油絵というテクノロジー
しょちゅう休日になるので他の曜日に振り替えになることも多く、なかなかペースがつかみにくい月曜ですが、なかでも鬼門は学生も教員も朝起きるのが辛い2限の文コミ演習。内容は硬派に西洋美術史真向勝負で、しかも英語。新しい美術史の古典である John Berger, Ways of Seeing を1学期から読みつづけていて、現在第5章の「油絵 oil painting」論にさしかかっているのですが、これがなかなか難しい。例えば次のような文章。問題になっているにはマグダラのマリアをはじめとする「悔悛者」の宗教画なのですが、バージャーは、肉体の欲を捨てた人物が、16世紀以降の西洋絵画の中心的な技法である油絵で描かれるとき、油絵というテクノロジーに内在する特性のために、そこにはつねに肉感的なものが残ってしまうと言うのです。
西洋の伝統に属する平均的な宗教画が偽善的に見えてしまうのも、〔油絵がもつ〕同じ矛盾のためである。〔禁欲や悔悛といった〕主題の主張は、その主題が描かれる当の技法によって骨抜きにされてしまう。油絵具には、対象をあたかも手に触れることができるように描くことで、その所有者にリアルな快楽を提供しようとする根源的な傾向があって、そこから離れることができないのである。(John Berger, Ways of Seeing, Penguin Books, 1977, p. 92)
だいぶ意訳しましたが、「対象をあたかも手に触れることができるように描くことで、その所有者にリアルな快楽を提供しようとする根源的な傾向」とした部分の原文は "its original propensity to procure the tangible for the immediate pleasure of the owner"。バージャーによれば、油絵のマチエール(画肌)には、(水彩画とも水墨画とも異なる)独特の肉感性があって、商品経済に幻惑されたヨーロッパの人々を魅了した艶やかな油絵具の物質性こそが、「西洋美術」と呼ばれる近代の伝統を支えてきたというのです。
明治以降、油絵を含む西洋文明を勤勉に取り入れてきた私たちですが、艶々と輝く西洋美術の展覧会場に足を踏みいれるとき、なんというか、「お腹いっぱいで胃がもたれる」感じがするのも事実。そうした私たちの実感の由来を、これほど的確に言い当てた評論は、そう多くはありません。要は西洋と日本の根源的異質性ということ。油を摂取し、油絵を買い求め、購買可能で手に触れられそうなモノの仮象を所有しようとする欲望――それは、私たちにはなかなか実感することのできない欲望です。しかし、油絵の所有と密接に結びついた商品の欲望は、今日の私たちを衝き動かしている当の欲望でもあるのだから、「日本人はお茶漬けだ」といってすましているわけにもいかない。
……そんなことを頭の片隅におきながら目下東京で開催中のフェルメール展に行くと、油絵具というメディアが変貌して自らの物質性を喪失し、レンガや光の粒子といった別の物質性を生みだす驚くべき画布を目の当たりにして、ほとんど呆然としてしまいます。
フェルメール展 「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」http://www.asahi.com/ad/clients/vermeer/index.html
一方に、西洋美術史という制度の欺瞞を徹底的に暴こうとする果敢な批評の試みがあり、他方で、そんな批評など一瞬で雲散霧消させてしまうような、1枚のカンヴァスの輝きがある。
モダンとポストモダンの両方に責め立てられて、さあどうしたものかと思い悩む、とある秋の夕暮れでした。