信じている欲望や選好といったものが、実は心理的な潜在過程における外部からの操作可能性に晒されているという本書の知見を受けて、そのことの倫理的意義について、一つの思考実験を通して考えてみる、というものでした。
この思考実験はなかなか興味深いので、原文のまま引用してみましょう(読みやすくするために適宜段落を分けました)。
私は今まで自分で買い物をしたり、着る服を選んだり、食べるものを決めたりしてきた。しかしある日突然政府からということを言われるとする。あなたは今まで自分の意思で買いたいものや着たい服、食べたいものなどを選択してきたつもりだろうが、実はそうではない。それらの行動はすべて私たちが特殊な装置を使ってあなたにそうしたいと思わせ、それらを選択させていたのだ。
だが、それには多大な費用と手間がかかる。そこで私たちはもうあなたを陰でこっそりと操ることを止め、正直に話すことにした。
さてここに、中に入るとあなたは私たちが指定するものが欲しくなる機械がある。入ってくれれば、欲しくなったものをあなたは手に入れることが出来る。いちいちあなたの意思で選択しているかのように操作するよりも直接この機械に入るほうがはるかに時間も費用も手間もかからない。しかもいらないものを押し付けられるのではないし、欲しいと思えるものが手に入り満足感も得られるのだ。やっている行為自体は今までと変わらない。ただ、あなたが操られているということを知っているかいないかの違いしかない。
ちょっと分かりにくいかもしれないけれど、これは要するに「自分で選んだつもりになって消費して満足している生活」から、「自分で選んでいる感」だけを取り去ったとき、我々は大切なものを失ったのかどうか、ということを考えるための思考実験になっています。ただ、議論の中でも明らかになったとおり、「政府」といういかにも悪者的なアクターが登場しているために、いろいろと余計な思考を呼び込んでしまいがちではあります。(なので、操作のアクターを「神」とかにしておいた方がよかったかもしれません。)
報告者の直観は、やはりここで大切なものが失われていると告げているようです。それは選択過程それ自体が与えてくれる楽しさ、だと言います。しかし、私としては、それだけではちょっと弱いのではないかと思います。その程度の娯楽であれば、政府(神)はおまけで擬似的に与えてくれるかもしれません。
他方、結構多くの人が、食べるもの、着るもの、読む本などを、実際にも自分では選択していないのではないかとも思います(実家の人、夕食のメニューを選択しているのはあなたですか?)。与えられた食事が美味しければ、与えられた服が自分に似合っていると思えれば、それで十分という意見は、それほど突拍子もなくもないのではないかと思うわけです。
さらにいうと、人生において重大な意味を持つもの、たとえば「愛」というのは、自己選択感の〈欠如〉によってこそ特徴づけられるものではないか、という議論も可能です。Liebe als Passionですね。恋は落ちるものであって選ぶものではないとか云々
とまあ、そういういろんな観点からの議論を喚起してくれる思考実験だったと思いました。報告は分量として少し短すぎました。もっと自分の思考実験の可能性を、様々な方向から分析してみるとよかったかと思います。
司会者は、自分の意見を表明しつつ、それに対する他の出席者の反応を引き出すという方針で、なかなかうまいことやっていたと思います。まあ問題は、勝手にたくさんしゃべりたがる人がいるので(私のことですが(笑))、それをどううまくあしらうかということでしょうかね。他人事のように書いてしまいました。
以下、出席者のコメント。
- 無意識に欲しいものが操作されているかもしれないというのは不思議だなと思いました。
- 本書に対する理解がたりませんでした。
- 満足って何なんだろうな。自分の考えが始終議論から浮いてたのが悪い。
- 無意識を意識化しよう。そのための視点が一つここにある。
- 自分達の意識下にある問題で、認識できないことが主題だったので議論が難しかった。
- 思考実験の問いが星新一のショートショートみたいでした。
- 報告者の感想 分かりづらいレジュメですみませんでした・・・。もうちょっとうまくまとめれたらよかったです。
- 司会者の感想 司会者なのに、だんまりですみません。あと、○○さんの話をちゃんと理解してなくてすみません。「自分」、「自由」、「創造性」と出すと哲学の方向へ話が引っぱられるような気がしますが、もっと心理学的面から考えたかったです。