選んどいてあれですが、なにを隠そう、私は対談本とか鼎談本とかすごいきらいなんですよね。インタヴューとかもね。俳優とか歌手みたいな(自分で物を書く機会のない)人ならともかく、物書きにしゃべらせて文字起こしするとか、怠惰でなければ倒錯だよねと。もちろん、口述筆記本の類もおんなじ。まあ、選んどいてあれなんですけどね(苦笑)。なにがいやかというと、わかりにくいからなんですよね。すらすら読める分、結局なにが書いてあったのかよくわからんという。
というわけで、対談本については、今回の報告者のように、なにが書いてあったのか、ということを線形なストーリーに構成し直してあげるということが、レジュメ作りの付加価値になります。ただ、注文をつけるなら、そのリニアなストーリーの中に、著者の意見と報告者の意見がどっちも組み込まれていて、いまいちメリハリよく区別できなかったので、そこをきっちり分けることができるような構成にした方がよかったですね。
最終節で展開された報告者独自の議論は、自由と平等という二大価値の間の対決で、演習での議論もそこを中心に行われました。報告者は、自由よりも平等のほうが大事だ、という意見だったのですが、「熾烈な自由競争のもと、弱者は切り捨てられ、強者だけが多くの富を得て、切り捨てられた弱者を国が保護してくれないような社会と、国民の最低限の健康をしっかりと保障してくれるような社会ははたしてどちらが良いだろうか」という問い自体が、まあなんというか、自由陣営にとってかなり不利な立て方になっていてアンフェアだという点、それから最低保障というのははたして平等主義の一種だといえるのかどうかという点、などが問題になりました。
問いのアンフェアさについては、一般の言論はもちろん、研究者でもそういった間違いに陥っていることがよくあるので、今後そういう議論を評価する際にこの経験が活きることでしょう。それから、平等についても、アマルティア・センにならっていうなら、いま議論しているのは「何の平等か?」ということをつねに意識していなければ、そもそも話が通じないということも大切です(What is equality? よりも Equality of what? の方が、とりあえず重要なんですよね)。
この種の議論を、「正義」論といいますが、この40年間の正義論を牽引してきたジョン・ロールズは、(1)自由を平等に保障しろ、そのうえで、(2)機会の平等を保障したうえで、結果の平等よりも最低ラインが豊かな結果の不平等がありうるならそれを許容しろ、という「正義の二原理」というのを立てています。もし今後も、自由とか平等について考えていくならば、この議論とも何らかの形で対決していかないといけないでしょうね。
さて司会者は、「没!!」とか書いてますがw、途中で頭がついていかなくなったり、わけがわかんなくなったりするのは、自分がいいことを言おうとしすぎているとか、自分の計画に場を従わせようとしすぎている、といったことなんじゃないかと思います。もちろん、できるのであればそれに越したことはありませんが、あ、できないなと思ったら、場の流れとか、質問者の議題設定に任せてしまっていいのです。他の人にいいことを言わせるのが司会者の仕事であって、自分でいいことを言う必要はないのです。
以下、出席者のコメント