銀座点描 ― 変わりゆく街の光景 ―
― 小津安二郎の描く東京 (2)
『東京物語』(1953年)の今
さて,上の写真の建物は,一体,どこの建物であろうか。これは,小津安二郎が,嘗て,『東京物語』(1953年11月,松竹)で撮った銀座の老舗デパートの,今のファサードである。『東京物語』では,「はとバス」(1948年に誕生)で銀座4丁目の交差点にやって来たと明らかに分かる光景に続き,突如,ある建物のガラス窓のアップが,こんな風に映される。それは,知っている者の眼には,銀座松屋のファサードだということが即座に分かるのだが,その松鶴マークや松屋自慢の屋上展望台などが映されることによって,松屋デパートだということが明らかになってくる。
銀座松屋のファサード 中央区銀座3丁目6-1
とは言え,東京にそう再々行く訳でもない本学の学生諸君にとっては,どうしても地理的に不案内なこともあって,それが銀座松屋であることが見て取れないかも知れない。しかし,それ以上に,東京は刻々と変化してゆく街であり,小津の描く東京は,実は,東京在住の人々にとっても,それがどこなのか,分からなくなりつつある。小津にお馴染みの東京駅丸の内の「丸ビル」や「新丸ビル」,有楽町の「日劇」や「朝日新聞社東京本社」の建物も,今はもう一変している。戦前から1950年代~1960年代を描いた小津の東京の姿は,時代的にも,遠くなりつつある「都市の記憶」であるとも言える。1990年代から,新橋・汐留,品川,東京湾岸の再開発などを始め,東京は大きく変貌し,取り分け,近年の耐震補強工事の必要性から,建物外壁の外観が変わってしまった建物も多い。この「銀座松屋」(1990年代半ばには「松屋銀座」という言い方が一般的になっている)も,いつの間にか2001年(2006年完成)に改修されたその一つだが,前回の記事で紹介したJR蒲田駅も,その様相を大きく変えている。
『東京物語』に描かれた嘗ての銀座松屋のファサードは,1960年代の東京に生まれ,一時期,宝塚や神戸に暮らした後(懐かしの宝塚大劇場や,小津も好んだ神戸元町のユーハイムは忘れ得ない),1970年代に東京に戻ってきた私の眼にも,辛うじてそれと分かるものであるが,その巨大なガラス窓が銀座の街並みを映していたという強い印象がある。日比谷・有楽町から銀座・築地にかけては,私が当時通っていた東京学芸大学附属高校をさぼって抜け出し,よく歩き回ったものであった。その甲斐あって,日劇の「白亜の殿堂」もよく覚えている。丸ビルに当時漂っていたどんよりとした空気感も,昭和の残映として記憶している。
銀座松屋は(何の関係もない「牛めしの松屋」ではない! 文コミの学生諸君よ!),1869年創業,1925年5月1日に銀座3丁目に開業し,永井荷風『斷腸亭日乘』にも描かれている銀座を代表する老舗デパートだ。そして,『東京物語』の前年,1952年当時の新聞には次のようにある。
「……銀座三丁目松屋百貨店を接収した「東京PX」が十七日午後五時限り閉鎖された。……これによって銀座の植民地色もいくぶん少くなろうとみるむきが多い。……
松屋本店長谷川取締役談
改造には半年かゝるので暮の開店には間に合うまい。本館と伊東屋ビルの三階以上とを連結,裏に出来上っている地下五階や地下鉄の口も再開して面目を一新した姿で復活させたい。」
(朝日新聞,朝刊,1952年8月18日,東京PXきのう閉鎖)
※ 「東京PX」とは,東京に設けられた進駐軍専用の売店(Post Exchange)のことである。小津の『お茶漬の味』(1952年10月,松竹)でも,銀座和光のことをこう呼んでいる冒頭シーンがある。
これは,1952年4月28日,サンフランシスコ講和条約の発効によって進駐軍が漸次撤収し,「占領下の日本」(Occupied Japan)から独立国家としての「日本」に生まれ変わってゆく時代の銀座を言い表したものである。つまり,『東京物語』の1年前,松屋は,占領軍の接収を解除されたばかりなのであった。更に,『東京物語』ロケ・ハン開始の前月,1953年5月の銀座松屋を伝える新聞記事として,
「東京銀座の松屋は,昨年十月の接収解除以来改増築工事を行っていたが,このほど完成,二十日の開店を前に十八日午前十時高松,三笠両宮様をお招きした。……高松宮さまは……松坂屋より一尺高いとかで自慢の展望台から都心を見渡されたり店内をお回りになった。」
(朝日新聞,夕刊,1953年5月18日,高松,三笠宮様松屋へ)
という記事があり,1953年に小津の描いた銀座松屋が,どの様な歴史的意味を持っていたものなのか,よく分かるのである。笠智衆,東山千栄子,原節子の三人は,1ヵ月前,新装開店直前に宮様が見渡された松屋「自慢の展望台」から,有楽町方面を眺めていたのである(ロケ撮影は,9月)。もし1ヵ月早かったなら,『東京物語』のあの映像はあり得なかったのである。
色取り取りに変化する,夜の銀座松屋
銀座松屋のファサードは,現在,アルミパネルの上に,金属金物でガラスを固定した,二重構造になっている。小津の描いた松屋とは様相を大きく変えたとは言え,表面をガラス構造にすることによって,銀座の街並みを映し出そうとする巨大なファサードであることをコンセプトにしていることには変わりはない。お洒落な建築物が軒並み建ち並ぶ今の銀座の街並みにあっては,突出した存在とは言い難くなっているのも残念ながら事実ではあるが,この銀座松屋は,実は,昨春亡くなった私の母が,大好きだったデパートでもあった。銀座の和光,三越,松坂屋にも,それぞれに思い出もあるのだが(丸井やプランタンなど,どうでもよい),銀座松屋は,小津が『東京物語』で描いた通り,今でも,東京銀座を「映す」象徴の一つなのである。
ところで,今のこのご時世,デパートへの憧れが残っているというのも,私が昭和に育ったことの証しだが,往年のデパートには,ミニチュアカーとか模型とか,ショーウインドウにずらーっと並んでいて,まさに,男の子の夢の世界でもあった。そういう世界を今でも残しているのは,銀座天賞堂がその一つであろう。『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年,東宝)には,それをもじった店が背景にちらっと出てくる。入ったら,なかなか帰れない店だ。小津の『麥秋』(1951年,松竹)では,子供たちが,32mmゲージの鉄道模型(その後主流になるHOゲージは,その半分の軌間16.5mm)で遊んでいるし,原節子も駅弁を売る真似をして調子を合わせている。『晩春』(1949年,松竹)でも,鉄道模型が登場するが,ここでは,原節子がちょっかいを出して勝手にスイッチを入れ,子供にひどく嫌がられている描き方が面白い。天賞堂で,私も,懐かしいメルクリンの鉄道模型にうっとり……
天賞堂 中央区銀座4丁目3-9