いきなり私見を書くけど、本書は、なぜ働くかについて直観的に知っているがゆえに「なぜ働くのか」などと疑問に思わない人が、自分の直観を分節化して、疑問に思う人に教えてあげる、という感じの本だと思います。ところが、上記のような疑問は、問う人にとって問いそれ自体の意味が様々なはずなのであって、一般的な問いに対する一般解を与えようとする本書の議論は、ほんとうに疑問を抱く人にはまったく届かない。報告者が著者の議論に対して納得がいかなかったのもそのためだと思います。
さて報告者は自分の納得のいかなさの原因を探っていきますが、それは、自分にとっての「なぜ働くのか」の問いの意味を探るプロセスにもなっていたはずです。そうやって、死の瞬間における人生全体の肯定的評価、という基準に至り、この基準から、「お金のため」「他人のため」といった既存の回答案を点検していき、(当然ですが)否定的な結論を下していきます。
私見が続いて申し訳ないですが、これが哲学だ、というのが私の考えです(そして本書のごときは哲学ではないというのも)。もちろん、報告者はまだ知識も議論の展開も未熟なので、自分にとって本当に意義のある結論を導くことはできていないし、ましてや他の出席者にとって意味がある形で呈示することにも成功しているとは言い難いとは思います。成功の見込みがあるのかどうかもよくわかりません。が、それだけが哲学的探究の道であることも事実でしょう。既存の哲学書が、自分の問いを明確にし、他人に伝達可能なものにするための指針となる方法論を与えてくれる可能性はあるでしょう。要するにまだまだ勉強すべきことは(というか、とりあえず勉強してみる価値のあることは)たくさんあるということです。
ただ、急いで付け加えると、社会学者としては、哲学的に問いを深めることだけが、問いから解放される道ではないということも言っておきたいと思います。演習の中で何人かが言っていましたが、一時的に「なぜ~?」と問う人も、一晩寝たり、酔っぱらったり、風呂に入ったり、運動したり、テレビ見て笑ったり、忙しくて死にそうになったり、ぽかぽか陽気であったかくなったり、恋人ができたり、コーヒー飲んだり、資格試験にのめりこんでみたり、とかとかしているうちに、問い自体が自分にとって無意味化することもあるわけです。ま、そういう(頻度としてはきわめて多い)可能性も頭の片隅に置いて考えていくのも一つの手でしょうという感じで。
司会者は、報告者が来るまでの場つなぎ、議論が停滞したときのまとめと再開、など、たいへん工夫してがんばっていたと思います。ただ、(今回に限らず)いいことを言おうとしすぎて時々つまってしまうのはあまりよくないです。司会者の仕事は、いいことを言うよりも、場を成り立たせること、つまり「お座成り」であることだと思います。次回以降の人は、その辺にも注意してみてください。
以下、出席者のコメント