あまり知られていないことですが、文コミでは文学の教育研究も盛んです。さらに知られていないことですが、マイナーなはずのロシア文学研究者が、なぜか二人もいます。そして誰も知らないことですが、そのうちの一人はドストエフスキーを研究しています。私のことですが。
最近、出版界では、なぜか古典の新訳が盛んです。理由はよく分かりませんし、とりたてて騒ぐようなことではないと思うのですが、それでもやっぱりちらちらと覗いてみると興味深いところもあります。一例として、知る人ぞ知るドストエフスキーの傑作(?)『地下室の手記』(1864年)の冒頭を見てみましょう。順に、これまで新潮文庫などでおなじみであった江川先生の訳、光文社古典新訳文庫の一冊として今年の5月に出たばかりの安岡先生の新訳、クラシックなガーネットの英訳、そして原文です。
1) ぼくは病んだ人間だ……ぼくは意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ。ぼくの考えでは、これは肝臓が悪いのだと思う。(江川卓訳)
2) 俺は病んでいる……。ねじけた根性の男だ。人好きがしない男だ。どうやら肝臓を痛めているらしい。(安岡治子訳)
3) I AM A SICK MAN.... I am a spiteful man. I am an unattractive man. I believe my liver is diseased. (trans. Constance Garnett)
4) Я человек больной... Я злой человек. Непривлекательный я человек. Я думаю, что у меня болит печень.
それぞれ微妙な違いと苦心が見られますよね。原文では主語の代名詞"Я"、それに「人間」とか「男」にあたる"человек"という語が三回繰り返されていますが、英訳はそのまんま"I", "man"と繰り返し、江川訳は「ぼく→ぼく→省略」「人間→人間→男」と変え、安岡訳は「俺→省略→省略」「省略→男→男」としています。さらに原文では冒頭の文は「主語+名詞+形容詞」、2番目の文は「主語+形容詞+名詞」と語順が変わっていて、3番目になると「形容詞+主語+名詞」という奇天烈な語順になっています(ちなみに現代ロシア語では2番目の語順が一番普通)。当然ニュアンスの微妙な違いが出てくるわけですが(うまく説明できないけれど)、英訳はそれをすぱっと切り捨て、日本語訳二種はなんとか表現しようと頑張っています(苦しげですが)。
ところがこの箇所に関しては、とんでもなく斬新な解釈が存在しています。日本を代表するドストエフスキー研究者で、私がもっとも敬愛する一人、中村健之介先生によるものです。全体の翻訳を出されているわけではないので、この部分の訳を含む研究書の一節を引用することになりますが、要するに、これは漫談だというのです。
5) その最初の断章「地下室」で私たちは、いわばこの手記者の独演をうんざりするほど楽しむことになる。ドストエフスキーの書くものは初期の短篇でも後期の長篇でもおかしくて思わず笑ってしまう個所が多いのだが、『地下室の手記』(一八六四年)のいやらしくて滑稽な、それでいて赤くむけた傷に風があたってひりひりするような痛さもあるお喋りの面白さはまた格別である。これは全篇がいわば様々な色あいの笑いをかもし出す酵母のかたまりだと言ってよいだろう。
「地下室」の男はのっけから「わたしはねえ、病気持ちなんですよ……腹黒い男なんです。魅力ってものの無い奴なんですよ。肝臓がわるいんだと思うんです」と、お役をつとめる太鼓持ちよろしくギャグをとばし続け、はあはあ息を切らしている。(中村健之介『ドストエフスキー・作家の誕生』みすず書房、1979年、220頁)
どうです? ちょっと面白いでしょう。ちなみにおまえはどう思うんだ、と言われると、中村訳に驚き、最大限の賛辞を惜しまないものの、選ぶとなるとだいたい江川訳あたりで落ちつくかな、といったところです。なぜか? これが「手記」(ロシア語原文ではЗаписки、英訳ではnotes)だからです。これで分かります?