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2009年4月 アーカイブ

2009年4月 3日

情報文化課程ガイダンス日程

ガイダンス日程を以下にまとめました。必ず出席するようにしてください。

4月7日(火)10:00~ 学務による4年生ガイダンス(人社系D340)
13:00~ 学務による新入生ガイダンス1(人社系D340)
13:00~ 3年生就職ガイダンス(人社系E020)
15:30~ 学務による3年生ガイダンス(人社系D340)
16:30~ 3、4年生合同ガイダンス
(情報メディア:総合教育研究棟B256、文コミ:総合教育研究棟B258)

8日(水) 9:00~ 学務による新入生ガイダンス2(人社系D340)
13:00~ 学務による2年生ガイダンス(人社系D340)
14:00~ 特別ガイダンス(人社系第一会議室)
15:30~ 情報文化2年生ガイダンス(総合教育研究棟F271)

9日(木)10:00~ 1年生アドバイジーとの顔合わせ(各研究室)
13:00~ 2年生アドバイジーとの顔合わせ(各研究室)

上記とは別に、恒例の新入生歓迎会も予定されています(4月8日(水)17:30~、生協第一食堂、会費500円)。こちらにもどうぞ。

2009年4月19日

最初の授業

新入生のみなさん。ご入学おめでとうございます。授業が始まってから一週間がたちました。大学はいかがですか?

かくいうBは、学生としても教員としても、「大学の4月」なるものをもう飽きるほど繰り返し経験してきたわけですが、それでも、初日の授業で一年生を前にするとき、ある種の緊張をおぼえずにはいられません。なぜか? 理由は簡単で、大学に入って最初の授業のことを、私自身がよく覚えているからです。

まだ国立大学でも土曜日に授業があった頃でした。大学に入って最初の授業は、一般教養「科学史」の講義。場所が分からず慌てて走り回ったBがようやく教室を探し当てると、冒頭から配られた大量のプリント。典型的文系人間のBにとって内容はまったくちんぷんかんぷんでしたが、ただ、「大学って、なんだか濃いところだな~」と思ったのをよく覚えています。もちろん、当時「濃い」という言い方はまだありませんでしたから、当時の感想をいまから振り返って翻訳しているわけですが。

もうひとつ鮮明に覚えているのはロシア語の最初の授業でしょうか。いまから思えば担当のK先生は、Bの出身大学に移籍して担当した最初のロシア語クラスであったはず。ひとしきり授業の進め方などを説明したあと、「とりあえずアルファベットを聞いてみましょうか」とテープを流しはじめたのですが、教室の前のほうにすわっていた元気な連中(もちろん、私はそのなかに入っていませんでした)が、いきなり大声で復唱しはじめ、K先生が苦笑して「このクラスはよさそうですね」と言いながら教室を去っていったのを、まるで昨日のことのように覚えています(数年後、居酒屋でこの話をK先生にしたところ、ご本人はまるで記憶になかったようですが)。

なにがいいたいのか?

最初の授業って、こわいですよね。

大学の教師にとって、4月の最初の授業など、毎年毎年繰り返されていいかげん飽き飽きしたルーティン・ワークにすぎません。調子よくやれるときもあれば、疲れていたり、いらついたりしていて、なんとなくうまくいかないときもある。気合が十分はいっているときもあれば、どこか心ここにあらずのまま時間が過ぎてしまうときもある。教師だって人間なのだから、当然です。言い換えれば、大学の新入生が最初にうける授業の内容も質も、まったくの偶然に左右されるものでしかない。

でも、新入生は、それを記憶にとどめてしまう。教師のなにげない一言、なにげないしぐさ、ほんのわずかな表情の変化、声の抑揚、そういったものが、18歳とか19歳とかの学生の脳裏にきざみこまれ、彼/彼女の大学に対する印象をかなりの程度まで決定してしまう。

……4月の教室で期待に満ちた新入生たちの顔を前にしたときの大学教師の心の震えを推察していただけたでしょうか。みなさんは大学の教師はいつも余裕で偉そうにしていると思っているかもしれませんが、実は教師もガチガチに緊張していたりするのです。

だから、少々とちっても、許してね。

2009年4月24日

顔の問題

月曜2限の3、4年生向け演習のテーマは「顔と身体の表象文化論」。講義では何度かとりあげているテーマですが(今年の2学期の2年生向け講義でもやる予定)、講義なら、まあ、こちらの好き勝手なことをしゃべればいいとして(それでいいのか?)、学生の発表で進んでいく演習ともなると、参加学生の関心のありかをそれなりに把握しておく必要があります。なので、初回のイントロダクションが終わった二回目の授業では、アトランダムに学生4名を指名して、「あなたにとって顔が問題になりうるのはどんな場合?」ときいてみました。4人の発表のテーマは以下の通り。

学生1 ハンス・ベルメールの人形写真の顔
学生2 思春期のころ自分の顔が気になったときの思い出
学生3 不二家のペコちゃんの顔の変遷
学生4 ズジスワフ・ベクシンスキーの首だけの絵

ベクシンスキーという画家のケースだけはやや微妙かと思いましたが、驚きだったのは、狙ったわけでもなんでもないのに、4人(3人)がそれぞれすべて違う「顔」を問題にしてきたこと。私なりにざっくりまとめると、こうなります。

学生1 見るものとしての他者の顔
学生2 見られるものとしての私の顔
学生3 記号としての顔
学生4 (他者の顔? 記号としての顔?)

面白かったですね。授業で輪読するテクストとしては鷲田清一の『顔の現象学』を予定しているのですが、そこで解説を書いている小林康夫は、「あなたがつねに問題にしているのはあなた自身の「私の顔」だが、私が問いたいのは死の翳がさす「他者の顔」だ」というような意味のことを書いている。この二つのアプローチは、根源的なところでつながっているものの(私の顔をみるのは他者の顔でしかありませんから)、しかしやはりつねにたがいに反撥しあう、本質的な差異としてある。「顔」の問題をめぐる中心的係争点の一つが、いきなりもろに出てきてしまったわけです。

驚きはそれにとどまらない。「私」の顔でも「他者」の顔でもありえない「キャラクター」の顔、つまり、「記号」としての顔こそが、私にとっての顔の問題だ、といった学生がいる。

しかし、もっと驚きだったのは、(ほとんど冗談のつもりで)出席していた学生のみなさんに、「君らにとっていちばん興味があるのはどれかな~、一番の顔、二番の顔、それとも三番?」ときいて挙手してもらったところ、半分くらいの学生が、三番の「記号としての顔」に手をあげたこと。

その瞬間、Bの脳裏には、マネやらバフチンやらバルトやらアラーキーやらレヴィナスやらといった名前が次々と浮かんでは消え、初音ミクフレッシュプリキュアまで来て停止して、思わず「そうか……」とうなってしまいました。

この絶句をどう埋めるか、それが今年の演習の課題ですね。

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