火葬場の煙突 ― 『小早川家の秋』 と大堰川 ―
― 小津安二郎の描く東京 (6) 番外篇・京都
『小早川家の秋』 の大堰川 (京都・嵐山,渡月橋から)
小津の『秋日和』(1960年)について,「東京タワー」「紅葉」「婚礼衣装」という観点から,先の記事で,アグファ・カラーの「赤色」の表す本質として述べたが,そうであるならば,翌年製作された『小早川家の秋』(1961年,宝塚映画,東宝)についても記しておかねばならないだろう。『秋日和』が東京を舞台としたものならば,『小早川家の秋』は,謂わば,京都版『秋日和』であり,「赤色」とは対称的に,「黒色」が基調となっている映画でもあるからである。秋子(原節子)と紀子(司葉子)のこの二人の結婚話が,一応の筋とはなっていることから,『秋日和』の京都版だとも言えるのだが,『小早川家の秋』は,晴れの「東京タワー」ではなく,驚かせるような題名で申し訳ないが,赤煉瓦の「火葬場の煙突」が重要な主題となっている点に於いて,『秋日和』の合わせ鏡のような,対称的な作品であると思われるのである。
「小津安二郎の描く東京」ということで,ここのところ連載を続けているが,本来ならば,色々なブログ記事の合間合間に掲載することになれば理想的なのだが,勝手ながら連発する結果となることをお許し頂きたい。尚,掲載してある写真は,全て,私が撮ったものであるが,小津の映画研究のために特別に撮ったものではなく,東京とかに行ったついでに,隙を見て,ちょこちょこっと撮ってきたものなので,お見苦しい点があらばご寛恕の程をお願いしたい。
京都市左京区 (銀閣寺から望む)
さて,『小早川家の秋』は,初めての東宝作品(『宗方姉妹』は,1950年,新東宝)であるのみならず,宝塚映画作品であることに,一つの特徴がある。宝塚映画は,東宝の隙間を埋める形で,同じ阪急系として,『南十字星』(1941年),『極楽島物語』(1957年),『アワモリ君西へ行く』(1961年),『大菩薩峠』(1966年)などの映画を製作していた映画会社である。『小早川家の秋』は,当初から,京阪神地区を舞台とすることが決まっていたものである。
小津安二郎の描く東京を紹介するのが,本連載の私の意図ではあるが,今回は,番外篇として,京阪神の紹介をしたいと思う。私は,東京生まれの東京育ちだが,一時期,小学校の頃,宝塚と神戸に暮らしていた。こういう現象を,東京では,「隠れ関西」とも言われる。文コミの教員では,S先生も,実は「隠れ関西」である。また,B先生は,(東京下町ではなく)西東京の育ちである。その他,文コミの教員スタッフは,新潟佐渡地方や,東北地方の出自である方が,当然のことながら多いのだが,I先生はと言えば,半分京女である。こんなことを,ここで暴露しても仕様がないが,微妙に差異のある研究スタイルや,学風のちょっとした違いが,実は,この様な,生まれ育ちの地域差も,程度の差こそあれ,関係無しとは言えないことを,文コミの学生諸君なら,それとなく知っておいても良い。
佐藤忠男『映画の中の東京』(平凡社ライブラリー,2002年)は,小津の映画も含めた,すぐれた映画論・東京論の一つだが,東京人が地方に下ることを「都落ち」として正面から捉え,小津の映画に見られるこの「都落ち」(『早春』など)を論じていることには注目に値する。『伊勢物語』で,「昔男」が東に下って,「似非みやび」を糾弾する断章には,実に凄まじいものがあるが,昭和の映画史の中で,「都落ち」の映像論に言及することが可能だったのは,東京に暮らす佐藤忠男氏が,本人もその経緯を述べておられるように,新潟の出身であったことにその大きな要因があったのだろうと,私は,ほぼ間違いのない事実として確信している。私も,三代溯ると,実は,新潟である。私の姓は「猪俣」だが,新潟に多い姓でもあり,ご先祖さまが,この私を新潟に「都落ち」させたのである(亡き母も,生前そう言っていた)。
……さて,余計な前置きとなってしまったが,『小早川家の秋』(こはやがわけのあき)は,最後のシーンに見られる,原節子と司葉子の喪服の「黒」とその裏地の「白」が,眼には鮮やかなのである(但し,フィルムではなく,DVDの映像で見たものであることは,言っておかねばなるまい)。映画の最後のカットも,京都の川辺の,カラスの「黒」であることは,それまでの小津の映画にはない,謂わばショッキングな映像表現の一つだと,私の眼には見える。「赤煉瓦」の火葬場の煙突も,『秋日和』の東京タワーの「紅白」とは対称的に,ひたすらに,葬送の儀式を象徴しているように見えるのである。
京都・四条烏丸
『小早川家の秋』は,大阪は道頓堀のネオンに始まる。しかし,小津初出演の森繁久弥の,黒と白の縞の背広には,初手から,何やら違和感を感じさせるものがある。『秋日和』に倣うようにして,大阪城の見えるオフィスビルの映像(司葉子が勤めるオフィス,東宝の白川由美が,『秋日和』の岡田茉莉子に取って代わっている)も登場するし,阪急十三駅での,司葉子と宝田明(東宝ゴジラ映画の顔役ではないか!)の会話,そして,『宗方姉妹』にも見られた京阪神の舞台を思い起こさせる京都の光景など,『小早川家の秋』は,「小津の東京」の,謂わばアナザー・ワールドの映像としてのみならず,その対称性の鮮やかさに,驚かされるのである。
京都・東山 (『小早川家の秋』 の旅館「佐々木」)
小津が,箱根を越えて,関西方面を描くのは,そう珍しいことではない。『お茶漬の味』(1952年)では,木暮実千代が,東海道線の天竜川鉄橋を渡り,浜松,神戸方面へと向かっているし,『東京物語』(1953年)では,笠智衆と東山千栄子が尾道から上京しており,その帰りには,三男のいる大阪の鉄道線と大阪城が描かれている。『早春』(1956年)では,岡山県三石に「都落ち」する池部良と淡島千景が描かれるし,『彼岸花』(1958年)では,佐分利信が,京都から広島へ,急行「かもめ」の3号車(電気機関車+客車10輛編成)に乗って,東淀川の鉄橋を渡っている。溯って,『宗方姉妹』(1950年)では,京都(京都大学),奈良(薬師寺),神戸元町など,関西地方がふんだんに描かれてはいるが,話の中心となる舞台は,やはり,東京の大田区大森と東銀座・築地である。そんな中にあって,『小早川家の秋』が,(東京を描かず)京阪神を唯一の舞台としていることは,やはり,珍しいのである。
京都・花見小路 (四条通・祇園へ)
『小早川家の秋』で,原節子と司葉子が語らうのは,京都・嵐山の大堰川(保津川)である。これは,渡月橋の上流域。尚,下流域は,桂川と言う。大堰川は,延喜7年(西暦907年)9月10日,宇多法皇が,紀貫之らと行幸せられ,「大堰河行幸和歌」を催した場所でもある。紀貫之は,その時,
秋ノ水ニ泛(うか)ブ
波の上をこぎつつ行けば山近み嵐に散れる木の葉とや見む
と詠い,舟を木の葉と見立てる,古今集時代に典型的な歌を残している。『小早川家の秋』の描く嵐山は,そんな王朝的雰囲気を,今でも残しているのである。
阪急十三駅 3番線・宝塚方面
『小早川家の秋』 の京都行き特急は,左の5番線
司葉子と宝田明が,帰りの電車を待っている駅は,阪急十三駅。十三(じゅうそう)は,梅田から出発する阪急京都線,阪急宝塚線,阪急神戸線が,淀川を西へ渡り,そこから三方面へと分岐してゆく中枢駅であり,梅田から見て,大阪の下町である。安い飲食店の並ぶ歓楽街でもあり,札幌に行くという大学教師の寺本(宝田明)の送別会に,司葉子や白川由美らが集うのである。原節子は,『秋日和』と同じく,再婚しないようだし,司葉子は,お見合いを断って,札幌に行く決心をするところが,『小早川家の秋』の結婚話としての一応の筋である。
しかし,赤煉瓦で造られた「火葬場の煙突」の煙には,小津の他の映画にはない,名状し難い感慨に襲われる。私は,昨春,東京・町屋の斎場に,母を送ったが,町屋斎場(荒川区町屋1丁目23-4)は,12基の火葬炉を持つ,都内最大の火葬場である。しかし,近年は,景観や環境への配慮などで,火葬場に煙突はない。勿論,煙も出ないように設計されている。死者の魂が,天空へと棚引いてゆくという光景は,最早,見られないのである。死者は,そのまま,地下の墳墓へと眠りに着く。
『小早川家の秋』の嵐山には,「紅葉」はない。しかし,大堰川の「川の流れ」がある。秋子(原節子)と紀子(司葉子)は,秋子に残された長男が川縁で遊ぶ姿を見つつ,そこで,将来を語り合うのである。死者と生者との,どうしようもない非連続性(断絶)を,いやという程感じつつも,そこに,僅かに,連続性(生命の連鎖)を見出すのである。二人の喪服(小早川万兵衛の死)の「黒」と「白」の色合いに,『秋日和』の「赤」と「白」との対称性にはっとしつつも,『秋日和』の「紅葉」に相当するものが,京都・嵐山の「大堰川」(おおいがわ)の流れにあったことに,行方は西の山なれど,眺めは四方の秋の空,一筋の光明を見る思いがするのである。
桂川 (大堰川の下流域) 阪急京都線の車窓から