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2009年3月 アーカイブ

2009年3月 8日

火葬場の煙突 ― 『小早川家の秋』 と大堰川 ―

― 小津安二郎の描く東京 (6)  番外篇・京都


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『小早川家の秋』 の大堰川 (京都・嵐山,渡月橋から)


小津の『秋日和』(1960年)について,「東京タワー」「紅葉」「婚礼衣装」という観点から,先の記事で,アグファ・カラーの「赤色」の表す本質として述べたが,そうであるならば,翌年製作された『小早川家の秋』(1961年,宝塚映画,東宝)についても記しておかねばならないだろう。『秋日和』が東京を舞台としたものならば,『小早川家の秋』は,謂わば,京都版『秋日和』であり,「赤色」とは対称的に,「黒色」が基調となっている映画でもあるからである。秋子(原節子)と紀子(司葉子)のこの二人の結婚話が,一応の筋とはなっていることから,『秋日和』の京都版だとも言えるのだが,『小早川家の秋』は,晴れの「東京タワー」ではなく,驚かせるような題名で申し訳ないが,赤煉瓦の「火葬場の煙突」が重要な主題となっている点に於いて,『秋日和』の合わせ鏡のような,対称的な作品であると思われるのである。

「小津安二郎の描く東京」ということで,ここのところ連載を続けているが,本来ならば,色々なブログ記事の合間合間に掲載することになれば理想的なのだが,勝手ながら連発する結果となることをお許し頂きたい。尚,掲載してある写真は,全て,私が撮ったものであるが,小津の映画研究のために特別に撮ったものではなく,東京とかに行ったついでに,隙を見て,ちょこちょこっと撮ってきたものなので,お見苦しい点があらばご寛恕の程をお願いしたい。


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京都市左京区 (銀閣寺から望む)


さて,『小早川家の秋』は,初めての東宝作品(『宗方姉妹』は,1950年,新東宝)であるのみならず,宝塚映画作品であることに,一つの特徴がある。宝塚映画は,東宝の隙間を埋める形で,同じ阪急系として,『南十字星』(1941年),『極楽島物語』(1957年),『アワモリ君西へ行く』(1961年),『大菩薩峠』(1966年)などの映画を製作していた映画会社である。『小早川家の秋』は,当初から,京阪神地区を舞台とすることが決まっていたものである。

小津安二郎の描く東京を紹介するのが,本連載の私の意図ではあるが,今回は,番外篇として,京阪神の紹介をしたいと思う。私は,東京生まれの東京育ちだが,一時期,小学校の頃,宝塚と神戸に暮らしていた。こういう現象を,東京では,「隠れ関西」とも言われる。文コミの教員では,S先生も,実は「隠れ関西」である。また,B先生は,(東京下町ではなく)西東京の育ちである。その他,文コミの教員スタッフは,新潟佐渡地方や,東北地方の出自である方が,当然のことながら多いのだが,I先生はと言えば,半分京女である。こんなことを,ここで暴露しても仕様がないが,微妙に差異のある研究スタイルや,学風のちょっとした違いが,実は,この様な,生まれ育ちの地域差も,程度の差こそあれ,関係無しとは言えないことを,文コミの学生諸君なら,それとなく知っておいても良い。

佐藤忠男『映画の中の東京』(平凡社ライブラリー,2002年)は,小津の映画も含めた,すぐれた映画論・東京論の一つだが,東京人が地方に下ることを「都落ち」として正面から捉え,小津の映画に見られるこの「都落ち」(『早春』など)を論じていることには注目に値する。『伊勢物語』で,「昔男」が東に下って,「似非みやび」を糾弾する断章には,実に凄まじいものがあるが,昭和の映画史の中で,「都落ち」の映像論に言及することが可能だったのは,東京に暮らす佐藤忠男氏が,本人もその経緯を述べておられるように,新潟の出身であったことにその大きな要因があったのだろうと,私は,ほぼ間違いのない事実として確信している。私も,三代溯ると,実は,新潟である。私の姓は「猪俣」だが,新潟に多い姓でもあり,ご先祖さまが,この私を新潟に「都落ち」させたのである(亡き母も,生前そう言っていた)。

……さて,余計な前置きとなってしまったが,『小早川家の秋』(こはやがわけのあき)は,最後のシーンに見られる,原節子と司葉子の喪服の「黒」とその裏地の「白」が,眼には鮮やかなのである(但し,フィルムではなく,DVDの映像で見たものであることは,言っておかねばなるまい)。映画の最後のカットも,京都の川辺の,カラスの「黒」であることは,それまでの小津の映画にはない,謂わばショッキングな映像表現の一つだと,私の眼には見える。「赤煉瓦」の火葬場の煙突も,『秋日和』の東京タワーの「紅白」とは対称的に,ひたすらに,葬送の儀式を象徴しているように見えるのである。


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京都・四条烏丸


『小早川家の秋』は,大阪は道頓堀のネオンに始まる。しかし,小津初出演の森繁久弥の,黒と白の縞の背広には,初手から,何やら違和感を感じさせるものがある。『秋日和』に倣うようにして,大阪城の見えるオフィスビルの映像(司葉子が勤めるオフィス,東宝の白川由美が,『秋日和』の岡田茉莉子に取って代わっている)も登場するし,阪急十三駅での,司葉子と宝田明(東宝ゴジラ映画の顔役ではないか!)の会話,そして,『宗方姉妹』にも見られた京阪神の舞台を思い起こさせる京都の光景など,『小早川家の秋』は,「小津の東京」の,謂わばアナザー・ワールドの映像としてのみならず,その対称性の鮮やかさに,驚かされるのである。


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京都・東山 (『小早川家の秋』 の旅館「佐々木」)


小津が,箱根を越えて,関西方面を描くのは,そう珍しいことではない。『お茶漬の味』(1952年)では,木暮実千代が,東海道線の天竜川鉄橋を渡り,浜松,神戸方面へと向かっているし,『東京物語』(1953年)では,笠智衆と東山千栄子が尾道から上京しており,その帰りには,三男のいる大阪の鉄道線と大阪城が描かれている。『早春』(1956年)では,岡山県三石に「都落ち」する池部良と淡島千景が描かれるし,『彼岸花』(1958年)では,佐分利信が,京都から広島へ,急行「かもめ」の3号車(電気機関車+客車10輛編成)に乗って,東淀川の鉄橋を渡っている。溯って,『宗方姉妹』(1950年)では,京都(京都大学),奈良(薬師寺),神戸元町など,関西地方がふんだんに描かれてはいるが,話の中心となる舞台は,やはり,東京の大田区大森と東銀座・築地である。そんな中にあって,『小早川家の秋』が,(東京を描かず)京阪神を唯一の舞台としていることは,やはり,珍しいのである。


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京都・花見小路 (四条通・祇園へ)


『小早川家の秋』で,原節子と司葉子が語らうのは,京都・嵐山の大堰川(保津川)である。これは,渡月橋の上流域。尚,下流域は,桂川と言う。大堰川は,延喜7年(西暦907年)9月10日,宇多法皇が,紀貫之らと行幸せられ,「大堰河行幸和歌」を催した場所でもある。紀貫之は,その時,

  秋ノ水ニ泛(うか)ブ
波の上をこぎつつ行けば山近み嵐に散れる木の葉とや見む

と詠い,舟を木の葉と見立てる,古今集時代に典型的な歌を残している。『小早川家の秋』の描く嵐山は,そんな王朝的雰囲気を,今でも残しているのである。


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阪急十三駅 3番線・宝塚方面
『小早川家の秋』 の京都行き特急は,左の5番線


司葉子と宝田明が,帰りの電車を待っている駅は,阪急十三駅。十三(じゅうそう)は,梅田から出発する阪急京都線,阪急宝塚線,阪急神戸線が,淀川を西へ渡り,そこから三方面へと分岐してゆく中枢駅であり,梅田から見て,大阪の下町である。安い飲食店の並ぶ歓楽街でもあり,札幌に行くという大学教師の寺本(宝田明)の送別会に,司葉子や白川由美らが集うのである。原節子は,『秋日和』と同じく,再婚しないようだし,司葉子は,お見合いを断って,札幌に行く決心をするところが,『小早川家の秋』の結婚話としての一応の筋である。

しかし,赤煉瓦で造られた「火葬場の煙突」の煙には,小津の他の映画にはない,名状し難い感慨に襲われる。私は,昨春,東京・町屋の斎場に,母を送ったが,町屋斎場(荒川区町屋1丁目23-4)は,12基の火葬炉を持つ,都内最大の火葬場である。しかし,近年は,景観や環境への配慮などで,火葬場に煙突はない。勿論,煙も出ないように設計されている。死者の魂が,天空へと棚引いてゆくという光景は,最早,見られないのである。死者は,そのまま,地下の墳墓へと眠りに着く。

『小早川家の秋』の嵐山には,「紅葉」はない。しかし,大堰川の「川の流れ」がある。秋子(原節子)と紀子(司葉子)は,秋子に残された長男が川縁で遊ぶ姿を見つつ,そこで,将来を語り合うのである。死者と生者との,どうしようもない非連続性(断絶)を,いやという程感じつつも,そこに,僅かに,連続性(生命の連鎖)を見出すのである。二人の喪服(小早川万兵衛の死)の「黒」と「白」の色合いに,『秋日和』の「赤」と「白」との対称性にはっとしつつも,『秋日和』の「紅葉」に相当するものが,京都・嵐山の「大堰川」(おおいがわ)の流れにあったことに,行方は西の山なれど,眺めは四方の秋の空,一筋の光明を見る思いがするのである。


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桂川 (大堰川の下流域)  阪急京都線の車窓から


2009年3月 9日

都市空間の点と線 ― 有楽町 ・ ロケ地狩り ―

― 小津安二郎の描く東京 (7)


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有楽町2丁目2番と3番の間  『早春』(1956年)の光軸


小津の絶対不動の(パンしない)カメラ,そして,さして広角でもない50mmのレンズ,そんなカメラが捉える東京の光景は,都市空間の点と線を切り取っているかのようである。川島雄三の『銀座二十四帖』に見られるような,京橋から新橋まで,銀座八丁を舐めるように空撮した映像や,ゴジラ映画によく見られる,(実景かミニチュア・セットかの別を問わず)都市空間の俯瞰映像のように,まるで,地図の図面を眺めるかのような映像と,実に,対照的である。

小津のカメラは,一体どこを撮ったものなのであろうか,刻々と変化する東京にあって,それは,50年前の東京を再現するに等しい。現在でも同じような光景が見られる地点は,僅かに過ぎない。だんだん遠くなる記憶の中で,記憶の錯誤も往々にして起こり,各種の写真集,新聞各社のフォト・アーカイヴ,新聞データベース(紙面に掲載されている報道写真),航空写真(国土地理院)など,残された記録によって裏付ける必要もある。

小津の映画のロケーションは,監督を始め,撮影に携わったスタッフの残した日記や証言が重要な手掛かりにはなるのだが,それだけでは十分ではない。脚本も,当てにならない。『宗方姉妹』に登場する鉄道高架線は,脚本では「大森駅附近」とあるのだが,1950年当時から,大森駅というのは現JR京浜東北線の駅しかなく,映画に見られるような高架は存在していなかった。また,3輛編成での運行列車も同線では特定できないし,車輛の形状も,旧63系とは異なる。私は,東急大井町線か池上線辺りであろうと睨んでいるのだが,小津の車輛走行シーンの中で,走行区間を特定するのが難しい部類に入るだろう。

また,小津は,時々,ヘンな車輛をカメラに収めている。『早春』の中で,淡島千景が蒲田の線路脇の道を歩いている時に,事業用配給車クル92形+モヤ11形の2輛編成の車輛が通過するカット(例によって,車輛の下半分しか映っていないが)を入れているのである。クル92とは,1952年に5輛だけ製造された配給制御車である。旅客車輛ではなく,国鉄のお仕事用の専用車輛である。厚田雄春の遊び心なんだろう。小津のロー・アングル・ポジションでは,線路の敷設状況も殆ど見えないので,架空電車線(地中に対して架空と言う,架線)や並走する架空送電線,そして,それらの架線柱の形態から,おおよその区間を推定することになる。

ロケーションを確定することが,どのような意味を持つのか,それは,ある程度は事前に予測しつつも,それは,調べてみてからの話だと,私は思っている。しかし,小津の映画にとって,相当に重要なものだということは言えるだろう。

さて,冒頭に掲げた写真は,有楽町2丁目2番と3番の間で,晴海通りから,ある通りを覗いたものである。それは,小津の『早春』(1956年)に出てくる通りである。小津は,この通りから,晴海通りの方向を撮影した(写真の方向とは,180度逆の方向)。ここは,ニュートーキョービル(1937年開業のビヤホール「ニユー・トーキヨー」)の北側に隣接する通りであり,通りの名は,私は知らない。映画では,左手に「割烹 九重」の看板が見えるが,現在ある九重会館ビル(写真では右手)と,何らかの繋がりがあるかも知れない。この通りから,小津のカメラのレンズは何を見ていたのか。それは,朝日新聞社東京本社であった。


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日劇と朝日新聞社東京本社の跡地  現・有楽町センタービル(有楽町マリオン)


それは,有名な建物であったから,それをちらっと垣間見させるだけで,そこが有楽町であるということを示す映像となり得たのだが,有楽町センタービル(1984年竣工,通称有楽町マリオン)に建て替わってからは,『早春』の1956年当時の姿を知る術として,この朝日新聞社東京本社の当時の建物の写真や航空写真などから,どの通りから撮影したものなのか再現するしか方法がない。下の写真は,(冒頭の写真から少し退いた)この小津のレンズの光軸線である。180度振り向いて撮った写真が,上の写真の有楽町センタービルである。


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ニュートーキョービルと九重会館ビルとの狭間


ニュートーキョービルは,有楽座(TOHOシネマズ有楽座,旧・ニュー東宝シネマ)が入っている建物でもあり,ビアホール「ニユー・トーキヨー」は,フランスの名作『天井桟敷の人々』を見た後など,1980年代,私もよく立ち寄ったものだ。まだ,シャンソン酒場「銀巴里」があった頃の銀座である。銀座1丁目の田中貴金属側から,銀座8丁目の博品館側まで,少なくとも週に2~3度は,銀座で食事をしたものであり,明治屋の西洋高級レストラン「モルチエ」や,4丁目日産の「モンセニュール」(カモ料理が絶品だった),和光別館のティーサロンなど(現在は,もう既にない店であるか,もしくは,様相は一変している),友人たちや,時には独りで,時には父母と,よく食べ歩いたものであった。時代はバブル期であったが,手元不如意な時には,有楽町高架下や,新橋の烏森口にも行った。東宝特撮『マタンゴ』(1963年)にも登場する不二家には,流石に行かなかったが,数寄屋橋交差点の銀座不二家は,有楽町駅を降りて,最初に眼にする巨大ネオンであった。


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数寄屋橋の銀座・不二家のネオン


ところで,JR有楽町駅を降りた人の流れは,現在では,おそらく,印象だが,昔とは変わっている。今は,中央口の前に,丸井(有楽町イトシア)ができて,東京交通会館との間に,人が流れている。少し前までは,銀座口から,有楽町マリオン(阪急と西武の間の通り)に人が流れ,銀座中心部へと向かって行った。更に,もっと昔はと言えば,銀座口から,日劇の脇(西側)を抜けて,晴海通りに出たものであった。先の記事で紹介した有楽町高架線の前から,ニュートーキョーの向かいにかけて,人々が往来し,『ALWAYS 続・三丁目の夕日』のロクちゃんも,そこを通っていたのである。しかし,その辺り(有楽町阪急の西側)は,今では,風が吹き抜けてゆくばかりである。


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JR有楽町駅・銀座口


有楽町センタービルは,復活版『ゴジラ』(1984年)に,初めて登場した。復活ゴジラ(身長80m,体重5万t)の映像の特徴は,有楽町マリオンの窓ガラスに,ゴジラの姿が,まるで姿見の鏡のように,映し出されることである。有楽町センタービルは,この同じ1984年に,竹中工務店によって施工された,地上14階建てのビル(1F~7Fの吹き抜けが,高さ28m)で,ハーフミラーガラスとアルミのファサードは,元々,周囲の情景を映し出すスクリーンとして意図されたものであった。このガラス窓に映ったゴジラの姿は,オキシジェンデストロイヤーによって死んだ,30年前の1954年の初代ゴジラの霊かも,知れないのである。つまり,復活ゴジラと,初代ゴジラの,2体が,鏡像として存在した,ということである。謡曲『松風』の,「月は一つ,影は二つ…」とあるように,2体のゴジラの影が,ある瞬間,実在したのかも知れない。この数寄屋橋での光景は,1954年に,まさに初代ゴジラが通った場所であり,その亡き跡とえば,まことなるかな,いにしえの,跡懐かしき景色かな… 跡懐かしき景色かな…,なのである。

さて,『早春』の捉えた,小津のレンズの光軸を,東京空間に切り取られたの点と線のうち,「線」の一つとして,ここに紹介した。有楽町2丁目の,ニュートーキョービル北側の通りから,朝日新聞社東京本社にかけて貫かれた「光軸」が,小津の映画の映像論的特質の一つだったのである。では,「点」とは,何を言うのであろうか。次回,「小津安二郎の描く東京(8)」で,紹介したいと思う。


2009年3月10日

銀座教文館 ― 銀座四丁目の交差点 ―

― 小津安二郎の描く東京 (8)


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銀座・教文館


銀座教文館(中央区銀座4丁目5-1)は,1885年(明治18年)の創業,永井荷風『斷腸亭日乘』にも登場する,銀座の老舗書店である。現在の位置に定まったのは,1906年(明治39年),今の建物が竣工したのは,1933年(昭和8年)とのことである。キリスト教の日本伝道と共に歩んだこの本屋は,キリスト教関係の和洋書を扱う国内有数の輸入書店であり,私自身は,キリスト教とは何の縁もないが,いやしくも西洋を視野に入れた研究者を目指していた学生時代の頃,『ウルガータ』(Vulgata,ラテン語訳聖書,トレント公会議で承認)や,カール・バルト『キリスト教倫理』,そして,(そんなところまで溯らなくともよさそうなものだが,今は亡き私の恩師の一人・森安達也先生の薦めもあり)『ギルガメシュ叙事詩』などを買い求めたのが,銀座の教文館であった。

森安先生は,スラヴ文献学が狭い意味での専門であったが,私は,学部と大学院を通して,9年間,ラテン語を教わった。イエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノによる,トレント公会議体制下のルネサンス文化(キリスト教的修辞学)の日本への波及を,科研費研究として行なったのを最後に,私は,近世ラテン語文化の研究を中断し,ゴジラ映画史研究へと,方向転換した。私は,『古今集』など王朝歌学とルネサンス詩学の比較が専門であったが,それらの研究から得ることができた知見を,何とか最大限に生かしつつ,ゴジラ映画やその周辺の日本映画(小津安二郎もその一環である)の映像詩学を追求したいと考えるに至ったのである。

さて,教文館は,小津の『晩春』(1949年),『宗方姉妹』(1950年),『お茶漬の味』(1952年),『東京物語』(1953年),『彼岸花』(1958年)に,時に和光の建物の陰に隠れるようにして,登場している本屋である。和光や丸ビルに負けず劣らず,小津の映画での登場頻度は,極めて高いと言えるだろう。小津の映画の登場人物は,しばしば,洋書・洋雑誌を読んでいる。原節子などは,いつも,岩波文庫を読んでいる。『宗方姉妹』で,元満鉄にいたという,癌に患っている宗方の父親(笠智衆)が読んでいるのは,何と,「THE ATOMIC BOMB」という英語の冊子である。私など,そこに,ゴジラ映画との歴史的因縁を感じると同時に,これは,教文館から取り寄せた雑誌ではなかろうかと,想像を逞しくするのである。

ところで,『彼岸花』に,「ビクターテレビ」の広告塔が登場する。小津の映画の登場人物は,往々にして,テレビをあまり好んでいないようだが(それに,家にあったとしても,殆どスイッチが入れられない),それなのに,「ビクターテレビ」の広告塔が,謂わばけばけばしく,登場するのは興味深いことである。この広告塔があったところが,実は,銀座教文館の屋上なのである。映像を注意して見れば,「BIBLE」という文字が建物側面に見えることなどから,それが,教文館であることが分かるのだが,毎日新聞社の写真アーカイヴ(毎日 Photo Bank,「銀座 教文館屋上のビクターのネオン塔」,1958年5月)や,池田信『1960年代の東京―路面電車が走る水の都の記憶』(毎日新聞社,2008年)の写真などから,そのことを確定することができる。また,映画の左端に見える「場」の字は,嘗ての「銀座文化劇場」の看板の一部だろうか。


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銀座三丁目の信号機


冒頭に掲げた教文館の写真(2009年1月撮影)では,広告塔は何も設置されていない。しかし,屋上に鉄の枠が見えるであろう。これは,小津の映画に見られるものと,同じ形状の鉄枠である。ここは,銀座四丁目だが,前にある銀座通り(中央通り)の交差点の信号機は,地獄の…いや,失礼…銀座の三丁目の表示である。ところで,2006年12月に私が撮影した銀座の写真の中には,「AMERICAN EXPRESS」の広告塔が,教文館屋上に設置されている光景がある。それが,下の写真である。


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教文館屋上 (2006年12月)


1958年の『彼岸花』の時には,ここに,「ビクターテレビ」の広告塔があったということなのである。小津は,無言のまま,1950年代の東京の「hic et nunc」(今,ここに)を,確実に映像化していたのであり,それが,東京の地理学の「点」と「線」となって表現されているのである。それらの,歴史的・地理的意味を知ることができたなら,(別に知らなくても,映画を自由に楽しむことはできるが)小津の描いてくれていた東京を,もっともっと享受することができるであろう。私は,そう思う。


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銀座四丁目交差点  世界一有名な交差点


銀座を色々と紹介しながら,四丁目交差点の角に建つ,あの建物がないのは,やはり寂しいだろうか。あまりにも有名だから,これまで触れてこなかったが,和光(服部時計店)は,既に改修工事を終え,2008年11月22日にリニューアルオープンしている。現在の建物は,二代目で,1932年竣工(初代は,1894年竣工)。銀座のデパートで,小津の映画にもゴジラ映画にも登場しているのは,この和光だけだ。


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銀座・和光 (リニューアル後の現在)


川島の『銀座二十四帖』(1955年)では,有楽町に建設中の有楽町そごうが映っており,大丸(東京駅)に加えて,銀座松屋,三越(銀座店),松坂屋(銀座店)が紹介されている。銀座四丁目交差点附近の四つのデパートの中で,小津が描くのは,和光と松屋,ゴジラ映画が描くのは,和光と松坂屋。三越は,小津にもゴジラにも,カメラを向けてもらえないようである。

下の写真は,リニューアル前の和光である。建物外観に変化はない。現代的なガラス構造の外壁を用いて,生まれ変わってゆく松屋と違って,このネオ・ルネサンス様式と言われる和光の建物は,形を変えてしまったら,銀座が変わってしまうのである。


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銀座・和光 (2006年12月撮影,リニューアル前)


2009年3月12日

東京駅八重洲 ― 花も風も街も みんなおなじ ―

― 小津安二郎の描く東京 (9)


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東京駅・八重洲口 (2008年3月撮影)


東京駅は,先の記事でも紹介したように,既に開業していた(官設)新橋駅と(私設)上野駅を結び,日本縦貫鉄道の「中央停車場」として計画され,1900年(明治33年),市街高架線の工事に着手,1908年,駅舎工事が開始され,仮駅・呉服橋駅(1910年開業,高架線完成)を経て,1914年(大正3年)12月,「東京駅」という名称が直前になって決定され,開業した(プラットホーム4面8線)。しかし,この時,今の八重洲口には,駅舎も乗降口もなかった。宮城側(きゅうじょうは皇居のこと,丸の内側)に駅舎があるのが,当然のことであったからだ。商業地区である日本橋側に駅舎はなく,日本橋・京橋へ行くためには,丸の内を降りて,ぐるっと駅を迂回していた。八重洲(やえす)側に出入口ができたのは,1929年(昭和4年)12月になってからのことである。

1954年の『ゴジラ』では,外堀通りが,その名の通り,まだ「外濠」(水がある)であった光景が描かれているが,東京駅八重洲口前の外堀通りの「外濠」が埋め立てられてゆくのは,1947年頃である。その頃までは,八重洲口の小さな駅舎を出た降車客は,「八重洲橋」を渡り,日本橋方面へと向かって行った。八重洲口に新駅舎が完成・開業するのは,『ゴジラ』と同じ年(1954年)の10月14日である。地上6階,地下2階建てのこの新駅舎(東京駅八重洲本屋・鉄道会館)は,「民衆駅」(駅と店舗の複合施設。戦後の駅舎復旧のため,地元民間資本を導入して,それに見合う床面積を商業施設とした)として,同年10月21日,大丸百貨店が開業した。川島雄三の『銀座二十四帖』(1955年)に描かれた東京駅八重洲の大丸百貨店は,こうやって関西から進出したばかりのデパートをいち早く紹介したものである。八重洲口新駅舎は,その後,1968年6月30日,12階建てに増築竣工されている。

小津は,東京駅の「丸の内」側ばかりを専らに描いている監督で,『彼岸花』(1958年)冒頭の東京駅のシーン,続く,東京ステーションホテル(1915年開業)での披露宴のシーンでも,丸の内側ばかりを描こうとする。が,ワン・ショットだけ,珍しく,「八重洲」側を撮している場面がある。なかなか気付かないのだが,当時の大丸百貨店の裏側が少し見えるシーンだ。小津は,銀座・築地方面を好んで多く描くのに,東京駅八重洲側の日本橋・京橋方面には,不思議なことに殆どカメラを向けようとしない中にあって,『彼岸花』のこの一瞬のカットは,極めて珍しい。清洲橋を撮っていても,脚本では,「築地」と言っているのだから,東京駅から東の日本橋・茅場町方面は,戦前の『一人息子』(1936年)で描いた(永代橋を渡るまでのシーン)のを最後に,戦後の小津が「描かなかった」東京なのである。描かなかったと言えば,浅草も,その一つである。

東京駅周辺は,丸の内側も含めて,再開発が急速に進んでいる。現在の丸ビルは,2002年9月に,新丸ビルは,2007年4月に,それぞれ新しく竣工しているし,『秋日和』にも出てきた東京中央郵便局の建て替えについては,昨今のニュースになっているところでもある。東京都庁は,1991年4月,既に,丸の内から西新宿へ移転しており,『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)ですぐに壊されたが,いずれも,私が新潟に赴任した後のことである。

八重洲側については,2007年3月,サピアタワー(地上35階),同年11月,グラントウキョウ・サウスタワー(地上42階)が竣工し,2007年10月31日に竣工したグラントウキョウ・ノースタワー(地上43階,2013年春,第2期完成予定)には,大丸百貨店が,その11月6日に移転した。2013年には,グランルーフ(大屋根)が完成予定であるから,何の気なしに撮った上の写真(2008年3月撮影)も,今となっては貴重な記録写真となる。この建物(鉄道会館,旧大丸)は,解体されるのである。小津の切り取った東京の光景が,一つまた一つと,消えてゆく。

大丸は,それまで,八重洲口の中央改札の前にあったから,新潟に向かう新幹線に乗る前に,ちょこっと買い物をするのにも便利だった。東京駅は,まだ工事中の所が多いが,駅そのものが,新しい一つの街になろうとしている。国際観光会館(現グラントウキョウ・ノースタワー)から,丸善,高島屋にかけての雰囲気もだいぶ変わった。丸善も,旧本店が日本橋店となり,丸の内オアゾの方が本店と称している。昔あったものが,どんどん無くなっており,私も,「帰京」している積もりが,「上京」しているのと同じになっている。

大丸と言えば,関西から東京に進出したデパートだが,その神戸店は,神戸元町商店街を東に抜けた所に,今もある。元町通りは,西端の6丁目に,嘗て三越があり(今はない),東端の1丁目には,ユーハイム本店があり,バウムクーヘンのみならず,そこのエビフライは,当時の小学生にとって,贅沢な「ご馳走」だった(現在のユーハイムのレストランに,この様なメニューがまだあるかどうか知らない)。ユーハイムを過ぎると,そこが,大丸神戸店だった。阪急の花隈,あるいは,神戸高速鉄道の元町で降りて,元町商店街に行ったものだ。小学生の頃,関西に暮らしたことのある私には,この様な,40年程前の思い出も残っているのだが,『秋日和』と同様,『小早川家の秋』の原節子のアパートにも,ユーハイムの包みが登場するのは,実に感慨深いのである。それにしても,小津が初めてユーハイムを知ったのは,どこなのだろうか。


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浅草寺


話を,東京に戻そう。ところで,小津が浅草を描かなかったというのは,不正確な言い方になろう。『早春』(1956年)で,池部良や加東大介ら,戦友たちが集っていたのは,「仁丹塔」があった所だからだ。浅草公園六区は,『キネマの天地』(1986年)にも再現されているように,松竹直営の「帝国館」があり,嘗て,「凌雲閣」(十二階)という塔があった。それを模して作られた広告塔が,(薬の仁丹の)仁丹塔である(今はない)。これは,田原町にあったものであり,浅草(旧浅草寿町)ではあるのだが,池部良ら東宝の俳優が「ツーレロ節」を歌う姿は,『暁の脱走』(1950年,東宝,池部良・山口淑子主演)の中国戦線で歌われる「ツーレロ節」のシーンを踏まえたものであるように感じられるものであり,『早春』の戦友たちが浅草にいることを忘れてしまいがちなのである。

『早春』の冒頭で,下の「冠」とだけ見せたネオン広告塔を,小津は登場させる。これは,六郷川(多摩川)河川敷に当時あった月桂冠の広告塔であり,東京23区の最も南,大田区蒲田が『早春』の舞台であることを示している。「仁丹塔」も,それと同じ手法で登場しているのであり,江戸・東京を代表する浅草寺を以て,浅草を表現しないのは,小津の常套的な手法なのである。熊井啓の『忍ぶ川』(1972年,東宝)のようには,浅草を描かないのである。小津から50年経った今だから言えることも多いのだが,それにしても,広告塔などは,建造物の中でも,泡沫(うたかた)の存在である可能性が高いことは,小津も分かっていたはずである。しかし,この様な看板やポスター(日展の赤いポスターなど)をしばしば登場させていることに,小津の大きな特徴があり,確かに存在した過去の現実の記憶として,逆に,極めて興味深いのである。但し,今となっては,調べなければ分からないことがたくさんあることを(調べれば分かることがたくさんあることを)自覚する必要がある。


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ここは,どこでしょう?


小津の描いた東京は,その姿を変えたもの(消えてしまったもの)が非常に多いのだが,一方,数は少ないながらも,小津の描いた関西は,京都の東寺だとか,奈良の薬師寺だとか,寺社仏閣が,眼に着く。広告塔の対極にあって,寺社仏閣は,(塗り替えや補強工事はあっても)基本的には,その姿も変えないし,消えないものである。ここに,古都の永続性(有常)と,(江戸ではなく)泡沫の現代都市(無常)としての東京が対比されてしまい,小津の東京観の如何を解釈する余地が生まれたり,また,小津が,東京の光景を,全体ではなく,その一部だけを「垣間見させる」映像を特徴としているために,断ち切られた東京などと言われることがあるのである。しかし,いくらその姿を変えようとも,また,消えて無くなってしまおうとも,それらが,確実に存在した過去の歴史(記憶,思い出)は消えないのである。そういった,過去の現実を再現してみるならば,小津の映像世界の中からは,真新しかった看板や,戦後サラリーマンの憧れの的だった(旧)丸ビルや,高度経済成長期へ向かう日本を支えた国電73系の走行音が,必ず,溢れ出てくるはずなのである。(上の最後の写真は,浅草の仲見世通りです。雷門の風鈴や浅草のりの缶が,見えますか……)


2009年3月13日

勝鬨橋と月島の娼婦 ― 『風の中の牝雞』と戦後日本 ―

― 小津安二郎の描く東京 (10)


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隅田川を挟んで月島を望む (築地7丁目から)


月島は,NHK朝の連続ドラマ『瞳』(既に放送終了)の舞台となった,東京都中央区の元埋め立て地である。町名としては,佃,月島,勝どき,豊海町であり,隅田川最下流の勝鬨橋(かちどきばし)を有する,築地の隣町,都営大江戸線も貫通して,江戸・東京の有数の名所でもある。四方田犬彦『月島物語ふたたび』(工作舎,2007年)としても描かれた所で,江戸開府の折に,家康が三河から連れてきた漁師たちによって築かれたとも伝えられ,その佃島には,嘗て,石川島(播磨)重工業(石川島造船所,1853年創設)のあった所だ。石川島重工業は,蒲田で日本初のディーゼルエンジンを開発した新潟鐵工所(1921年,蒲田工場設置,2001年破綻)とも関係があり,軍艦や航空機を製造していた企業でもある。

小津は,この月島を,実に,感動的に描いているのである。先の記事でも予め少し触れておいたが,佐藤忠男『映画の中の東京』(平凡社ライブラリー,2002年)の指摘にもあるように,『風の中の牝雞』(1948年)の佐野周二と文谷千代子の遣り取りには,敗戦直後の日本の情景が,抑制しつつも,実によく表れているのである。私は,感動的な作品を挙げるとすれば,『忍ぶ川』(1972年,東宝)の他には,この『風の中の牝雞』を第一に数えるであろう。この映画のワン・ショットには,ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(上・下,岩波書店,2004年)の詳細なレポートも,足下にも及ぶものではない。

『風の中の牝雞』は,子供の病気のため,やむなく月島の曖昧宿(売春宿)でその身を売った雨宮時子(田中絹代),その後に戦地から復員した夫の修一(佐野周二),そして,家族を支えるために身を鬻(ひさ)いでいた娼婦・小野田房子(文谷千代子)をめぐる話だが,「復員兵」や,「戦争未亡人」や,(保険制度も未だ整わぬ状態で)売春を余儀なくされた婦女や,そして,「浮浪児」(戦争孤児のことだが,当時はこう呼ばれた)を描いた『長屋紳士録』(1947年)など,戦後すぐの小津の映画には,敗戦直後の日本の状況が,静かに,ある種の抒情性をも喚起しながら,描かれている。それは,溝口健二の『赤線地帯』(1956年,大映)や,川島雄三の『洲崎パラダイス 赤信号』(1956年,日活)とは,やや次元と言うか品が異なるものでもある。

戦後のみならず,帝国日本が大東亜共栄圏の実現を夢見て(「図南の夢」),その先陣として,多くの「からゆきさん」が南洋に渡ったことも,1970年代に本格化した南洋史研究(東南アジア研究)で,広く知られるに至っている(山崎朋子『サンダカン八番娼館』,文春文庫,2008年(1975年初版)と,熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』,1974年,東宝)。また,1958年,売春防止法が適用になったが,一方では,永井荷風原作の『濹東綺譚』(1960年,東宝)のような,江戸期以来の謂わば粋な「花柳小説」の系譜を汲むものもあるが,一方では,敗戦国日本の現実を,静かに描いた,小津のような映画もあった。抒情性というのは,よくある誤解を避けるために言っておくが,風流の謂とは直接の関係がなく,また,日本の詩学では,社会的な事実の告発というより,主情性に重きが置かれる傾向を持つものである。

『風の中の牝雞』で,修一は,妻の行ないを確かめるために,自分の住んでいる江東区から,月島へ渡る。渡っている橋は,映画に見られるように,橋の中央部を通過する23番系統の都電の運行経路と,橋の欄干の形状から,当時の相生橋であることが分かる。脚本でも,ここではロケ地通り,素直に,「相生橋」とある。月島を中央に走る清澄通り(『秋日和』の清洲橋に繋がる)をひたすら歩いて,修一は,妻が一度だけ身を売ったと聞いた曖昧宿に辿り着く。

そこで話を聞いた相手が,娼婦の房子であるが,房子は,部屋の窓から隣にある小学校の校庭を見ながら,自分がその小学校の卒業だと語る。それは,恐らく,月島第二小学校(中央区勝どき1丁目12-2)であろう。房子を抱かずに,金だけ渡して出て行った修一と,この房子は,勝鬨橋の袂で,偶然にもばったりと出くわす。房子は,客待ちをしている間,陽の当たる,この隅田川の河岸で時間をつぶしているのだと言い,弁当を食べながら,修一(佐野周二)と房子(文谷千代子)との会話が続く。この一連のシーンは,ここではこれ以上の紹介はしたくないので,是非,映画を見てもらいたい。この二人が並んで遣り取りする構図は,小津によく見られるお得意のものであるが,私には,『東京物語』その他の作品よりも,憐憫の情を感じる。それは,老夫婦という普遍性よりも,戦後の混乱期の特殊性を,この二人が背負わされているからである。現代の平和な世の中に生きられた人ならば,背負わなくても済んだ苦しみだからである。小津は,それを,隅田川の流れと共に,芸術作品として濾過している。


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勝どき1丁目(晴海通り) 左端の建物が,月島第二小学校


上の写真は,勝鬨橋を築地側(西岸)から月島側(東岸)に渡った所。正面に見えるのが,勝鬨橋で,この通りは,銀座から一直線に続く晴海通りである。この晴海通りは,清澄通り(この写真では,後ろになる。都営大江戸線・勝どき駅の真上に当たる)と交差する。写真の左端に茶色く見える建物が,月島第二小学校の校舎である。その前にあるのは,勝どき橋南詰バス停。『風の中の牝雞』の曖昧宿は,小学校の校庭が見える位置なので,この左手奥の一本筋違いの通り附近に設定されていたはずである。下の写真は,もう少し後ろに退いて撮った写真。


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勝どき1丁目の信号と月島第二小学校


『サンダカン八番娼館 望郷』は,実に深刻な歴史の裏側を描いている映画であり,その主演の田中絹代が,『風の中の牝雞』の修一の妻・時子役でもある。有名な階段落ちのシーンは,浅草の曲芸師にやってもらったのだそうだが,学生が唖然とするのも無理はないシーンでもある。しかし,戦前と戦後の(断絶や忘却ではなく)連続性を体現している田中絹代のような存在は,小津を含む日本の映画史にとって,極めて重要なものであったことは,定説であろう(川本三郎『今ひとたびの戦後日本映画』,岩波現代文庫,2007年)。


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勝どき1丁目13番の河岸


上の写真は,月島の河岸(勝どき1丁目13番)から,勝鬨橋の東半分を見たものである。丁度,この場所に(もう数メートル下流寄りであるかも知れないが),佐野周二と文谷千代子の二人は座っていたのである。月島側から,当時は,小津の映画にも登場する築地本願寺(『長屋紳士録』,『彼岸花』)や,聖路加国際病院の礼拝堂(『宗方姉妹』,『彼岸花』)を望むことができ,川島雄三の『洲崎パラダイス 赤信号』冒頭にも,1956年当時の勝鬨橋からの眺めが見られるのだが,現在では,高層ビルが建ち並び,見通すことはできない。写真の白い高層ビルは,聖路加ガーデンのツイン・タワー(47階・38階,中央区明石町8-1)であり,東京新阪急ホテル築地のある建物である。戦後間もない『風の中の牝雞』の1948年当時とは,光景が一変しており,隅田川のウォーターフロントとして,今では,見違えるようにきれいに整備されている。

隅田川の東岸は,「濹東」という言葉によって,その文学的・地理的コノテーション(玉の井や洲崎の遊郭)が端的に示されているが,修一と房子が並んで座るのは,西岸(築地側)ではあり得なかったのである。この二人は,月島側から隅田川を眺めるしかなかった,それが,宿命でもあったのである。永井荷風原作の『濹東綺譚』(1960年,東宝)にも,白鬚橋と共に,隅田川が描かれているが,『風の中の牝雞』の描く隅田川は,(白鬚橋より下流だからというのではなく)まるで,行きつ戻りつしているかのように,ゆっくりと流れてゆく。

勝鬨橋そのものについては,以前の本ブログ記事でも写真で紹介したので繰り返さないが,私が亡き母と一緒に訪れた最期の橋である。この橋の名前は,日露戦争の戦勝を記念して設置された「勝鬨の渡し」に由来するが,この景気の良い名前(かちどきは,エイエイオー)の橋は,1940年(紀元2600年)に完成し,清洲橋,永代橋と共に国の重要文化財になっている国内唯一の二葉式跳開橋として,その力強い姿には,励まされるような元気を与えてくれるのも確かだが,一方では,一人の女性の姿に表現された敗戦の悲惨さを,強烈に浮き立たせてもいる。橋とは,そもそも,能舞台の「橋掛かり」にもあるように,彼岸と此岸を結ぶものでもあり,この世の出会いや別れを象徴しているのである。


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隅田川と勝鬨橋


2009年3月19日

松竹キネマ蒲田撮影所跡地 ― 花咲く蒲田の記憶 ―

― 小津安二郎の描く東京 (11)


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松竹キネマ蒲田撮影所 (ジオラマ模型,大田区)


大田区蒲田は,1920年(大正9年)から1936年(昭和11年)まで,松竹キネマ合名社の設立(1920年,創業は1895年)に伴って,蒲田撮影所が開設され,大船に移転するまでの17年間,約1,200本の「蒲田調」とも言われる映画が製作されていた所だ。本連載の最初の記事「小津安二郎の描く東京(1)」でも少しご紹介したが,その跡地をもう少し詳しく見てみたい。

当時の東京府荏原郡蒲田(現・東京都大田区蒲田)の,9千坪の広さの土地に建設された撮影所の跡地は,高砂香料工業(1920年設立,現本社はニッセイ・アロマスクエアにある)の工場地を経て,現在は,大田区による蒲田駅周辺の土地区画整理事業の再開発によって,「アロマスクエア街区」が設けられ(1998年竣工),「ニッセイ・アロマスクエア」(日本生命関連会社のビル)と大田区民ホール「アプリコ」になっている。当時の撮影所の様子は,『キネマの天地』(1986年,松竹)で,往時を偲ばせるとも言われるセットが再現され,浅草六区の「帝国館」,撮影所の「松竹橋」,小津と思しき監督の「うなぎ屋」などと共に,映画史の史実の一端をなぞっている。


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大田区民ホール・アプリコ (大田区蒲田5丁目37-3)


大田区民ホール「アプリコ」(蒲田5丁目37-3)の,1階メイン・エントランスを入った左手に,「松竹橋親柱」(本物)があることは,先の記事でも写真を紹介したが,「松竹橋」とは,当時,撮影所正門前に流れていた逆川(さかさがわ)に架かっていた小さな橋のことである。『キネマの天地』で使われたレプリカの方は,アロマスクエアの公園にあるが,現存しないと思われていた本物の親柱が,鎌倉に残っており,1998年,区民ホール竣工の年に,大田区に寄贈,設置されたものである。ホール地下1階には,大船の鎌倉シネマワールドに展示されていた撮影所のジオラマ模型が,1999年に松竹より大田区が寄贈を受け,展示されている。特別な展示室があるという訳ではなく,階段を下りたロビーに,一つ,どんと置いてある。それが,冒頭に掲げた写真であり,撮影所の位置図と配置図で説明されている。


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松竹キネマ蒲田撮影所・位置図


撮影所が,先ず,どこにあったのか探ってみよう。上の写真は,上下縦(上が北)に数本走っている線が,京浜東北線で,黒い四角形が,JR蒲田駅である。その右の縦長の青い四角形が,大田区役所。その右に広がっている黄色い部分が,松竹キネマ蒲田撮影所である。この位置図では,大田区役所の中央から東に延びている道路線上が,撮影所の北辺ということになる。


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大田区役所 (正面)


上の写真は,蒲田駅東口の通りから,大田区役所の正面を見たところ,180度振り返って見たのが,下の写真。ニッセイ・アロマスクエアの正面が見える。このラインが,撮影所の敷地の北辺である。


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アロマスクエア (大田区蒲田5丁目37番)


撮影所の正門は,どの辺りであったろうか。だいたい,下の写真の辺りではないかと思われる。ここを,70余年前,若き小津安二郎が通っていたのである。


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松竹キネマ蒲田撮影所の「正門」辺り


下の写真は,撮影所の配置図であり,蒲田駅方向から見た図面,つまり,上が南,下が北(蒲田駅寄り)で描かれている。図の中で,①が「正門」,その手前に,「松竹橋」がある。②が,「No. 1 ステージ」,⑭とある一番奥の立派そうな建物が,「本館」である。いずれも,『キネマの天地』にも登場した建物で,城田所長(松本幸四郎,城戸所長が実在の名前)らがいた所が,「本館」の建物であろう。


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松竹キネマ蒲田撮影所・配置図 (左部分)


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松竹キネマ蒲田撮影所・配置図 (右部分)


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松竹キネマ蒲田撮影所 「本館」 (南側面,ジオラマ模型)


ところで,蒲田とは,どういう所であったのだろうか。小津が,蒲田について,書いているものがある。その一つが,1930年9月29日,「都新聞」に掲載された「殺人綺談」という小品である。

「撮影所の所在する新開地――安い白粉と馬糞。葱とウドン粉。踏切に焼き鳥屋。
晴た日なら,会社のロケ・バスが脇臭の匂ひをまきちらし,降れば降つたで,泥,泥,泥の街。
停車場から撮影所に通ずる路の曲り角。」
(小津安二郎著・田中眞澄編『小津安二郎「東京物語」ほか』,みすず書房,2001年,2頁)

蒲田時代の小津が書いたもので,「泥の街」というのが,蒲田のことである。東京府荏原郡蒲田村(1922年,町制施行後,蒲田町)は,1932年(昭和7年)10月,東京市に編入されて蒲田区となり,1947年(昭和22年)3月15日,大森区と一緒になり,大田区(大森と蒲田から一字ずつ取った。東京23区の中で面積は第1位)が誕生して,現在に至っている。小津が上の文章を書いたのは,蒲田が,まだ東京市(今の東京23区)に編入される前のことであった。蒲田は,隣接する矢口,六郷,羽田と共に,「海の南郊」とも呼ばれた,東京の場末の下町である。小津は,それを,「新開地」と言っている(例えば,神戸の地理で言うと,三宮を西に過ぎると,新開地である)。「停車場」とは,国鉄蒲田駅,「踏切」とは,駅の北側(大森側)にあって,戦後,蒲田地区を東西に分断していた「開かずの踏切」と言われるようになったもので,1966年に立体交差の地下道が建設された所であろう(但し,踏切より100m大森寄りに道路を付け替えた。踏切のあった場所には,西口通り抜け通路という地下歩道がある)。そして,「停車場から撮影所に通ずる路の曲り角」とは,下の写真の場所であろう。


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現JR 蒲田駅東口から,撮影所跡地方向を望む


「降れば降つたで,泥,泥,泥の街」とは,蒲田の地名がそれを示しているとも言えるが,『キネマの天地』の冒頭で,雨にぬかるんだ撮影所内を,小走りに歩いてゆく田中小春(有森也実)の足下を撮したシーンは,そんな蒲田を象徴したものである。小春の父・喜八(渥美清)の台詞も,面白い。小春に向かって,「蒲田くんだりまで出かけていくヤツがあるか。」と言ったり,

倍賞千恵子「遠いもんねえ,蒲田は。」……
渥美清「バカヤロウ,俺やお前,蒲田みたいにドブ臭え所に住めるかって言ってやったんですよ。」

とか,当時,蒲田がどういう所であったのか,窺い知ることができるのである(深川から見れば,蒲田は「遠い」)。現在でも,垢抜けない街なのだが,松本清張原作の『砂の器』(1974年,松竹)で,蒲田操車場での冒頭シーンに続き,刑事役の丹波哲郎と森田健作が,蒲田5丁目1番から6番までの呑川沿いの道を歩きながら,呑川(のみかわ,コンクリート護岸)のことを,「この辺のドブ川」とも言っており(確かに,1980年代までは,夏場になると酷かった),河川の環境整備の問題以前にも,嘗ては,降水によって川が氾濫し,呑川流域がよく浸水したという。


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蒲田5丁目6番から1番を望む  御成橋から宮之橋への道  右手が,呑川


また,『やわらかい生活』(2006年,寺島しのぶ主演)というちょっと変わった映画があるが,専ら蒲田を舞台として,蒲田を描いた映画であり,「粋がない下町」だと,冒頭に出てくる。優子(寺島しのぶ)の住むアパート(左隣に銭湯「福の湯」がある)は,私の実家のあった所から,徒歩30秒の場所でもある。蒲田1丁目から,呑川に架かる宮之橋または御成橋を渡り,蒲田5丁目のJR蒲田駅周辺まで,あまりにも見慣れた光景(商店街の今は使われていないアイスクリームの金属製のボックスといった,些細なものまで)が登場するこの映画は,そういう意味で不思議な錯覚に襲われる映画だが,別に,小津の蒲田を意識したものではない。


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蒲田東急プラザ屋上の観覧車 (『やわらかい生活』)


ところで,松竹キネマ蒲田撮影所の南の端は,現在の環八通りまでは至っておらず,一本北側の道だったことが,上の位置図から分かる。下の写真の辺りが,その同一線上に当たる。


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蒲田5丁目45番 (蒲田駅東口の通り)


現代の撮影所の広さ(例えば,成城の東宝スタジオは,24,000坪)から見ると,腰を抜かすほど広大という訳ではない。

蒲田は,住宅と工場が混在した,町工場の街としても知られ,中小の機械金属加工がその中心となっている。前の記事でも少し言及した新潟鐵工所も,その一つで,撮影所から,現在の環八通りを挟んだ筋交いにあった。


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新潟鐵工所(跡地)  蒲田本町1丁目 (手前の道路が,環八通り)


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環八通り (蒲田駅東口の通りとのT字路)


富士通,キャノン,パイオニアも,蒲田周辺の大田区にあり,嘗ては,三菱重工業もあり,戦車や機関銃を作っていた。但し,これらの金属加工の工場には,煙突がなく,蒲田に見られる煙突の多くは,銭湯・温泉の煙突であり,小津も写真に撮っている。

また,大田区には,45館もの映画館があり(1957年当時),新宿区に次いで都内で2番目に多く,蒲田には,20館以上が集中していたという。「春の蒲田 花咲く蒲田 キネマの都」と歌う「蒲田行進曲」は,蒲田の記憶だったのである。


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松竹キネマ蒲田撮影所 (ジオラマ模型)


大田区民ホール・アプリコ館内で撮影した写真は,警備員も見ている中で撮ったものでもあり,撮影禁止ではなかったものと判断しているが,大田区から不適当との指摘等が仮にあった場合は,当該写真は削除する。本連載記事の執筆は,大田区に本籍を置く,猪俣賢司(新潟大学人文学部・准教授)である。
大田区書店組合(企画),大田区(協力)『昭和30年代の大田区―蘇る青春の昭和』,三冬社,2008年,など参照。
大田区HP(http://www.city.ota.tokyo.jp/),参照。


2009年3月26日

また三月が

まいどのこととはいえ、卒業でした。
まいどのこととはいえ、やっぱりすこしさびしくなります。
教員にとってはまいどのことであっても、学生にとっては一生に一度のことですから、卒業証書を手渡すさいに彼ら彼女らが見せてくれる輝くような笑顔に、今年も、そのつど圧倒されっぱなしでした。

パーティーのさいにはなんだかぐだぐだな挨拶になってしまったので、改めて。

ご卒業おめでとうございます。
これにこりずに、遊びにきてくださいませ。

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