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2009年2月 アーカイブ

2009年2月 5日

銀座点描 ― 変わりゆく街の光景 ―

― 小津安二郎の描く東京 (2)


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『東京物語』(1953年)の今


さて,上の写真の建物は,一体,どこの建物であろうか。これは,小津安二郎が,嘗て,『東京物語』(1953年11月,松竹)で撮った銀座の老舗デパートの,今のファサードである。『東京物語』では,「はとバス」(1948年に誕生)で銀座4丁目の交差点にやって来たと明らかに分かる光景に続き,突如,ある建物のガラス窓のアップが,こんな風に映される。それは,知っている者の眼には,銀座松屋のファサードだということが即座に分かるのだが,その松鶴マークや松屋自慢の屋上展望台などが映されることによって,松屋デパートだということが明らかになってくる。


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銀座松屋のファサード 中央区銀座3丁目6-1


とは言え,東京にそう再々行く訳でもない本学の学生諸君にとっては,どうしても地理的に不案内なこともあって,それが銀座松屋であることが見て取れないかも知れない。しかし,それ以上に,東京は刻々と変化してゆく街であり,小津の描く東京は,実は,東京在住の人々にとっても,それがどこなのか,分からなくなりつつある。小津にお馴染みの東京駅丸の内の「丸ビル」や「新丸ビル」,有楽町の「日劇」や「朝日新聞社東京本社」の建物も,今はもう一変している。戦前から1950年代~1960年代を描いた小津の東京の姿は,時代的にも,遠くなりつつある「都市の記憶」であるとも言える。1990年代から,新橋・汐留,品川,東京湾岸の再開発などを始め,東京は大きく変貌し,取り分け,近年の耐震補強工事の必要性から,建物外壁の外観が変わってしまった建物も多い。この「銀座松屋」(1990年代半ばには「松屋銀座」という言い方が一般的になっている)も,いつの間にか2001年(2006年完成)に改修されたその一つだが,前回の記事で紹介したJR蒲田駅も,その様相を大きく変えている。

『東京物語』に描かれた嘗ての銀座松屋のファサードは,1960年代の東京に生まれ,一時期,宝塚や神戸に暮らした後(懐かしの宝塚大劇場や,小津も好んだ神戸元町のユーハイムは忘れ得ない),1970年代に東京に戻ってきた私の眼にも,辛うじてそれと分かるものであるが,その巨大なガラス窓が銀座の街並みを映していたという強い印象がある。日比谷・有楽町から銀座・築地にかけては,私が当時通っていた東京学芸大学附属高校をさぼって抜け出し,よく歩き回ったものであった。その甲斐あって,日劇の「白亜の殿堂」もよく覚えている。丸ビルに当時漂っていたどんよりとした空気感も,昭和の残映として記憶している。

銀座松屋は(何の関係もない「牛めしの松屋」ではない! 文コミの学生諸君よ!),1869年創業,1925年5月1日に銀座3丁目に開業し,永井荷風『斷腸亭日乘』にも描かれている銀座を代表する老舗デパートだ。そして,『東京物語』の前年,1952年当時の新聞には次のようにある。

「……銀座三丁目松屋百貨店を接収した「東京PX」が十七日午後五時限り閉鎖された。……これによって銀座の植民地色もいくぶん少くなろうとみるむきが多い。……
松屋本店長谷川取締役談
改造には半年かゝるので暮の開店には間に合うまい。本館と伊東屋ビルの三階以上とを連結,裏に出来上っている地下五階や地下鉄の口も再開して面目を一新した姿で復活させたい。」
(朝日新聞,朝刊,1952年8月18日,東京PXきのう閉鎖)

※ 「東京PX」とは,東京に設けられた進駐軍専用の売店(Post Exchange)のことである。小津の『お茶漬の味』(1952年10月,松竹)でも,銀座和光のことをこう呼んでいる冒頭シーンがある。

これは,1952年4月28日,サンフランシスコ講和条約の発効によって進駐軍が漸次撤収し,「占領下の日本」(Occupied Japan)から独立国家としての「日本」に生まれ変わってゆく時代の銀座を言い表したものである。つまり,『東京物語』の1年前,松屋は,占領軍の接収を解除されたばかりなのであった。更に,『東京物語』ロケ・ハン開始の前月,1953年5月の銀座松屋を伝える新聞記事として,

「東京銀座の松屋は,昨年十月の接収解除以来改増築工事を行っていたが,このほど完成,二十日の開店を前に十八日午前十時高松,三笠両宮様をお招きした。……高松宮さまは……松坂屋より一尺高いとかで自慢の展望台から都心を見渡されたり店内をお回りになった。」
(朝日新聞,夕刊,1953年5月18日,高松,三笠宮様松屋へ)

という記事があり,1953年に小津の描いた銀座松屋が,どの様な歴史的意味を持っていたものなのか,よく分かるのである。笠智衆,東山千栄子,原節子の三人は,1ヵ月前,新装開店直前に宮様が見渡された松屋「自慢の展望台」から,有楽町方面を眺めていたのである(ロケ撮影は,9月)。もし1ヵ月早かったなら,『東京物語』のあの映像はあり得なかったのである。


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色取り取りに変化する,夜の銀座松屋


銀座松屋のファサードは,現在,アルミパネルの上に,金属金物でガラスを固定した,二重構造になっている。小津の描いた松屋とは様相を大きく変えたとは言え,表面をガラス構造にすることによって,銀座の街並みを映し出そうとする巨大なファサードであることをコンセプトにしていることには変わりはない。お洒落な建築物が軒並み建ち並ぶ今の銀座の街並みにあっては,突出した存在とは言い難くなっているのも残念ながら事実ではあるが,この銀座松屋は,実は,昨春亡くなった私の母が,大好きだったデパートでもあった。銀座の和光,三越,松坂屋にも,それぞれに思い出もあるのだが(丸井やプランタンなど,どうでもよい),銀座松屋は,小津が『東京物語』で描いた通り,今でも,東京銀座を「映す」象徴の一つなのである。

ところで,今のこのご時世,デパートへの憧れが残っているというのも,私が昭和に育ったことの証しだが,往年のデパートには,ミニチュアカーとか模型とか,ショーウインドウにずらーっと並んでいて,まさに,男の子の夢の世界でもあった。そういう世界を今でも残しているのは,銀座天賞堂がその一つであろう。『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年,東宝)には,それをもじった店が背景にちらっと出てくる。入ったら,なかなか帰れない店だ。小津の『麥秋』(1951年,松竹)では,子供たちが,32mmゲージの鉄道模型(その後主流になるHOゲージは,その半分の軌間16.5mm)で遊んでいるし,原節子も駅弁を売る真似をして調子を合わせている。『晩春』(1949年,松竹)でも,鉄道模型が登場するが,ここでは,原節子がちょっかいを出して勝手にスイッチを入れ,子供にひどく嫌がられている描き方が面白い。天賞堂で,私も,懐かしいメルクリンの鉄道模型にうっとり……


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天賞堂 中央区銀座4丁目3-9


2009年2月12日

東京タワーと『秋日和』(1960年) ― にいがた国際映画祭 ―

― 小津安二郎の描く東京 (3)


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2008年春の東京タワー


小津監督の『秋日和』(1960年,松竹)が,第19回「にいがた国際映画祭」の企画の一つとして,来る2月14日(土),18日(水),19日(木)の3回,新潟市民プラザで上映される。日頃,DVDでしか見られない欲求不満が溜まっていることもあり,フィルムで,しかも,映画館で見られるというのは,大変楽しみなことだ。

私は,部外者ではあるが,隣の研究室のI先生や,学生のWさんたちが,実行委員として係わっておられることもあり,ちょっと宣伝してみたい気もする。内容や見所について,ここで云々するものではないが,先日,DVDで改めて“予習”してみたので,少しだけ,ここに記しておくことにしたい。

この映画は,冒頭で,東京タワー(1958年開業)が出てくることでも,有名な作品である。これは,小津の映画によく登場する,江東区のガスタンク(『風の中の牝雞』),千住の煙突(『東京物語』),川崎の工場(『秋刀魚の味』)など,発展してゆく東京の建築物と並んで,先行研究では,その意味についてしばしば言及されているものである。とは言え,吉田喜重『小津安二郎の反映画』(岩波書店,1998年)らの見方にはどうしても首肯し難いのは,私が,東京タワー以前の東京を知らず,高度経済成長期に差し掛かる時代に生まれたからやも知れないのだが,実際のフィルムを見て,どう感じさせられるか,楽しみでもある。


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東京タワーの鉄骨 戦後東京の現代化


ところで,今年度,東京タワーの表象論で卒論を書いた学生のK君がいて,『秋日和』も取り上げていた。彼は,東京タワーと桜が並置されることの意味作用についても触れたのだが,映画では,桜の「花」が映っている訳ではない。東京タワー周辺は,確かに,桜の名所でもあるのだが,東京タワーと桜の「木」について,なかなか難しいことを考えさせられることになる。桜と言えば,「花」であって,「木」ではない,これが,もし,梅ならば,「花」(白梅)もあるが,「木」(白雪の降り掛かる)もあり得る,というのが王朝古典詩学の文脈だからである。


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東京タワーと桜の「花」


ところで,『秋日和』で私が好きなのは,清洲橋(隅田川)のシーンである。小津の映画に隅田川が登場するのは,『一人息子』(永代橋,台詞で清洲橋)と『風の中の牝雞』(相生橋,勝鬨橋)くらいで,荒川(『風の中の牝雞』,『東京物語』)や多摩川(『早春』,『お早よう』)をよく描いたことに較べれば,小津は,この圧倒的に古典的な主題である「隅田川」をあまり描かなかったという感が否めない。このことの理由については,先行研究でも言及されてはいるが,隅田川の(東岸には渡らず)西岸に止まって,清洲橋の袂の料亭で,三輪の七回忌後の会食をしているシーンは,『風の中の牝雞』に於いて,勝鬨橋の東岸で,娼婦房子と会話をする,実に感動的なシーンと,極めて対照的な意味を持っていると言わざるを得ない。尚,登場する料亭は,高級料亭「三田」であったと言われている(川本三郎『銀幕の東京』,中公新書,1999年)。

さて,『秋日和』には,冒頭の,松坂屋(上野店)裏のとんかつ屋の話題に始まって,例によって例の如く,丸の内・銀座周辺に設定された料理屋が,たくさん出てくる。看板「う」で有名な小津お得意のうなぎ屋が,佐分利信と原節子のシーン,佐分利信と司葉子のシーンの2回出てくるのは,嬉しい。「う」は,『東京暮色』と『秋刀魚の味』にも登場するが,小津が好んだ蒲焼の老舗・竹葉亭(銀座店)の看板「うなぎ」の「う」に字にそっくりだ。


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竹葉亭(銀座店) 中央区銀座5丁目8-3


また,「和光の角ね。」と言って,原節子と司葉子の母娘が,銀座で待ち合わせをして食事をするのが,「若松」で,『彼岸花』や『秋刀魚の味』にも登場する。これは,うなぎ屋でも天ぷら屋でもなく,うまいもの屋なのだが,「おいしいもの食べて歩きたいわね。」と,映画を見て,食事をして,買い物をするこの二人を見ていると,『秋日和』を見た後,我々もきっと,どこかでおいしいものを食べて帰りたくなる。この二人が食べたものが何であるのか,いつもの如く映像にはないのだが,白い大きなお皿に残っているトマトの切れ端とパセリ(ブロッコリー?),そして,タラコを買うと言う微妙な原節子の表情から,「鱈(たら)のムニエル」,あるいは,少なくとも,魚のフライ類(尻尾の焦げた衣も見える)を併せたものではなかったのかと確信しているのだが,さて,如何だろうか。佐田啓二と司葉子がラーメンを食べる「三来元」も,『お茶漬の味』でお馴染みの中華料理屋だ。

ユーハイムの包みが登場するシーンも,見逃せない。中身は,結局開けないので分からないのだが,その赤と黒のストライプは,背景に干してあるタオルの同じ様な模様と重なって,面白い。

また,湘南電車が見えるシーンも,2回登場する。これは,東京中央郵便局(下に郵便配達車の駐車場が見える)の間から,湘南電車が東京駅を出て(勿論,下りの方向),すぐの所を眺めたものである。画面左から右へ,列車が走行するシーンである。

余計なことを書き連ねてしまったが,こんな事を楽しみながら見ていられるのも,小津の映画の楽しみ方の一つである。軽妙洒脱な男たちの猥談を楽しむのもまた良し,当時の「現代っ子」岡田茉莉子の気っ風の良い啖呵に拍手するのもまた良し,そして,原節子のそこはかとなく醸し出す,一人残された母の寂しさに涙を抑えるのもまた良し,どのように楽しむのも自由ではあるが,しかし,映画の理解は,開かれたものであるとは言え,それは,映画の「外」にあるという意味ではなく,映画の「内」から始められるべきものであるということは,はっきりと言っておきたいと思う。

新潟に居ながらにして,小津のフィルムを見られるというのは,実に,有り難いことだ。「にいがた国際映画祭」関係者の皆さまには,心より感謝申し上げたいと思う。


2009年2月20日

アグファ・カラーの「赤色」 ― 『秋日和』の紅葉と婚礼 ―

― 小津安二郎の描く東京 (4)


今月,「にいがた国際映画祭」の企画で,小津の『秋日和』が,3回にわたって上映された。既にその最終上映も済んだことなので(映画祭そのものは,22日(日)まで開催),この眼で見て感じたことを,少し長くなるが,ここに書いておくことにしたい。


アグファ・カラーのフィルム


私は,今回,2回見に行ったのだが,『ゴジラ FINAL WARS』(2004年,東宝)は,公開当時,7回見たし,円谷特撮の第1作『海軍爆撃隊』(1940年,東宝)が,戦後初めて復元・上映された時(2006年)は,京都(第5回京都映画祭)と東京(京橋のフィルムセンター)へ,2回見に行っていることを思うと,新潟に居ながらにして小津を見られるというのは,本当に有り難いことだと思う。DVDでも見られるのに,なぜ,何回も見に行くのかと問う人もいるが(ゴジラを7回も見に行ったと言うと,殆ど,アホかという話になる),頭の中でゴチャゴチャ考えているよりも,映画は映画館で上映される映像(写真)なのだから,現場に行って,眼で見て,眼に感じさせ,体感しないことには,話にならないのである。勿論,認識するのは頭の中(あるいは,先入観や記憶)なのだろうが,見るのはこの眼であるということは,謂わば,絶対的な事実であるし,それに,映画館という場と,フィルム(上映用ポジ・フィルム)とスクリーンという媒体が,映画には必須なのである。DVDで家で見るのは,あくまでも代替であって,ゴジラの迫力は,映画館のスクリーンでしかあり得ないことを熟知している私は(私は,映画の専門家と言うよりは,元々は,比較古典詩学が専門なのだが),今回,小津の映画にあっても,やはり,映画館のフィルムで見るべきものだということを,有り難いことに,確信することができたと感じている。

それは,小津の『秋日和』の見所として,実は,当初から,予想されたことでもあるのだが,アグファ・カラー(Agfa Color)の「赤色」にあった。

小津安二郎は,『彼岸花』(1958年,松竹)以降のカラー作品に於いて,撮影監督・厚田雄春の優れた職人的感覚に基づいた助言に従い,アグファ・カラーを用いたことがよく知られている。『秋日和』のクレジットにも,「アグファ松竹カラー」とある。このフィルムは,「赤」の色調に極めて大きな特徴があるのだが,イーストマン・カラーで撮られた初の怪獣映画『空の大怪獣 ラドン』(1956年,東宝)の最終シーンに見られる阿蘇山の赤い溶岩と比較してみると,その違いがはっきりと分かるであろう。ところで,「にいがた国際映画祭」で上映された『秋日和』(1960年,松竹)は,1960年当時の上映用ポジ・フィルムに複製されたものではないことが分かるのだが(2003年,小津生誕百年の際に,リプリントされたものであろう),そのフィルムが一体何であるのか(クレジット通り,アグファ松竹カラーのシステムに基づくものなのか,それとも,イーストマン・カラー,コダ・カラー,フジ・カラーなのか),また,オリジナルのアグファ・カラーの色調を,技術的にどの程度,忠実に再現し得たもの(あるいは,経年変化による褪色を修復したもの)なのか,厳密なことは残念ながら分からない。とは言え,DVDの映像よりは,アグファ・カラーの「赤」を髣髴とさせるものがあったのだと期待している。今回上映された一本のフィルムの正体は,なかなか知り得べくもないが,以上のことを含んだ上で,『秋日和』の本質に係わると思われることについて,ここに記しておきたいのである。


東京タワーの「赤色」


先ず,『秋日和』冒頭の東京タワーは,『モスラ』(1961年,東宝)に見られるように「(テレビ用)電波塔」を撮ったものではなく,「赤と白」の謂わば「紅白塔」を撮ったものであることが,映画祭で上映されたフィルムから,はっきりと見て取れる。これは,映画の終盤,三輪の娘アヤ子(司葉子)の婚礼衣装に見られる,「白」とその裏地の「赤」を,予言的に捉えたものであることに,眼の感覚(視覚)が教えてくれるのである。

今回の第19回「にいがた国際映画祭」のテーマは,―愛 LOVE―であり,初日には,「映画の中の結婚」ということで,花嫁衣装のオープニング・イベントも行なわれた由である。ここには,この企画に携わった実行委員の一人,本学人文学部のWさんの希望が反映されているのだと聞き及んでいるが,私には,婚礼衣装など,悪いが,関心の対象にはなかった(以前,『秋日和』を見ても,全然見てもいなかった)のだが,しかし,『秋日和』の婚礼衣装の色彩と東京タワーの色彩が,この映画の本質的な符牒をなしていることに,私の眼が気が付いてくれる,大きな契機ともなったのである。アグファ・カラーの「赤」が,眼に教えてくれたのは,小津の『秋日和』の映像論的な本質だったのである。

フィルムが,映画の物質的本質であることは,1960年代のゴジラ映画をリアル・タイムで見た者の眼には,実感としては,確実にある。1950年代の怪獣映画については,私も生まれていなかったので,残念ながら(と言うより,幸運なことに),1970年代の「東宝チャンピオンまつり」や,町内の子供会などで上映された再上映版のフィルムで,記憶している。上映前,映写機にセットされる,直径50cmはあったであろうか,リールの現物と,僅かに垣間見られるポジ・フィルムのコマの絵を覚えている。映画は,スクリーンに投影される表象以前に,フィルムという「モノ」であった。それは,フィルムに焼き付けられる,レンズの前にあったであろう,現実の「モノ」(被写体)の存在をも感じさせてくれた。


「視認」されるアグファ・カラー


さて,アグファ・カラーの「赤」は,まるでその「赤」だけを抽出して,その配置やその動きを,私の眼の前に,はっきりと映し出した。それは,まるで,レーダー画面の中で,「赤」の存在だけが映し出され,それを追尾していたようだ,と言っても,決して誇張ではない。七回忌後の会食に見られる赤と黒のストライプの鉢(それは,ユーハイムの包みの模様へと繋がる)や,テレビやタンスの上に置かれた赤い缶,子供の服の赤いストライプ,赤のオーバーを着た通行人の女性(岡田茉莉子の寿司店前,1回目は身に付けて,2回目は手に持って),そして,東京中央郵便局の郵便配達車の赤,「COFFEE BOW」の看板も赤,「HUTTE」(山小屋)の看板も赤,丸の内のビルの消火栓も赤,これら「赤」の視認性が,恐ろしい程,際立っていたのである。桑田服飾学院の教室で,原節子が拾い上げていたのも,赤い毛糸であったし,若い二人(佐田啓二と司葉子)がラーメンを食べていた「三来元」の赤と白のお品書きも,ゴルフ用品店の前を横切る赤いチャックのスカートの女性も,アグファ・カラーの「赤」として,自分でも恐ろしくなるくらい,はっきりと「見える」のである。

アグファの「赤」は,決して派手な色合いではなく,寧ろ,朱が掛かったような,赤茶けた,くすんだ色である。他の配色が全般的に地味なものであったから,あるいは,小津が好んだとも言われるアグファの「青」が要所要所に使われていることとの対照性から,「赤」が際立ったという側面もあろうが,「小津調」と言われるものを決定付けているアグファの「赤」が,これだけ視認性の高いものであるとは,フィルムで見て初めて視認できた。そういうものだという知識を前もって得ていたならば,DVDの映像でも確認できるのであろうが,そんな知識がなくても,フィルムを見れば,一発で,眼が反応してくれるのである。


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アグファ・カラー風に修正してみた東京タワー (なかなか上手くいかないが……)


そして,映画の最後で,アヤ子(司葉子)の花嫁姿を見た時に,最初のシーンの東京タワーとこの婚礼衣装が,「紅白」の符牒をなしていることに,自ずと気が付くのである。これは,「解釈」の問題ではなく,「視認」の問題である。東京タワーは,単に位置を示すだけの無意味な空間などではなく,また,失われてゆく嘗ての東京に出現した,無骨な建造物などでもなく,次の新しい世代を生み出す,誠におめでたい「紅白」の塔であることに意味があったのだと,頭の中で考えずとも,映画を見ている眼がそう理解する。

『秋刀魚の味』に登場する川崎の工場の赤と白の煙突や,そもそも,クレジットの文字の赤と白の色遣いなど,小津の映画には,「赤」に対するこだわりが見て取れる。上述した事柄は,これらに共通して当て嵌められる「解釈」を言ったものではない。最初にお断りしたように,『秋日和』を「眼で見て感じたこと」(視覚)を記したものである。


「紅葉」 ― 彼岸と此岸を繋ぐもの


ところで,この映画に深く係わっているのは,(桜ではなく)「紅葉」(もみじ)である。母娘(原節子と司葉子)の二人が,銀座「若松」で食事をして,アパートに帰ってから,父の思い出話をするシーンがある。この時に初めて登場するのが,「紅葉(もみじ)の若葉」という台詞である。そして,アヤ子の結婚が決まり,この母娘が,周遊券を使って旅行するのが,日光(台詞のみ)と伊香保だが,榛名湖と榛名山(榛名富士,画面右の斜面にロープウェイも見える)のシーンが,「紅葉」が映像となって登場し,『秋日和』の人事と景物を繋ぐ王朝和歌的クライマックスとなって眼の前に現われるのである。派手な「紅葉」では決してなく,迫力に欠けるとも言えなくもないが,父の生前の思い出話とアヤ子がここに疎開していたという会話の開始と,小学唱歌「紅葉」(秋の夕日に照る山紅葉……)の開始が同時であるのも,そこに深い関連性があるからである。「紅葉」は,亡くなった人の魂,あるいは,亡き人を偲ぶ跡なつかしき気色(「疎開」から,戦争の痕跡も)であると同時に,次の世代を生み出し,育むものとして描かれているのである。「秋ハ哀シ」というのは,潘岳『秋興賦』など中国六朝詩学の影響で,『古今集』以降に定着した季節観だが(『万葉集』時代の日本にはなかった),秋萩,女郎花,白菊などを詠った「秋歌」の中にあって,竜田川や三室山と共に「紅葉」を詠った古今集歌(秋歌下)は,文字通り異彩を放っている。しかし,時雨の降る紅葉でも,移ろう紅葉でもなく,『古今集』の紅葉と較べてみれば,『秋日和』の紅葉が,如何に「爽やか」(アヤ子がこの漢字の一画目を指で書いているシーンがある)なものであるか分かるであろう。「これからもずっとお父さんと二人で生きていくわ。」と最後に言う秋子(原節子)の姿に象徴的に見られるように,死者への思いを胸に抱きつつ,アグファの「赤色」が描いた,東京タワー,紅葉,婚礼という,この「紅葉の若葉」の新生(Vita Nuova)の連鎖が,『秋日和』の本質だったのである。

清洲橋の袂の料亭(脚本では,築地とあるが,清洲橋は,築地ではなく,中央区日本橋中洲と江東区清澄1丁目に架かる橋)は,亡き三輪の七回忌の会食に始まり,その三輪の忘れ形見の婚礼後の会食に終わる。隅田川は,死と生の境目でもあるかのようだ。亡き人への追悼と,これから生きよう(そして,新しい生命も誕生するであろう)とする次の世代の人への祝いのはなむけ,その二つの儀式が同時に行なわれる場所が,小津の映画にとって,隅田川西岸だったということである。空襲の被害が甚大だった隅田川東岸では,あり得なかったのだ。そして,1960年に結婚した二人が生み出したもの,それが翌年に誕生した私でもある。私は,四谷の一つ先,信濃町で生まれた。現在,新・東京タワー(東京スカイツリー)が,隅田川東岸の墨田区押上(業平橋,向島の東隣)に建設中である。『秋日和』の新しい息吹,「紅葉の若葉」が,戦後66年経って(2011年竣工予定),ようやく,隅田川東岸(「濹東」)にも訪れることになる。


2009年2月28日

有楽町高架線 ― 世界一有名な表象空間 ―

― 小津安二郎の描く東京 (5)


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有楽町高架線


初代ゴジラ(1954年)にも,そして,30年後の復活版ゴジラ(1984年)にも壊された有名な高架線(鉄道高架橋)がある。それが,有楽町のJR高架線(有楽町駅と新橋駅の間,晴海通りに架かる高架橋)である。『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(2007年)のロクちゃんが,銀座で友達と待ち合わせをしていた所だ。堀北真希の後ろに見えるのが,有楽町高架線であり,日劇の向かい,ニュートーキョーの前辺りで友達と落ち合っている。

この高架線は,何だか分からない数多の高架線の一つに過ぎないのではなく,唯一無二の固有の高架線なのである。それは,幾度となく映画の中に描かれているからということのみならず,東京の近代化の歴史を如実に語ってもいるからである。因みに,東京の高架線でもう一つ代表的なものを挙げるとすれば,それは,東急池上線の五反田駅の高架である。それは,小津が『東京暮色』(1957年)で描いているからということだけではなく,東京中心部へと進出を図った私鉄線の歴史の痕跡でもあるからである。この二つの高架線は,開業当時の最初から,高架であったのだ。


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銀座・晴海通り (西銀座を望む)


小津の『お茶漬の味』(1952年)冒頭で,木暮実千代がタクシーに乗って,「PXの手前,右ィ曲がって頂戴」と言い,淡島千景の銀座の洋品店に行くシーンがある。日比谷通りの明治生命館を左手に見ながら,晴海通りを東に進んでゆくシーンである。ここで,この有楽町高架線を潜り,日劇の前を過ぎて(但し,日劇の建物は見せない),東京PX(和光)へと向かってゆく。


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銀座・晴海通り (旧・東京PXを望む,東銀座の方角)


晴海通りは,西銀座に東宝のエリア(日劇など),東銀座には,歌舞伎座を始めとする松竹のエリアを併せ持つ,稀有の謂わば“映画通り”である(映画会社があるというだけではなく,映画の表象通りでもある)。この同じ晴海通りでも,ゴジラ(東宝)では,ゴジラの花道として,日劇や,その跡地に建つ有楽町センタービル(有楽町マリオン)を見せつけるが,小津(松竹)は,東劇(東京劇場,松竹)を『宗方姉妹』(1950年)で撮ってはいるものの,日劇は勿論,この有楽町高架線を何故か積極的には描いていない。高架線を描くのが好きだった(好きかどうか知らぬが,結構多い)小津の映画の中にあって,木暮実千代がこの高架線を潜るシーンは,貴重なシーンだとも言える。

但し,現在の有楽町高架線は,山手線・京浜東北線・東海道線・東海道新幹線が通る,四複線(8線)の高架線だが,『お茶漬の味』の1952年当時は,新幹線開業(1964年)以前,且つ,京浜東北線・山手線の分離化(1956年)以前のことなので,京浜線(現・京浜東北線)と東海道本線の複々線(4線)であり,木暮実千代を乗せたタクシーは,(高架橋の幅が今より狭いので)あっという間にこの高架線を潜り抜けてしまう。これは,現在の感覚とはだいぶ異なるものである。


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新幹線の通る現在の有楽町高架線


有楽町高架線の歴史,つまり,新橋駅~有楽町駅~東京駅の鉄道線の文化史は,実は,一冊の本が書かれるくらいのものがある(中村建治『山手線誕生―半世紀かけて環状線をつなげた東京の鉄道史』,イカロス出版,2005年)。ここでは,その一端を紹介しながら,小津の映画にほんの一瞬描かれた,この有楽町高架線について記してみよう。

話は,外堀通りがまだ,正真正銘の外堀(水が流れている。数寄屋橋も実際の橋として初代ゴジラが渡っている)であり,銀座の中央には,三十間堀が走っていた頃の話である。1872年(明治5年)5月7日,品川・横浜間の仮営業開始に続き,同年6月30日,新橋駅(後の貨物線・汐留駅)が完成,9月13日(12日に開業式)に,新橋・横浜間が正式開業する。当時は,鉄道に対する無理解や用地買収の困難が伴い,この東海道線は,「海上築堤」に敷かれた海の中の線路であった。

官設の東海道本線の新橋駅と,日本鉄道(岩倉具視らが設置した私鉄会社)の東北線の上野駅の間は,日本橋などの有数の商業地区があったにも拘わらず,実は,長い間,鉄道線の通らぬ「陸の孤島」であった。新橋・上野間は,山手線環状化の最後に残された区間だったのである。1909年(明治42年)12月16日,烏森駅(現・新橋駅)が開業,翌年6月25日,有楽町駅が開業し,電化運転が開始されるまで,38年の歳月が経っていた。更に,有楽町・呉服橋駅(東京駅開業前の仮駅)間の開業(1910年9月15日),東京駅(計画段階では中央駅)開業(1914年12月20日,開業式は18日)を経て,山手線の環状化が完成・開業するのは,1925年(大正14年)11月1日,「汽笛一声新橋」から数えて,53年後のことであった。


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晴海通りと交差する有楽町高架線 (ニュートーキョーの向かい辺り)


東京駅や有楽町駅は,現在でこそ,東京の中枢駅であるが,山手線(正式には,東海道本線。山手線は,品川・渋谷・新宿・池袋・田端間を,田端・上野・東京間は,東北本線,東京・有楽町・新橋・品川間は,東海道本線である)環状化の最後に作られた新しい駅だったのである。新橋駅~有楽町駅~東京駅は,開業の当初から,(汽車線ではなく)電車線(電化路線)であったこと,そして,煉瓦で築かれた高架線であったことが,その歴史的特徴となっている。

取り分け,煉瓦(レンガ)というのは,渋沢栄一が創設した深谷(埼玉県深谷市)の日本煉瓦製造会社(煉瓦工場)の生産する赤煉瓦が,辰野金吾の設計する東京駅(中央停車場)の建設に大量に使われ,不燃都市を目指した「銀座煉瓦街」は,東京の近代化を象徴しているものである。小津の『早春』(1956年)に登場する,岡山県三石に製造工場を持つ,丸の内の煉瓦会社が描かれているのは,この様な東京の文化史と無縁ではない。赤と白の配色にこだわった,小津の色彩感覚も,赤煉瓦と白の石材で作られた東京駅や法務省旧本館などの,東京の近代化の遺産と歴史的因縁がある。尚,辰野金吾は,東京駅,日銀,国会議事堂など,政治・経済・交通の中枢となる建築物の設計に携わった人物である。


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有楽町高架線 (西側の日比谷通り側から望む)


有楽町高架線は,映画の中に描かれる世界一有名な表象空間であると同時に,そこには,東京という帝都建設の歴史的背景があったということが,実は,必須の要件だったのである。

成瀬巳喜男の『銀座化粧』(1951年)には,三十間堀が埋め立てられてゆく銀座への郷愁(田中絹代が地方から上京した石川(堀雄二)を案内する。小津の『東京物語』で,尾道から上京した義理の両親に東京を案内する原節子に相当する)が描かれているし,川島雄三の『銀座二十四帖』(1955年)では,当時の新橋駅や,有楽町高架線が描かれ,森繁久彌のディスク・ジョッキー風の銀座紹介と相俟って,三橋達也や月丘夢路が闊歩する銀座は,ミニチュア・セットで撮られた1954年の『ゴジラ』の実景を撮し取っている。「森永ミルクキャラメル・森永チョコレート」の地球儀型広告塔(中央区銀座5丁目5番,現在のアルマーニ)が映っている夜の銀座の映像も,『ゴジラ』(1954年)や『秋刀魚の味』(1962年)の描く東京と同一であることは言うまでもない。


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中央区銀座5丁目5番


官設鉄道の東海道線,日本鉄道品川線(品川・渋谷・新宿・池袋),日本鉄道豊島線(池袋・田端),日本鉄道東北本線(田端・上野),これらが,国有化されるのは,1906年(明治39年),鉄道国有法に拠るものである。甲武鉄道(現・中央線),総武鉄道(現・総武線)と併せて,現在の東京の鉄道網が,築かれた。

有楽町高架線は,映画の中の世界一の表象空間であると同時に,帝都東京の歴史を物語るものでもあったのである。


※ 中村建治『山手線誕生―半世紀かけて環状線をつなげた東京の鉄道史』,イカロス出版,2005年,参照。
※ 財団法人・東日本鉄道文化財団HP(http://www.ejrcf.or.jp/)参照。旧新橋駅(後の汐留駅)は,日本最古の駅(品川駅,旧新橋駅)の一つとして,汐留シオサイト(旧新橋停車場,鉄道歴史展示室)に復元されている。


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