月曜2限の3、4年生向け演習のテーマは「顔と身体の表象文化論」。講義では何度かとりあげているテーマですが(今年の2学期の2年生向け講義でもやる予定)、講義なら、まあ、こちらの好き勝手なことをしゃべればいいとして(それでいいのか?)、学生の発表で進んでいく演習ともなると、参加学生の関心のありかをそれなりに把握しておく必要があります。なので、初回のイントロダクションが終わった二回目の授業では、アトランダムに学生4名を指名して、「あなたにとって顔が問題になりうるのはどんな場合?」ときいてみました。4人の発表のテーマは以下の通り。
学生1 ハンス・ベルメールの人形写真の顔
学生2 思春期のころ自分の顔が気になったときの思い出
学生3 不二家のペコちゃんの顔の変遷
学生4 ズジスワフ・ベクシンスキーの首だけの絵
ベクシンスキーという画家のケースだけはやや微妙かと思いましたが、驚きだったのは、狙ったわけでもなんでもないのに、4人(3人)がそれぞれすべて違う「顔」を問題にしてきたこと。私なりにざっくりまとめると、こうなります。
学生1 見るものとしての他者の顔
学生2 見られるものとしての私の顔
学生3 記号としての顔
学生4 (他者の顔? 記号としての顔?)
面白かったですね。授業で輪読するテクストとしては鷲田清一の『顔の現象学』を予定しているのですが、そこで解説を書いている小林康夫は、「あなたがつねに問題にしているのはあなた自身の「私の顔」だが、私が問いたいのは死の翳がさす「他者の顔」だ」というような意味のことを書いている。この二つのアプローチは、根源的なところでつながっているものの(私の顔をみるのは他者の顔でしかありませんから)、しかしやはりつねにたがいに反撥しあう、本質的な差異としてある。「顔」の問題をめぐる中心的係争点の一つが、いきなりもろに出てきてしまったわけです。
驚きはそれにとどまらない。「私」の顔でも「他者」の顔でもありえない「キャラクター」の顔、つまり、「記号」としての顔こそが、私にとっての顔の問題だ、といった学生がいる。
しかし、もっと驚きだったのは、(ほとんど冗談のつもりで)出席していた学生のみなさんに、「君らにとっていちばん興味があるのはどれかな~、一番の顔、二番の顔、それとも三番?」ときいて挙手してもらったところ、半分くらいの学生が、三番の「記号としての顔」に手をあげたこと。
その瞬間、Bの脳裏には、マネやらバフチンやらバルトやらアラーキーやらレヴィナスやらといった名前が次々と浮かんでは消え、初音ミクとフレッシュプリキュアまで来て停止して、思わず「そうか……」とうなってしまいました。
この絶句をどう埋めるか、それが今年の演習の課題ですね。