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2008年5月 アーカイブ

2008年5月 1日

イタリア語の歴史 俗ラテン語から現代まで

新学期が始まったなぁと思っていたら、もう五月になっていました。

今、私は「外国語ベーシック」という講義を担当しています。
ドイツ語、スペイン語、イタリア語が、同時に学べる講義です。
毎週、一年生のみんなと、ブゥォンジョルノ!とやっているわけですが、
イタリア語の歴史に疎いことに思い至りました。
お恥ずかしいことに、「ダンテがイタリア語を整備した」ぐらいしか、自信を持って言えない。

そんなとき、手にしたのがこの本です。

ヴァレリア・デッラ・ヴァッレ、ジュゼッペ・パトータ著、草皆伸子訳
『イタリア語の歴史ー俗ラテン語から現代まで』(白水社、2008年)

これを読むと、作家たちがなぜその言葉を選んだのか、
その結果、後世にどのような影響が出たのか、がわかります。

例文には、原文も併記されていて、
「へー、こんなかんじで訳すのね」とウンウンうなりながら楽しみました。
訳文も、堅苦しくなく、素晴らしいです。

言葉って生きているものだ、と改めて教えてくれる、楽しい本でした。

2008年5月 9日

新潟大学の初修外国語教育が新聞で紹介されました

文コミの多くの先生方も参加している、平成19年度文部科学省特色GP採択の取組「総合大学における外国語教育の新しいモデル」が、新聞記事になりました(読売新聞、2008年5月3日、地域26面)。

著作権の関係もあり、ここにコピペするわけにはいきませんが、興味のある方は図書館等でご覧になるか、人文学部の先生におねだりしてみてください。ちなみに、記事の写真をアップで飾っているのは、文コミのムシューH先生の奥様です。また、記事に直接反映されてはいませんが、記者の方からのインタビューに応じた学生は文コミの4年生です。

2008年5月12日

お知らせ

学務第一係から連絡があり、今年度の集中講義の日程、履修方法等について、23日(金)頃に掲示する予定とのことでした。
履修を考えている学生は注意してみていてください。

2008年5月26日

新潟大学の初修外国語教育が今朝の新聞で紹介されています

平成19年度文部科学省特色GP採択の取組「総合大学における外国語教育の新しいモデル」が、今朝の新聞で紹介されています(朝日新聞、2008年5月26日)。

ちなみにBは、直接的な取材以外にも、この記事のためにずいぶん協力しましたが、新聞記者の仕事ぶりをつぶさに知ることができる、なかなか興味深い経験でした。

2008年5月28日

大学における教育とは?

 最近、ある委員を引き受けたために、大学における教育ということを考える機会が増えました。以前、三浦先生の個人雑誌『NEMO』で、座談会をしたことがあって、その際に、「最近の大学は高校みたいですね」なんて、笑いながら話していたのですが(たとえば、「昔は、学部で専門的な研究をしていたけど、今は、それは大学院だ」というようなことはよく言われますね)、その時は、重大なことに気づいていませんでした。それは、つまり、教員の方も高校の教員になるんだということに。

 それはどういう意味かというと、例えば、小学校の先生は、いろんな科目を教えることになりますが、その分、教える内容については、研究をして得た知識ではないと思うんです。教え方の研究はあるでしょうが。高校の先生は、自分の専門の研究をしている人もいますが、例えば、日本史の先生で新潟で上杉謙信の研究をしていても、それだけを教える訳ではなく、古代から現代まで日本史を教えるのでしょう。そして、その内容の大部分は、定説になっているものを本で勉強したものではないかと思うんです。

 さて、大学教師ですが、以前なら、主に、自分が研究をしていることを話していたように思うんです。もちろん、それだけでは充分でないので、そこをもとにして幅を広げていくというようなやり方だったと思うんです。それが、極端に大衆化した大学では(現代のはやりの言葉では、「ユニヴァーサル段階に達した大学教育」ということになります。正確には大衆化はマスですが。)、それではすまなくなっていると思います。最近のシラバスでは、「学習の到達目標」というのを書く欄があり、まあ、簡単に言えば、その講義を聴くことでどういうことが身につくのかを明示することになっています。

 ここからは、私の過剰反応かもしれませんが、だとしたら、私の研究する狭い範囲のことだけではなく、もっと幅広く、例えば、半年の講義を聴くとロシアの演劇の流れがしっかり分かるとか、そういう講義をしないといけないような気がしてしまうのです。まあ、これなど、まだ楽な方ですが、戦後から今までのアメリカ、ロシアの文化の日本に対する影響が分かるとか。こうなってくると、自分で研究している部分以外に話すことが増えてきます。もう大変です。時間がないから、定説が書いてある本に頼るということになってきます。高校の先生のやり方です。現役の学生さんも読んでますね。すみません。

 昔の大学(私も知らない戦前とか)はどうだったんでしょうね。私には、次の二通りしか思い浮かばないんです。一つは、教員が皆、ものすごい能力の持ち主で、自分が専門で研究する領域以外のこともどんどん勉強して、それを講義していた(昔の教員のすごさは、千野栄一『外国語上達法』(岩波新書)だったと思うんですが、酒飲んだあとである作品名をあげて、それをこれから読むんだと言うのを、よく聞いてみたら、原書で読むのだったという話とか、読んだことがあります。それとも、酒は抜きだったかな)。もう一つのイメージは、学生のできが違って、教師は自分が研究している専門領域のことを話すのだけど、学生が、その方法を自分の研究にすぐいかすことができるので、狭い話でも充分足りたというものです。

 たぶん、両方だったんでしょうね。ふー。(もしかしたら、続く)

2008年5月31日

アダルトなロシア語

とはいえ(いったい、誰の、どのエントリーとの、どのようなつながりで「とはいえ」になるのか、自分でもよく分かりませんが)、のろのろと、不自由しながらテクストを「読む」という、いまとなっては古くさい教育実践の中からしか得られない快楽というものは確かにあって、昨今の「教育改革」なるものの意義を理解しないではないものの、たまには「到達目標」だとか「授業評価」だとか「PDCAサイクル」などという言葉をすっかり忘れて(最後の言葉は知らない人がいるかも。GP業界の隠語ですね)、テクストの片言隻語の輝きにひたっていたいと思うときもあります。

たとえば、これは文コミの授業ではないのですが、2年生相手のロシア語購読の目下のお題は「アダルトなロシア語」。別名、アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ「犬を連れた奥さん」。

冒頭、主人公の年齢について"Ему не было еще сорока"と書かれていることに軽くショックを受けつつ(ここではあえて訳さないでおきます)、気を取り直して、妻子ある主人公が避暑地ヤルタで「犬を連れた奥さん」とあだ名された女性と出会い、次第に親密さを深めていく過程を読みすすめていくと、こんな文章にぶつかります。

У нее в номере было душно, пахло духами, которые она купила в японском магазине. Гуров, глядя на нее теперь, думал: "Каких только не бывает в жизни встреч!"

Bの試訳(あくまでも試訳なので、あまり追及しないでくださいね)。

彼女の部屋は蒸し暑く、日本雑貨の店で買った香水の匂いがこもっていた。グーロフは、いまあらためて彼女の姿に眼をやりながら考えていた。「人生にはこんな出会いもあるのだ!」

次に示すのは、ネットで見つけた英訳(あくまでもネット上の拾いもので、アップした人の間違いということもあり得ますから、もとのページにはあった書誌はあえて記さずにおきます)。

Her room was stuffy and smelt of some scent she had bought in the Japanese shop. Gurov looked at her, thinking to himself: "How full of strange encounters life is!"

おわかりでしょうか。この英訳からは、この件でもっとも重要な一語が抜けていますよね。原文で"теперь"、なんのことはない、あらゆるロシア語学習者が一月もしないうちに覚える単語で、英語でいえば"now"にあたります。しかし、この一語の脱落を、翻訳にはつきものの単なる迂闊といって許すわけにはいかない。あるいは、語学の教室でよく見られるように、機械的に「グーロフは、いま彼女を見ながら考えた」と訳してしまったのでは台無しになる。ここはなんとしても「いまあらためて」とか「あらためて」でなければならない。ほんの一時間前には気づかなかったことに「いま」気づいた主人公の驚きが、この一語には込められているはずなのです。

その少しあとでは、こんな文章。

Но тут все та же несмелость, угловатость неопытной молодости, неловкое чувство; и было впечатление растерянности, как будто кто вдруг постучал в дверь. Анна Сергеевна, эта "дама с собачкой", к тому, что произошло, отнеслась как-то особенно, очень серьезно, точно к своему падению, - так казалось, и это было странно и некстати.

Bの試訳。

しかし、ここにあるのはあいもかわらぬ臆病さであり、経験の少ない若い女にありがちなぎこちなさ、気まずい思いだった。まるで誰かが急にドアをノックしたときのような、途方に暮れた感じ。アンナ・セルゲーエヴナ、この「犬を連れた奥さん」は、起こってしまったことを何かおかしなくらいに真面目に考えていて、まるで私は堕落したとでも言わんばかりだった。――そんなふうに見えたのだが、それは奇妙だったし、場違いだった。

英訳。

But here the timidity and awkwardness of youth and inexperience were still apparent; and there was a feeling of embarrassment in the atmosphere, as if someone had just knocked at the door. Anna Sergeyevna, "the lady with the dog," seemed to regard the affair as something very special, very serious, as if she had become a fallen woman, an attitude he found odd and disconcerting.

ポイントになるのは、"все та же"(「あいもかわらぬ」)、英訳なら"still"の部分でしょう。野暮を承知で補えば、「あんなことがあったのに、その前後で変わらぬぎこちなさ」といったところか。「まるで誰かが急にドアをノックしたときのような」――普段から教室では「分析だ、理論だ」と口をすっぱくして言っているBですが、こんな表現に出会うと、ふと、面倒な理屈などいっさい放棄してしまいたくなるような誘惑に駆られます(ダメじゃん)。けれども度外れの純情さを前にした主人公の驚きは、百戦錬磨のプレイボーイが感じるかすかな苛立ちと隣り合っている。客観的であるべき地の文のなかに、主人公の内面の声が混じりこんできます――たかがこれしきのことなのに、ずいぶんな落ち込みようじゃないか。大いに楽しまなくちゃいけないのに――英訳は原文のダッシュの「間(ま)」を取り去り、さらに"he found"を補って感情の主体を明示してしまっているために、地の文の客観性と主人公の主観性が交差する原文の微妙なニュアンスを台無しにしてしまっているような気がします。

そんな主人公の当惑を予告していたかのような、数頁前の一文。

原文:"Что-то в ней есть жалкое все-таки"
試訳:「それにしても、あの女にはなにか憐れをさそうところがある」
英訳:"And yet there's something pathetic about her"

"pathetic"という英訳は、少なくとも(あまり当てにならない)Bの語感からすると「ありえねー」のですが、それはさておき、じゃあ"жалкое"をどう訳すかといわれると途方にくれてしまいます。薄給を顧みず十数万もはたいて買った全17巻の重い重い辞書を引いてみても、やはり答えは得られない。とりあえずこんなふうにでも訳しておくしかないけれども、どんなふうに訳してみたところで、それではすくえない含意が残るような、そんな一語。

文コミにはチェーホフがご専門のS先生がいらっしゃいますので、恥ずかしいかぎりですが、いやあ、Bにとっては、チェーホフはやはり鬼門ですね。こんな文章を前にして、どんなふうに論じたらいいのか分からない。ばかみたいに、教室で「いいなあ~」と嘆息して、学生のみなさんを当惑させるばかりです。文学的な、あまりにも文学的な。こんなことでは、最近話題になったロシア文学者を嗤えないですね。

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