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2009年6月

2009年6月30日

プリントアウト時の注意および現代社会論の授業資料

資料をプリントアウトするとき、印刷画面上でPDFの印刷画面上で以下の操作をしてください。「adobe PDF」にし、さらに「ページの拡大/縮小」を「1枚に複数ページを」にし、「1枚あたりのページ数」を「6」にし、「ページの順序」を「横」にすると、1枚に6ページ分が印刷できます。この操作をしないと、印刷枚数が多くなりますので、かならずこの操作をしてください。

現代社会学Bの授業資料(2009.0624)です。

プリントアウト時の注意および社会学概説Dの授業資料(2009.0615)

資料をプリントアウトするとき、PDFの印刷画面上で以下の操作をしてください。「adobe PDF」にし、さらに「ページの拡大/縮小」を「1枚に複数ページを」にし、「1枚あたりのページ数」を「6」にし、「ページの順序」を「横」にすると、1枚に6ページ分が印刷できます。この操作をしないと、印刷枚数が多くなりますので、かならずこの操作をしてください。

社会学概説Dの授業資料(2009.0615)です。

2009年6月25日

人文総合演習A 第10回


いや、レジュメよく書けてました! と、わざわざ言うのはなぜかというと、報告時のパフォーマンスがそれにつり合ってないからで(笑)。独りで考えて文章を組み立てるのと、人前でいろんな人の思いもよらない指摘を受けながら、なおも議論を維持することは、エネルギーの使い方というか、求められる能力が全然違うことが、体験的に理解できたのでは? もちろん、全部できるとは思っていません。いくつかの点では、1年生ゼミとしては、日本で、というか世界でもトップレベルの要求水準の演習だということは、自覚しておいてよいでしょう(私はこういうところ謙遜しないで書いちゃう素敵人格なのですw)。

報告の趣旨は、著者は思考停止を批判してるけど、思考停止しちゃいけないのは(つまり考えないといけないのは)「誰なのか」が不明だから、俺が考察して、その理由も含めて著者に教えてやんよ! ということですね。「社会的要請に応えたいという意志」から社会における成員性を条件として析出するところなんか、ちょっと政治哲学の論文にあってもおかしくない雰囲気でした。

「社会的要請に応えたいという意志」がどのように発生するのか、なにを契機として生じるものなのか (中略) この意志は社会から独立した完全な個人からは生まれえない (中略) つまり、社会的要請というものが前提とされた時点で、個人ではなく社会の中の一員という視点が必要になる。
とかね。なかなか立派です。米国のコミュニタリアンの論文からの引用です、とか言っても騙される人いそうでしょ(笑)。

さて、最後の方に私がややこしいことを言ったので補足をば。言いたかったのは、「社会的要請」というのは、「法令」がすでに存在していて、それが人々のフェティシズムの対象になっているとき――つまり、法令遵守それ自体に価値があると(誤って)思い込んじゃってるとき――には、法令よりも上位の審級としてその相対化に役立つ、という面が確かにあるけれど、まだ法令が存在しないときに用いると、特定の人間集団の私的な要求にすぎないものを「社会的」要請として(不当に)正当化しかねない危険があろうことよな、ということでした。・・・えーと、やっぱややこしいですねすいません。

司会者は、事前にレジュメの内容を知ることができなくて仕方ない面もありますが(そしてそれは報告者が悪いんですが)、自分が事前に準備したフレームに回収しようとするのが少し強引でしたかね。この辺は加減がなかなか難しくて、報告内容が薄くてしょうがない場合には、司会者が濃度を増してやるのが有効なんですが、今回は、レジュメで実質的に新しい議論が出てきていたので、まずはそれに乗ってあげるというのが正解だったと思います。と、こんなことを書いておりますが、私だってちゃんとできるわけではありませんのでまあその辺は。


以下、出席者のコメント。

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2009年6月23日

謝謝!

向山恭一先生から星野博美『転がる香港に苔は生えない 』をいただいた。読むのが楽しみである。謝謝!

つれづれなる読書

授業数が多くて忙しい。授業関係以外で読んだ本で面白かった本を紹介します。今橋映子『フォト・リテラシー』、星野博美『愚か者、中国をゆく』『謝謝!チャイニーズ』、鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』。

2009年6月18日

人文総合演習A 第9回


報告は、我々の「自由な選択」の基礎になっていると想定され、また我々自身がそう信じている欲望や選好といったものが、実は心理的な潜在過程における外部からの操作可能性に晒されているという本書の知見を受けて、そのことの倫理的意義について、一つの思考実験を通して考えてみる、というものでした。

この思考実験はなかなか興味深いので、原文のまま引用してみましょう(読みやすくするために適宜段落を分けました)。

私は今まで自分で買い物をしたり、着る服を選んだり、食べるものを決めたりしてきた。しかしある日突然政府から

あなたは今まで自分の意思で買いたいものや着たい服、食べたいものなどを選択してきたつもりだろうが、実はそうではない。それらの行動はすべて私たちが特殊な装置を使ってあなたにそうしたいと思わせ、それらを選択させていたのだ。

だが、それには多大な費用と手間がかかる。そこで私たちはもうあなたを陰でこっそりと操ることを止め、正直に話すことにした。

さてここに、中に入るとあなたは私たちが指定するものが欲しくなる機械がある。入ってくれれば、欲しくなったものをあなたは手に入れることが出来る。いちいちあなたの意思で選択しているかのように操作するよりも直接この機械に入るほうがはるかに時間も費用も手間もかからない。しかもいらないものを押し付けられるのではないし、欲しいと思えるものが手に入り満足感も得られるのだ。やっている行為自体は今までと変わらない。ただ、あなたが操られているということを知っているかいないかの違いしかない。

ということを言われるとする。

ちょっと分かりにくいかもしれないけれど、これは要するに「自分で選んだつもりになって消費して満足している生活」から、「自分で選んでいる感」だけを取り去ったとき、我々は大切なものを失ったのかどうか、ということを考えるための思考実験になっています。ただ、議論の中でも明らかになったとおり、「政府」といういかにも悪者的なアクターが登場しているために、いろいろと余計な思考を呼び込んでしまいがちではあります。(なので、操作のアクターを「神」とかにしておいた方がよかったかもしれません。)

報告者の直観は、やはりここで大切なものが失われていると告げているようです。それは選択過程それ自体が与えてくれる楽しさ、だと言います。しかし、私としては、それだけではちょっと弱いのではないかと思います。その程度の娯楽であれば、政府(神)はおまけで擬似的に与えてくれるかもしれません。

他方、結構多くの人が、食べるもの、着るもの、読む本などを、実際にも自分では選択していないのではないかとも思います(実家の人、夕食のメニューを選択しているのはあなたですか?)。与えられた食事が美味しければ、与えられた服が自分に似合っていると思えれば、それで十分という意見は、それほど突拍子もなくもないのではないかと思うわけです。

さらにいうと、人生において重大な意味を持つもの、たとえば「愛」というのは、自己選択感の〈欠如〉によってこそ特徴づけられるものではないか、という議論も可能です。Liebe als Passionですね。恋は落ちるものであって選ぶものではないとか云々

とまあ、そういういろんな観点からの議論を喚起してくれる思考実験だったと思いました。報告は分量として少し短すぎました。もっと自分の思考実験の可能性を、様々な方向から分析してみるとよかったかと思います。

司会者は、自分の意見を表明しつつ、それに対する他の出席者の反応を引き出すという方針で、なかなかうまいことやっていたと思います。まあ問題は、勝手にたくさんしゃべりたがる人がいるので(私のことですが(笑))、それをどううまくあしらうかということでしょうかね。他人事のように書いてしまいました。


以下、出席者のコメント。

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2009年6月17日

現代社会学Bの授業資料(2008.0617)

現代社会学Bの授業資料(2008.0617)です。

2009年6月16日

ネットで評判がよかったので、加藤徹氏の『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか』光文社新書、『貝と羊の中国人』新潮新書、『漢文力』中公文庫、『西太后 大清帝国最後の光芒』中公新書を読んだ。とても面白いし学ぶことが多かった。

2009年6月15日

社会学概説D資料

社会学概説Dの授業資料(2008.0615)です。

2009年6月11日

人文総合演習A 第8回


しかし、下のコメントにもあるけど、みんなレジュメ作るのうまいねー。いや、単に、要約「は」うまいね、みたいなイヤミではなくて、イントロから材料の提出、料理、食事、食後のデザートまで、一つの流れがきちんとできている。それに較べて、自分が学部1年の頃の「基礎演習」という人文総合演習に似た授業で作ったレジュメの貧相なこと(ああ恥ずかしい。でも他の人も似たようなもんだったけど)。まあともかく、料理の構想があるからこそ、材料もうまく調達できるってことです。料理のことを考えず、材料選びだけまずうまくなろうったってそれは無理な話。そしてこのことは、実際に料理をしてみた人にしかわからないこと。「演習」という授業の醍醐味はここにあるんですねー。

さて、今回の報告ですが、かなりラディカルな制度変更(学級廃止とか)を含む著者の提言に対して、そのラディカルさゆえのリスクを重視し、そこまでラディカルな変更を行うことなく、現在の制度の枠内でも可能な、しかし現状では行われていない対策を模索する、という形式でした。

その内容は、一言でいうと、生徒と教師の個別面談の機会を増やす、というもので、まあこれについては、報告者自身が「甘い」と思われる可能性を自覚しているとおり、甘いだろうなとは思います。しかし、ここから一般論ですが、著者の提言が「人類滅んじゃえば問題解決」的な、十分条件ではあるが必要条件ではないことまで言っちゃってないか、という観点からの検討、そしてそれに基づく、十分条件を必要十分条件に近づけていく知的努力というのは、「議論を作る」という点からは非常に有効です。実際ここから、出席者たちの活発な議論が出たわけですし。あとはまあ、もう少し報告者自身が議論に加わって、異論を返り討ちにしてあげる、というのがほしかったですが。

司会者は、「びしばし指名型」でしたね。おそらく意識してやったのでしょうが、これまでで一番、出席者間での発言のバランスがとれていたのではないかと思います。もう少し報告者に振ってもよかったんじゃ、というのと、わからなくなったら自分で考え(込ま)ないで、わかってそうな人に振ってしまって時間をかせぐ、というのをやってもいいかなと思います。あんまり流れを気にしすぎると縛られてしまいますからね(私の出身ゼミでは、「じゃあ、どっからでも」で議論が始まるのが通例でした)。

それから今日も、おかしと飲み物の差し入れがありました。私もお茶と紙コップ持っていったんですが、お呼びでなかったみたいで(泣)。


以下、出席者のコメント。

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