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猪俣・日記 アーカイブ

2009年5月 9日

永代橋と清洲橋 ― 隠された隅田川 ―

― 小津安二郎の描く東京 (12)


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清洲橋 (隅田川下流側から望む)


「隅田川」が,『伊勢物語』や謡曲『隅田川』,永井荷風や芥川龍之介など,王朝時代から近現代の文学に至るまで,圧倒的な文学的題材であったことはよく論じられている(例えば,久保田淳『隅田川の文学』,岩波新書,1996年,など数多ある)。映画の題材としても,「隅田川」は,埋め立てられてゆく「築地川」と共に,戦後,発展する「陸の都」東京ではなく,消えゆく「水の都」東京を懐かしみ,そして,それを描こうとする映画,川島雄三の『銀座二十四帖』や成瀬巳喜男の『銀座化粧』,豊田四郎の『濹東綺譚』など,1950年代~1960年代の日本映画には数多く見られ,郷愁をも誘う。そんな中にあって,小津安二郎は,戦後,それまであまり描かれることのなかった「荒川」(荒川放水路)(『風の中の牝雞』,『東京物語』)や「多摩川」(六郷川)(『早春』,『お早よう』)という東京周辺部の川を,新たな表象空間として発見し,カメラを向けてゆくことは特筆されて然るべきことであろう。

しかし,何故,「隅田川」をこれ程までに隠し,と言うか,深川一丁目生まれの小津が,「水の都」東京の下町を描くことに抑制的であったのか,大いに関心が寄せられる問題ではある。東京を描き続けた監督ではあるものの,総じて,その「垣間見的な」,そして,よく言われるように,「断片的な」東京の描き方には,代わりに川島雄三の映画など,これでもかと言う程,ふんだんに東京が描かれる映画で,その渇望感を満たすしかないのかとさえ思わず言ってしまいたくなりそうなのだが,逆に,垣間見せられたその断片的な「東京」の光景には,つい,のめり込みたくなるような魅惑を秘めた映像の表現力の為せる技があることも,恐らく事実なのであろう。

小津の描く戦後の東京は,京浜工業地帯の工場の煙突とか,首都東京の鉄道高架線(有楽町,渋谷,五反田,上野)とか,銀座・丸の内の商業地区とか,江戸の古寺名刹の類ではなく,明らかに,「戦後の東京」である。ゴジラやモスラが壊したくなるような(そして,実際に壊した)場所,即ち,「首都 TOKYO」でもある。これは,偶然の一致ではなく,小津の映画とゴジラ映画史が,同じ「東京」を見ていた証左だと,私には思われる。


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清洲橋 (中央区日本橋中洲1番から望む)


さて,前置きはこの位にして,小津の描いた「隅田川」について見てみよう。小津は,隅田川に架かる「橋」として,勝鬨橋(『風の中の牝雞』),永代橋(『一人息子』),清洲橋(『秋日和』),相生橋(晴海運河,『風の中の牝雞』)を描いている。勝鬨橋については,以前の記事でも写真を紹介して何度か触れたこともあるので,今回は,永代橋と清洲橋を中心に紹介してみたいと思う。個人的なことで恐縮だが,この度,母の一周忌で,私は東京を訪れた。そして,隅田川を船で下ることで,煩悩を流し,人生に一区切りを付けるべく,東京湾にその思いの全てを(ゴジラの遺骨のように)沈めた。この機会に,写真も1,000枚程撮ってきたので,再び,小津の描いた東京を紹介したい。

小津の『一人息子』(1936年)では,信州から,東京在住の息子を訪ねて上野駅(頭端式駅,汽車,C51185)に上京した母の姿が描かれる。この母(飯田蝶子)は,信州の紡績工場(生糸)で女工として働いている。この辺は,モスラの描く「絹の国」日本とも関係があるのだが,それは措くとして,上野駅に到着した母とそれを出迎えに行った息子の二人は,永代通りを通って,永代橋を渡り,江東区にあるささやかな息子の家へと向かってゆく。永代橋(現役橋の竣工は,1926年12月,185.2m,下路3径間カンチレバーソリッドリブタイドアーチ橋,架設は東京石川島造船所)を渡りながら,

「向こうに見えるのは清洲橋。」

と台詞で言われ,息子が東京を紹介しようとする。しかし,不思議なことに(と言うより,小津の映画にあってはいつものことではあるが),清洲橋は見えない。隅田川も見えない。永代橋も,その上部だけが見えるに過ぎない。小津のカメラは,永代通りに架かる路面電車の架線を追っている。母と息子の二人は,どうやらタクシーに乗って永代橋を渡ったようである。小津が清洲橋を見せてくれるのは,『秋日和』(1960年)になってからのことである。


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永代橋 (中央区側から江東区側を望む)


永代橋を見上げたのが,上の写真である。当時は路面電車の架線が走っていたが,今はもう既になく,東京駅丸の内北口から錦糸町駅前行きの都営バス(東20系統,東22系統)が通り,地下には地下鉄東西線が走っている。永代橋から,「向こうに見えるのは清洲橋。」を実践すると,下の写真のようになる。


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永代橋から清洲橋を望むが……


首都高速深川線の隅田川大橋が,永代橋と清洲橋の間に架かっており,清洲橋が現在では見通せないのである。下の写真は,永代橋の下を潜る時に,清洲橋を見たものであるが,それ程間近に見えるものではないことが分かる。


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永代橋の下から清洲橋を垣間見る


ところで,永代橋は,映画『忍ぶ川』(1972年)の冒頭にも登場するが,お志乃さんの見つめる先が,深川。更にその先が,洲崎(旧深川区洲崎弁天町)である。


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永代橋 (日本橋川河口の豊海橋から望む,橋の向こうが深川)


清洲橋(現役橋の竣工は,1928年3月,186.73m,自定式連続補鋼板桁吊橋,製作は神戸川崎造船所)は,つい見取れてしまう美しい橋である。『秋日和』と同じアングルで撮ったものが,下の写真である(35mm換算で50mm)。撮影地点は,中央区日本橋中洲6番。現在は,「ラピュータ」というマンションになっているが,ここに嘗て,高級料亭「三田」があり,『秋日和』の舞台となっている(川本三郎『銀幕の東京』,中公新書,1999年,35頁)。


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『秋日和』の清洲橋


下の写真が,嘗て,「三田」のあった場所。河岸は,隅田川テラスになっており,のんびりと散策できる。


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中央区日本橋中洲6番 (清洲橋の上から望む)


小津と同じアングルで,広角(35mm換算で28mm)で撮ってみると,下のような感じになる。


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清洲橋


どのアングルで撮ると一番美しく見えるのか,つい何枚も撮りたくなってしまう橋だ。冒頭に掲げた写真のように,真正面からシンメトリカルに見ると,その女性的とも評される,流れるようなラインが美しく見えるのだが,あまり離れると,永代橋と異なり,線の細さを感じてしまうので,結構難しい。

小津の描く清洲橋は,夜の光景であり,隅田川の水面の反射が僅かに見え,船の音が聞こえる。ほんの一瞬のシーンだが,美しい絵である。脚本には「築地」とあるが,(ここは築地ではなく)中洲,浜町,人形町という有数の下町が界隈に控えている場所である。

『風の中の牝雞』(1948年)で,修一(佐野周二)が渡るのが,相生橋。江東区越中島と中央区月島を結ぶ橋で,現在,下には都営大江戸線が走っている。この橋は,隅田川ではなく,晴海運河(隅田川派川)に架かる橋だが,永代橋から目と鼻の先にある。


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相生橋 (手前が隅田川,向こう側が晴海運河,その間に月島がある)


相生橋の現役橋は,1998年に架け替えられたもので,『風の中の牝雞』に登場する相生橋は,1926年11月に竣工した一世代前のものである。

隅田川と言えば,やはり最後に来るべきものが,勝鬨橋。これを越えれば,そこは,東京湾である。ここまで来て,何か,魂が浄化されたような気がする。私も,喪が明けた。


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勝鬨橋


2009年3月19日

松竹キネマ蒲田撮影所跡地 ― 花咲く蒲田の記憶 ―

― 小津安二郎の描く東京 (11)


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松竹キネマ蒲田撮影所 (ジオラマ模型,大田区)


大田区蒲田は,1920年(大正9年)から1936年(昭和11年)まで,松竹キネマ合名社の設立(1920年,創業は1895年)に伴って,蒲田撮影所が開設され,大船に移転するまでの17年間,約1,200本の「蒲田調」とも言われる映画が製作されていた所だ。本連載の最初の記事「小津安二郎の描く東京(1)」でも少しご紹介したが,その跡地をもう少し詳しく見てみたい。

当時の東京府荏原郡蒲田(現・東京都大田区蒲田)の,9千坪の広さの土地に建設された撮影所の跡地は,高砂香料工業(1920年設立,現本社はニッセイ・アロマスクエアにある)の工場地を経て,現在は,大田区による蒲田駅周辺の土地区画整理事業の再開発によって,「アロマスクエア街区」が設けられ(1998年竣工),「ニッセイ・アロマスクエア」(日本生命関連会社のビル)と大田区民ホール「アプリコ」になっている。当時の撮影所の様子は,『キネマの天地』(1986年,松竹)で,往時を偲ばせるとも言われるセットが再現され,浅草六区の「帝国館」,撮影所の「松竹橋」,小津と思しき監督の「うなぎ屋」などと共に,映画史の史実の一端をなぞっている。


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大田区民ホール・アプリコ (大田区蒲田5丁目37-3)


大田区民ホール「アプリコ」(蒲田5丁目37-3)の,1階メイン・エントランスを入った左手に,「松竹橋親柱」(本物)があることは,先の記事でも写真を紹介したが,「松竹橋」とは,当時,撮影所正門前に流れていた逆川(さかさがわ)に架かっていた小さな橋のことである。『キネマの天地』で使われたレプリカの方は,アロマスクエアの公園にあるが,現存しないと思われていた本物の親柱が,鎌倉に残っており,1998年,区民ホール竣工の年に,大田区に寄贈,設置されたものである。ホール地下1階には,大船の鎌倉シネマワールドに展示されていた撮影所のジオラマ模型が,1999年に松竹より大田区が寄贈を受け,展示されている。特別な展示室があるという訳ではなく,階段を下りたロビーに,一つ,どんと置いてある。それが,冒頭に掲げた写真であり,撮影所の位置図と配置図で説明されている。


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松竹キネマ蒲田撮影所・位置図


撮影所が,先ず,どこにあったのか探ってみよう。上の写真は,上下縦(上が北)に数本走っている線が,京浜東北線で,黒い四角形が,JR蒲田駅である。その右の縦長の青い四角形が,大田区役所。その右に広がっている黄色い部分が,松竹キネマ蒲田撮影所である。この位置図では,大田区役所の中央から東に延びている道路線上が,撮影所の北辺ということになる。


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大田区役所 (正面)


上の写真は,蒲田駅東口の通りから,大田区役所の正面を見たところ,180度振り返って見たのが,下の写真。ニッセイ・アロマスクエアの正面が見える。このラインが,撮影所の敷地の北辺である。


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アロマスクエア (大田区蒲田5丁目37番)


撮影所の正門は,どの辺りであったろうか。だいたい,下の写真の辺りではないかと思われる。ここを,70余年前,若き小津安二郎が通っていたのである。


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松竹キネマ蒲田撮影所の「正門」辺り


下の写真は,撮影所の配置図であり,蒲田駅方向から見た図面,つまり,上が南,下が北(蒲田駅寄り)で描かれている。図の中で,①が「正門」,その手前に,「松竹橋」がある。②が,「No. 1 ステージ」,⑭とある一番奥の立派そうな建物が,「本館」である。いずれも,『キネマの天地』にも登場した建物で,城田所長(松本幸四郎,城戸所長が実在の名前)らがいた所が,「本館」の建物であろう。


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松竹キネマ蒲田撮影所・配置図 (左部分)


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松竹キネマ蒲田撮影所・配置図 (右部分)


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松竹キネマ蒲田撮影所 「本館」 (南側面,ジオラマ模型)


ところで,蒲田とは,どういう所であったのだろうか。小津が,蒲田について,書いているものがある。その一つが,1930年9月29日,「都新聞」に掲載された「殺人綺談」という小品である。

「撮影所の所在する新開地――安い白粉と馬糞。葱とウドン粉。踏切に焼き鳥屋。
晴た日なら,会社のロケ・バスが脇臭の匂ひをまきちらし,降れば降つたで,泥,泥,泥の街。
停車場から撮影所に通ずる路の曲り角。」
(小津安二郎著・田中眞澄編『小津安二郎「東京物語」ほか』,みすず書房,2001年,2頁)

蒲田時代の小津が書いたもので,「泥の街」というのが,蒲田のことである。東京府荏原郡蒲田村(1922年,町制施行後,蒲田町)は,1932年(昭和7年)10月,東京市に編入されて蒲田区となり,1947年(昭和22年)3月15日,大森区と一緒になり,大田区(大森と蒲田から一字ずつ取った。東京23区の中で面積は第1位)が誕生して,現在に至っている。小津が上の文章を書いたのは,蒲田が,まだ東京市(今の東京23区)に編入される前のことであった。蒲田は,隣接する矢口,六郷,羽田と共に,「海の南郊」とも呼ばれた,東京の場末の下町である。小津は,それを,「新開地」と言っている(例えば,神戸の地理で言うと,三宮を西に過ぎると,新開地である)。「停車場」とは,国鉄蒲田駅,「踏切」とは,駅の北側(大森側)にあって,戦後,蒲田地区を東西に分断していた「開かずの踏切」と言われるようになったもので,1966年に立体交差の地下道が建設された所であろう(但し,踏切より100m大森寄りに道路を付け替えた。踏切のあった場所には,西口通り抜け通路という地下歩道がある)。そして,「停車場から撮影所に通ずる路の曲り角」とは,下の写真の場所であろう。


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現JR 蒲田駅東口から,撮影所跡地方向を望む


「降れば降つたで,泥,泥,泥の街」とは,蒲田の地名がそれを示しているとも言えるが,『キネマの天地』の冒頭で,雨にぬかるんだ撮影所内を,小走りに歩いてゆく田中小春(有森也実)の足下を撮したシーンは,そんな蒲田を象徴したものである。小春の父・喜八(渥美清)の台詞も,面白い。小春に向かって,「蒲田くんだりまで出かけていくヤツがあるか。」と言ったり,

倍賞千恵子「遠いもんねえ,蒲田は。」……
渥美清「バカヤロウ,俺やお前,蒲田みたいにドブ臭え所に住めるかって言ってやったんですよ。」

とか,当時,蒲田がどういう所であったのか,窺い知ることができるのである(深川から見れば,蒲田は「遠い」)。現在でも,垢抜けない街なのだが,松本清張原作の『砂の器』(1974年,松竹)で,蒲田操車場での冒頭シーンに続き,刑事役の丹波哲郎と森田健作が,蒲田5丁目1番から6番までの呑川沿いの道を歩きながら,呑川(のみかわ,コンクリート護岸)のことを,「この辺のドブ川」とも言っており(確かに,1980年代までは,夏場になると酷かった),河川の環境整備の問題以前にも,嘗ては,降水によって川が氾濫し,呑川流域がよく浸水したという。


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蒲田5丁目6番から1番を望む  御成橋から宮之橋への道  右手が,呑川


また,『やわらかい生活』(2006年,寺島しのぶ主演)というちょっと変わった映画があるが,専ら蒲田を舞台として,蒲田を描いた映画であり,「粋がない下町」だと,冒頭に出てくる。優子(寺島しのぶ)の住むアパート(左隣に銭湯「福の湯」がある)は,私の実家のあった所から,徒歩30秒の場所でもある。蒲田1丁目から,呑川に架かる宮之橋または御成橋を渡り,蒲田5丁目のJR蒲田駅周辺まで,あまりにも見慣れた光景(商店街の今は使われていないアイスクリームの金属製のボックスといった,些細なものまで)が登場するこの映画は,そういう意味で不思議な錯覚に襲われる映画だが,別に,小津の蒲田を意識したものではない。


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蒲田東急プラザ屋上の観覧車 (『やわらかい生活』)


ところで,松竹キネマ蒲田撮影所の南の端は,現在の環八通りまでは至っておらず,一本北側の道だったことが,上の位置図から分かる。下の写真の辺りが,その同一線上に当たる。


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蒲田5丁目45番 (蒲田駅東口の通り)


現代の撮影所の広さ(例えば,成城の東宝スタジオは,24,000坪)から見ると,腰を抜かすほど広大という訳ではない。

蒲田は,住宅と工場が混在した,町工場の街としても知られ,中小の機械金属加工がその中心となっている。前の記事でも少し言及した新潟鐵工所も,その一つで,撮影所から,現在の環八通りを挟んだ筋交いにあった。


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新潟鐵工所(跡地)  蒲田本町1丁目 (手前の道路が,環八通り)


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環八通り (蒲田駅東口の通りとのT字路)


富士通,キャノン,パイオニアも,蒲田周辺の大田区にあり,嘗ては,三菱重工業もあり,戦車や機関銃を作っていた。但し,これらの金属加工の工場には,煙突がなく,蒲田に見られる煙突の多くは,銭湯・温泉の煙突であり,小津も写真に撮っている。

また,大田区には,45館もの映画館があり(1957年当時),新宿区に次いで都内で2番目に多く,蒲田には,20館以上が集中していたという。「春の蒲田 花咲く蒲田 キネマの都」と歌う「蒲田行進曲」は,蒲田の記憶だったのである。


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松竹キネマ蒲田撮影所 (ジオラマ模型)


大田区民ホール・アプリコ館内で撮影した写真は,警備員も見ている中で撮ったものでもあり,撮影禁止ではなかったものと判断しているが,大田区から不適当との指摘等が仮にあった場合は,当該写真は削除する。本連載記事の執筆は,大田区に本籍を置く,猪俣賢司(新潟大学人文学部・准教授)である。
大田区書店組合(企画),大田区(協力)『昭和30年代の大田区―蘇る青春の昭和』,三冬社,2008年,など参照。
大田区HP(http://www.city.ota.tokyo.jp/),参照。


2009年3月13日

勝鬨橋と月島の娼婦 ― 『風の中の牝雞』と戦後日本 ―

― 小津安二郎の描く東京 (10)


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隅田川を挟んで月島を望む (築地7丁目から)


月島は,NHK朝の連続ドラマ『瞳』(既に放送終了)の舞台となった,東京都中央区の元埋め立て地である。町名としては,佃,月島,勝どき,豊海町であり,隅田川最下流の勝鬨橋(かちどきばし)を有する,築地の隣町,都営大江戸線も貫通して,江戸・東京の有数の名所でもある。四方田犬彦『月島物語ふたたび』(工作舎,2007年)としても描かれた所で,江戸開府の折に,家康が三河から連れてきた漁師たちによって築かれたとも伝えられ,その佃島には,嘗て,石川島(播磨)重工業(石川島造船所,1853年創設)のあった所だ。石川島重工業は,蒲田で日本初のディーゼルエンジンを開発した新潟鐵工所(1921年,蒲田工場設置,2001年破綻)とも関係があり,軍艦や航空機を製造していた企業でもある。

小津は,この月島を,実に,感動的に描いているのである。先の記事でも予め少し触れておいたが,佐藤忠男『映画の中の東京』(平凡社ライブラリー,2002年)の指摘にもあるように,『風の中の牝雞』(1948年)の佐野周二と文谷千代子の遣り取りには,敗戦直後の日本の情景が,抑制しつつも,実によく表れているのである。私は,感動的な作品を挙げるとすれば,『忍ぶ川』(1972年,東宝)の他には,この『風の中の牝雞』を第一に数えるであろう。この映画のワン・ショットには,ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(上・下,岩波書店,2004年)の詳細なレポートも,足下にも及ぶものではない。

『風の中の牝雞』は,子供の病気のため,やむなく月島の曖昧宿(売春宿)でその身を売った雨宮時子(田中絹代),その後に戦地から復員した夫の修一(佐野周二),そして,家族を支えるために身を鬻(ひさ)いでいた娼婦・小野田房子(文谷千代子)をめぐる話だが,「復員兵」や,「戦争未亡人」や,(保険制度も未だ整わぬ状態で)売春を余儀なくされた婦女や,そして,「浮浪児」(戦争孤児のことだが,当時はこう呼ばれた)を描いた『長屋紳士録』(1947年)など,戦後すぐの小津の映画には,敗戦直後の日本の状況が,静かに,ある種の抒情性をも喚起しながら,描かれている。それは,溝口健二の『赤線地帯』(1956年,大映)や,川島雄三の『洲崎パラダイス 赤信号』(1956年,日活)とは,やや次元と言うか品が異なるものでもある。

戦後のみならず,帝国日本が大東亜共栄圏の実現を夢見て(「図南の夢」),その先陣として,多くの「からゆきさん」が南洋に渡ったことも,1970年代に本格化した南洋史研究(東南アジア研究)で,広く知られるに至っている(山崎朋子『サンダカン八番娼館』,文春文庫,2008年(1975年初版)と,熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』,1974年,東宝)。また,1958年,売春防止法が適用になったが,一方では,永井荷風原作の『濹東綺譚』(1960年,東宝)のような,江戸期以来の謂わば粋な「花柳小説」の系譜を汲むものもあるが,一方では,敗戦国日本の現実を,静かに描いた,小津のような映画もあった。抒情性というのは,よくある誤解を避けるために言っておくが,風流の謂とは直接の関係がなく,また,日本の詩学では,社会的な事実の告発というより,主情性に重きが置かれる傾向を持つものである。

『風の中の牝雞』で,修一は,妻の行ないを確かめるために,自分の住んでいる江東区から,月島へ渡る。渡っている橋は,映画に見られるように,橋の中央部を通過する23番系統の都電の運行経路と,橋の欄干の形状から,当時の相生橋であることが分かる。脚本でも,ここではロケ地通り,素直に,「相生橋」とある。月島を中央に走る清澄通り(『秋日和』の清洲橋に繋がる)をひたすら歩いて,修一は,妻が一度だけ身を売ったと聞いた曖昧宿に辿り着く。

そこで話を聞いた相手が,娼婦の房子であるが,房子は,部屋の窓から隣にある小学校の校庭を見ながら,自分がその小学校の卒業だと語る。それは,恐らく,月島第二小学校(中央区勝どき1丁目12-2)であろう。房子を抱かずに,金だけ渡して出て行った修一と,この房子は,勝鬨橋の袂で,偶然にもばったりと出くわす。房子は,客待ちをしている間,陽の当たる,この隅田川の河岸で時間をつぶしているのだと言い,弁当を食べながら,修一(佐野周二)と房子(文谷千代子)との会話が続く。この一連のシーンは,ここではこれ以上の紹介はしたくないので,是非,映画を見てもらいたい。この二人が並んで遣り取りする構図は,小津によく見られるお得意のものであるが,私には,『東京物語』その他の作品よりも,憐憫の情を感じる。それは,老夫婦という普遍性よりも,戦後の混乱期の特殊性を,この二人が背負わされているからである。現代の平和な世の中に生きられた人ならば,背負わなくても済んだ苦しみだからである。小津は,それを,隅田川の流れと共に,芸術作品として濾過している。


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勝どき1丁目(晴海通り) 左端の建物が,月島第二小学校


上の写真は,勝鬨橋を築地側(西岸)から月島側(東岸)に渡った所。正面に見えるのが,勝鬨橋で,この通りは,銀座から一直線に続く晴海通りである。この晴海通りは,清澄通り(この写真では,後ろになる。都営大江戸線・勝どき駅の真上に当たる)と交差する。写真の左端に茶色く見える建物が,月島第二小学校の校舎である。その前にあるのは,勝どき橋南詰バス停。『風の中の牝雞』の曖昧宿は,小学校の校庭が見える位置なので,この左手奥の一本筋違いの通り附近に設定されていたはずである。下の写真は,もう少し後ろに退いて撮った写真。


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勝どき1丁目の信号と月島第二小学校


『サンダカン八番娼館 望郷』は,実に深刻な歴史の裏側を描いている映画であり,その主演の田中絹代が,『風の中の牝雞』の修一の妻・時子役でもある。有名な階段落ちのシーンは,浅草の曲芸師にやってもらったのだそうだが,学生が唖然とするのも無理はないシーンでもある。しかし,戦前と戦後の(断絶や忘却ではなく)連続性を体現している田中絹代のような存在は,小津を含む日本の映画史にとって,極めて重要なものであったことは,定説であろう(川本三郎『今ひとたびの戦後日本映画』,岩波現代文庫,2007年)。


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勝どき1丁目13番の河岸


上の写真は,月島の河岸(勝どき1丁目13番)から,勝鬨橋の東半分を見たものである。丁度,この場所に(もう数メートル下流寄りであるかも知れないが),佐野周二と文谷千代子の二人は座っていたのである。月島側から,当時は,小津の映画にも登場する築地本願寺(『長屋紳士録』,『彼岸花』)や,聖路加国際病院の礼拝堂(『宗方姉妹』,『彼岸花』)を望むことができ,川島雄三の『洲崎パラダイス 赤信号』冒頭にも,1956年当時の勝鬨橋からの眺めが見られるのだが,現在では,高層ビルが建ち並び,見通すことはできない。写真の白い高層ビルは,聖路加ガーデンのツイン・タワー(47階・38階,中央区明石町8-1)であり,東京新阪急ホテル築地のある建物である。戦後間もない『風の中の牝雞』の1948年当時とは,光景が一変しており,隅田川のウォーターフロントとして,今では,見違えるようにきれいに整備されている。

隅田川の東岸は,「濹東」という言葉によって,その文学的・地理的コノテーション(玉の井や洲崎の遊郭)が端的に示されているが,修一と房子が並んで座るのは,西岸(築地側)ではあり得なかったのである。この二人は,月島側から隅田川を眺めるしかなかった,それが,宿命でもあったのである。永井荷風原作の『濹東綺譚』(1960年,東宝)にも,白鬚橋と共に,隅田川が描かれているが,『風の中の牝雞』の描く隅田川は,(白鬚橋より下流だからというのではなく)まるで,行きつ戻りつしているかのように,ゆっくりと流れてゆく。

勝鬨橋そのものについては,以前の本ブログ記事でも写真で紹介したので繰り返さないが,私が亡き母と一緒に訪れた最期の橋である。この橋の名前は,日露戦争の戦勝を記念して設置された「勝鬨の渡し」に由来するが,この景気の良い名前(かちどきは,エイエイオー)の橋は,1940年(紀元2600年)に完成し,清洲橋,永代橋と共に国の重要文化財になっている国内唯一の二葉式跳開橋として,その力強い姿には,励まされるような元気を与えてくれるのも確かだが,一方では,一人の女性の姿に表現された敗戦の悲惨さを,強烈に浮き立たせてもいる。橋とは,そもそも,能舞台の「橋掛かり」にもあるように,彼岸と此岸を結ぶものでもあり,この世の出会いや別れを象徴しているのである。


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隅田川と勝鬨橋


2009年3月12日

東京駅八重洲 ― 花も風も街も みんなおなじ ―

― 小津安二郎の描く東京 (9)


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東京駅・八重洲口 (2008年3月撮影)


東京駅は,先の記事でも紹介したように,既に開業していた(官設)新橋駅と(私設)上野駅を結び,日本縦貫鉄道の「中央停車場」として計画され,1900年(明治33年),市街高架線の工事に着手,1908年,駅舎工事が開始され,仮駅・呉服橋駅(1910年開業,高架線完成)を経て,1914年(大正3年)12月,「東京駅」という名称が直前になって決定され,開業した(プラットホーム4面8線)。しかし,この時,今の八重洲口には,駅舎も乗降口もなかった。宮城側(きゅうじょうは皇居のこと,丸の内側)に駅舎があるのが,当然のことであったからだ。商業地区である日本橋側に駅舎はなく,日本橋・京橋へ行くためには,丸の内を降りて,ぐるっと駅を迂回していた。八重洲(やえす)側に出入口ができたのは,1929年(昭和4年)12月になってからのことである。

1954年の『ゴジラ』では,外堀通りが,その名の通り,まだ「外濠」(水がある)であった光景が描かれているが,東京駅八重洲口前の外堀通りの「外濠」が埋め立てられてゆくのは,1947年頃である。その頃までは,八重洲口の小さな駅舎を出た降車客は,「八重洲橋」を渡り,日本橋方面へと向かって行った。八重洲口に新駅舎が完成・開業するのは,『ゴジラ』と同じ年(1954年)の10月14日である。地上6階,地下2階建てのこの新駅舎(東京駅八重洲本屋・鉄道会館)は,「民衆駅」(駅と店舗の複合施設。戦後の駅舎復旧のため,地元民間資本を導入して,それに見合う床面積を商業施設とした)として,同年10月21日,大丸百貨店が開業した。川島雄三の『銀座二十四帖』(1955年)に描かれた東京駅八重洲の大丸百貨店は,こうやって関西から進出したばかりのデパートをいち早く紹介したものである。八重洲口新駅舎は,その後,1968年6月30日,12階建てに増築竣工されている。

小津は,東京駅の「丸の内」側ばかりを専らに描いている監督で,『彼岸花』(1958年)冒頭の東京駅のシーン,続く,東京ステーションホテル(1915年開業)での披露宴のシーンでも,丸の内側ばかりを描こうとする。が,ワン・ショットだけ,珍しく,「八重洲」側を撮している場面がある。なかなか気付かないのだが,当時の大丸百貨店の裏側が少し見えるシーンだ。小津は,銀座・築地方面を好んで多く描くのに,東京駅八重洲側の日本橋・京橋方面には,不思議なことに殆どカメラを向けようとしない中にあって,『彼岸花』のこの一瞬のカットは,極めて珍しい。清洲橋を撮っていても,脚本では,「築地」と言っているのだから,東京駅から東の日本橋・茅場町方面は,戦前の『一人息子』(1936年)で描いた(永代橋を渡るまでのシーン)のを最後に,戦後の小津が「描かなかった」東京なのである。描かなかったと言えば,浅草も,その一つである。

東京駅周辺は,丸の内側も含めて,再開発が急速に進んでいる。現在の丸ビルは,2002年9月に,新丸ビルは,2007年4月に,それぞれ新しく竣工しているし,『秋日和』にも出てきた東京中央郵便局の建て替えについては,昨今のニュースになっているところでもある。東京都庁は,1991年4月,既に,丸の内から西新宿へ移転しており,『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)ですぐに壊されたが,いずれも,私が新潟に赴任した後のことである。

八重洲側については,2007年3月,サピアタワー(地上35階),同年11月,グラントウキョウ・サウスタワー(地上42階)が竣工し,2007年10月31日に竣工したグラントウキョウ・ノースタワー(地上43階,2013年春,第2期完成予定)には,大丸百貨店が,その11月6日に移転した。2013年には,グランルーフ(大屋根)が完成予定であるから,何の気なしに撮った上の写真(2008年3月撮影)も,今となっては貴重な記録写真となる。この建物(鉄道会館,旧大丸)は,解体されるのである。小津の切り取った東京の光景が,一つまた一つと,消えてゆく。

大丸は,それまで,八重洲口の中央改札の前にあったから,新潟に向かう新幹線に乗る前に,ちょこっと買い物をするのにも便利だった。東京駅は,まだ工事中の所が多いが,駅そのものが,新しい一つの街になろうとしている。国際観光会館(現グラントウキョウ・ノースタワー)から,丸善,高島屋にかけての雰囲気もだいぶ変わった。丸善も,旧本店が日本橋店となり,丸の内オアゾの方が本店と称している。昔あったものが,どんどん無くなっており,私も,「帰京」している積もりが,「上京」しているのと同じになっている。

大丸と言えば,関西から東京に進出したデパートだが,その神戸店は,神戸元町商店街を東に抜けた所に,今もある。元町通りは,西端の6丁目に,嘗て三越があり(今はない),東端の1丁目には,ユーハイム本店があり,バウムクーヘンのみならず,そこのエビフライは,当時の小学生にとって,贅沢な「ご馳走」だった(現在のユーハイムのレストランに,この様なメニューがまだあるかどうか知らない)。ユーハイムを過ぎると,そこが,大丸神戸店だった。阪急の花隈,あるいは,神戸高速鉄道の元町で降りて,元町商店街に行ったものだ。小学生の頃,関西に暮らしたことのある私には,この様な,40年程前の思い出も残っているのだが,『秋日和』と同様,『小早川家の秋』の原節子のアパートにも,ユーハイムの包みが登場するのは,実に感慨深いのである。それにしても,小津が初めてユーハイムを知ったのは,どこなのだろうか。


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浅草寺


話を,東京に戻そう。ところで,小津が浅草を描かなかったというのは,不正確な言い方になろう。『早春』(1956年)で,池部良や加東大介ら,戦友たちが集っていたのは,「仁丹塔」があった所だからだ。浅草公園六区は,『キネマの天地』(1986年)にも再現されているように,松竹直営の「帝国館」があり,嘗て,「凌雲閣」(十二階)という塔があった。それを模して作られた広告塔が,(薬の仁丹の)仁丹塔である(今はない)。これは,田原町にあったものであり,浅草(旧浅草寿町)ではあるのだが,池部良ら東宝の俳優が「ツーレロ節」を歌う姿は,『暁の脱走』(1950年,東宝,池部良・山口淑子主演)の中国戦線で歌われる「ツーレロ節」のシーンを踏まえたものであるように感じられるものであり,『早春』の戦友たちが浅草にいることを忘れてしまいがちなのである。

『早春』の冒頭で,下の「冠」とだけ見せたネオン広告塔を,小津は登場させる。これは,六郷川(多摩川)河川敷に当時あった月桂冠の広告塔であり,東京23区の最も南,大田区蒲田が『早春』の舞台であることを示している。「仁丹塔」も,それと同じ手法で登場しているのであり,江戸・東京を代表する浅草寺を以て,浅草を表現しないのは,小津の常套的な手法なのである。熊井啓の『忍ぶ川』(1972年,東宝)のようには,浅草を描かないのである。小津から50年経った今だから言えることも多いのだが,それにしても,広告塔などは,建造物の中でも,泡沫(うたかた)の存在である可能性が高いことは,小津も分かっていたはずである。しかし,この様な看板やポスター(日展の赤いポスターなど)をしばしば登場させていることに,小津の大きな特徴があり,確かに存在した過去の現実の記憶として,逆に,極めて興味深いのである。但し,今となっては,調べなければ分からないことがたくさんあることを(調べれば分かることがたくさんあることを)自覚する必要がある。


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ここは,どこでしょう?


小津の描いた東京は,その姿を変えたもの(消えてしまったもの)が非常に多いのだが,一方,数は少ないながらも,小津の描いた関西は,京都の東寺だとか,奈良の薬師寺だとか,寺社仏閣が,眼に着く。広告塔の対極にあって,寺社仏閣は,(塗り替えや補強工事はあっても)基本的には,その姿も変えないし,消えないものである。ここに,古都の永続性(有常)と,(江戸ではなく)泡沫の現代都市(無常)としての東京が対比されてしまい,小津の東京観の如何を解釈する余地が生まれたり,また,小津が,東京の光景を,全体ではなく,その一部だけを「垣間見させる」映像を特徴としているために,断ち切られた東京などと言われることがあるのである。しかし,いくらその姿を変えようとも,また,消えて無くなってしまおうとも,それらが,確実に存在した過去の歴史(記憶,思い出)は消えないのである。そういった,過去の現実を再現してみるならば,小津の映像世界の中からは,真新しかった看板や,戦後サラリーマンの憧れの的だった(旧)丸ビルや,高度経済成長期へ向かう日本を支えた国電73系の走行音が,必ず,溢れ出てくるはずなのである。(上の最後の写真は,浅草の仲見世通りです。雷門の風鈴や浅草のりの缶が,見えますか……)


2009年3月10日

銀座教文館 ― 銀座四丁目の交差点 ―

― 小津安二郎の描く東京 (8)


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銀座・教文館


銀座教文館(中央区銀座4丁目5-1)は,1885年(明治18年)の創業,永井荷風『斷腸亭日乘』にも登場する,銀座の老舗書店である。現在の位置に定まったのは,1906年(明治39年),今の建物が竣工したのは,1933年(昭和8年)とのことである。キリスト教の日本伝道と共に歩んだこの本屋は,キリスト教関係の和洋書を扱う国内有数の輸入書店であり,私自身は,キリスト教とは何の縁もないが,いやしくも西洋を視野に入れた研究者を目指していた学生時代の頃,『ウルガータ』(Vulgata,ラテン語訳聖書,トレント公会議で承認)や,カール・バルト『キリスト教倫理』,そして,(そんなところまで溯らなくともよさそうなものだが,今は亡き私の恩師の一人・森安達也先生の薦めもあり)『ギルガメシュ叙事詩』などを買い求めたのが,銀座の教文館であった。

森安先生は,スラヴ文献学が狭い意味での専門であったが,私は,学部と大学院を通して,9年間,ラテン語を教わった。イエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノによる,トレント公会議体制下のルネサンス文化(キリスト教的修辞学)の日本への波及を,科研費研究として行なったのを最後に,私は,近世ラテン語文化の研究を中断し,ゴジラ映画史研究へと,方向転換した。私は,『古今集』など王朝歌学とルネサンス詩学の比較が専門であったが,それらの研究から得ることができた知見を,何とか最大限に生かしつつ,ゴジラ映画やその周辺の日本映画(小津安二郎もその一環である)の映像詩学を追求したいと考えるに至ったのである。

さて,教文館は,小津の『晩春』(1949年),『宗方姉妹』(1950年),『お茶漬の味』(1952年),『東京物語』(1953年),『彼岸花』(1958年)に,時に和光の建物の陰に隠れるようにして,登場している本屋である。和光や丸ビルに負けず劣らず,小津の映画での登場頻度は,極めて高いと言えるだろう。小津の映画の登場人物は,しばしば,洋書・洋雑誌を読んでいる。原節子などは,いつも,岩波文庫を読んでいる。『宗方姉妹』で,元満鉄にいたという,癌に患っている宗方の父親(笠智衆)が読んでいるのは,何と,「THE ATOMIC BOMB」という英語の冊子である。私など,そこに,ゴジラ映画との歴史的因縁を感じると同時に,これは,教文館から取り寄せた雑誌ではなかろうかと,想像を逞しくするのである。

ところで,『彼岸花』に,「ビクターテレビ」の広告塔が登場する。小津の映画の登場人物は,往々にして,テレビをあまり好んでいないようだが(それに,家にあったとしても,殆どスイッチが入れられない),それなのに,「ビクターテレビ」の広告塔が,謂わばけばけばしく,登場するのは興味深いことである。この広告塔があったところが,実は,銀座教文館の屋上なのである。映像を注意して見れば,「BIBLE」という文字が建物側面に見えることなどから,それが,教文館であることが分かるのだが,毎日新聞社の写真アーカイヴ(毎日 Photo Bank,「銀座 教文館屋上のビクターのネオン塔」,1958年5月)や,池田信『1960年代の東京―路面電車が走る水の都の記憶』(毎日新聞社,2008年)の写真などから,そのことを確定することができる。また,映画の左端に見える「場」の字は,嘗ての「銀座文化劇場」の看板の一部だろうか。


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銀座三丁目の信号機


冒頭に掲げた教文館の写真(2009年1月撮影)では,広告塔は何も設置されていない。しかし,屋上に鉄の枠が見えるであろう。これは,小津の映画に見られるものと,同じ形状の鉄枠である。ここは,銀座四丁目だが,前にある銀座通り(中央通り)の交差点の信号機は,地獄の…いや,失礼…銀座の三丁目の表示である。ところで,2006年12月に私が撮影した銀座の写真の中には,「AMERICAN EXPRESS」の広告塔が,教文館屋上に設置されている光景がある。それが,下の写真である。


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教文館屋上 (2006年12月)


1958年の『彼岸花』の時には,ここに,「ビクターテレビ」の広告塔があったということなのである。小津は,無言のまま,1950年代の東京の「hic et nunc」(今,ここに)を,確実に映像化していたのであり,それが,東京の地理学の「点」と「線」となって表現されているのである。それらの,歴史的・地理的意味を知ることができたなら,(別に知らなくても,映画を自由に楽しむことはできるが)小津の描いてくれていた東京を,もっともっと享受することができるであろう。私は,そう思う。


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銀座四丁目交差点  世界一有名な交差点


銀座を色々と紹介しながら,四丁目交差点の角に建つ,あの建物がないのは,やはり寂しいだろうか。あまりにも有名だから,これまで触れてこなかったが,和光(服部時計店)は,既に改修工事を終え,2008年11月22日にリニューアルオープンしている。現在の建物は,二代目で,1932年竣工(初代は,1894年竣工)。銀座のデパートで,小津の映画にもゴジラ映画にも登場しているのは,この和光だけだ。


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銀座・和光 (リニューアル後の現在)


川島の『銀座二十四帖』(1955年)では,有楽町に建設中の有楽町そごうが映っており,大丸(東京駅)に加えて,銀座松屋,三越(銀座店),松坂屋(銀座店)が紹介されている。銀座四丁目交差点附近の四つのデパートの中で,小津が描くのは,和光と松屋,ゴジラ映画が描くのは,和光と松坂屋。三越は,小津にもゴジラにも,カメラを向けてもらえないようである。

下の写真は,リニューアル前の和光である。建物外観に変化はない。現代的なガラス構造の外壁を用いて,生まれ変わってゆく松屋と違って,このネオ・ルネサンス様式と言われる和光の建物は,形を変えてしまったら,銀座が変わってしまうのである。


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銀座・和光 (2006年12月撮影,リニューアル前)


2009年3月 9日

都市空間の点と線 ― 有楽町 ・ ロケ地狩り ―

― 小津安二郎の描く東京 (7)


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有楽町2丁目2番と3番の間  『早春』(1956年)の光軸


小津の絶対不動の(パンしない)カメラ,そして,さして広角でもない50mmのレンズ,そんなカメラが捉える東京の光景は,都市空間の点と線を切り取っているかのようである。川島雄三の『銀座二十四帖』に見られるような,京橋から新橋まで,銀座八丁を舐めるように空撮した映像や,ゴジラ映画によく見られる,(実景かミニチュア・セットかの別を問わず)都市空間の俯瞰映像のように,まるで,地図の図面を眺めるかのような映像と,実に,対照的である。

小津のカメラは,一体どこを撮ったものなのであろうか,刻々と変化する東京にあって,それは,50年前の東京を再現するに等しい。現在でも同じような光景が見られる地点は,僅かに過ぎない。だんだん遠くなる記憶の中で,記憶の錯誤も往々にして起こり,各種の写真集,新聞各社のフォト・アーカイヴ,新聞データベース(紙面に掲載されている報道写真),航空写真(国土地理院)など,残された記録によって裏付ける必要もある。

小津の映画のロケーションは,監督を始め,撮影に携わったスタッフの残した日記や証言が重要な手掛かりにはなるのだが,それだけでは十分ではない。脚本も,当てにならない。『宗方姉妹』に登場する鉄道高架線は,脚本では「大森駅附近」とあるのだが,1950年当時から,大森駅というのは現JR京浜東北線の駅しかなく,映画に見られるような高架は存在していなかった。また,3輛編成での運行列車も同線では特定できないし,車輛の形状も,旧63系とは異なる。私は,東急大井町線か池上線辺りであろうと睨んでいるのだが,小津の車輛走行シーンの中で,走行区間を特定するのが難しい部類に入るだろう。

また,小津は,時々,ヘンな車輛をカメラに収めている。『早春』の中で,淡島千景が蒲田の線路脇の道を歩いている時に,事業用配給車クル92形+モヤ11形の2輛編成の車輛が通過するカット(例によって,車輛の下半分しか映っていないが)を入れているのである。クル92とは,1952年に5輛だけ製造された配給制御車である。旅客車輛ではなく,国鉄のお仕事用の専用車輛である。厚田雄春の遊び心なんだろう。小津のロー・アングル・ポジションでは,線路の敷設状況も殆ど見えないので,架空電車線(地中に対して架空と言う,架線)や並走する架空送電線,そして,それらの架線柱の形態から,おおよその区間を推定することになる。

ロケーションを確定することが,どのような意味を持つのか,それは,ある程度は事前に予測しつつも,それは,調べてみてからの話だと,私は思っている。しかし,小津の映画にとって,相当に重要なものだということは言えるだろう。

さて,冒頭に掲げた写真は,有楽町2丁目2番と3番の間で,晴海通りから,ある通りを覗いたものである。それは,小津の『早春』(1956年)に出てくる通りである。小津は,この通りから,晴海通りの方向を撮影した(写真の方向とは,180度逆の方向)。ここは,ニュートーキョービル(1937年開業のビヤホール「ニユー・トーキヨー」)の北側に隣接する通りであり,通りの名は,私は知らない。映画では,左手に「割烹 九重」の看板が見えるが,現在ある九重会館ビル(写真では右手)と,何らかの繋がりがあるかも知れない。この通りから,小津のカメラのレンズは何を見ていたのか。それは,朝日新聞社東京本社であった。


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日劇と朝日新聞社東京本社の跡地  現・有楽町センタービル(有楽町マリオン)


それは,有名な建物であったから,それをちらっと垣間見させるだけで,そこが有楽町であるということを示す映像となり得たのだが,有楽町センタービル(1984年竣工,通称有楽町マリオン)に建て替わってからは,『早春』の1956年当時の姿を知る術として,この朝日新聞社東京本社の当時の建物の写真や航空写真などから,どの通りから撮影したものなのか再現するしか方法がない。下の写真は,(冒頭の写真から少し退いた)この小津のレンズの光軸線である。180度振り向いて撮った写真が,上の写真の有楽町センタービルである。


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ニュートーキョービルと九重会館ビルとの狭間


ニュートーキョービルは,有楽座(TOHOシネマズ有楽座,旧・ニュー東宝シネマ)が入っている建物でもあり,ビアホール「ニユー・トーキヨー」は,フランスの名作『天井桟敷の人々』を見た後など,1980年代,私もよく立ち寄ったものだ。まだ,シャンソン酒場「銀巴里」があった頃の銀座である。銀座1丁目の田中貴金属側から,銀座8丁目の博品館側まで,少なくとも週に2~3度は,銀座で食事をしたものであり,明治屋の西洋高級レストラン「モルチエ」や,4丁目日産の「モンセニュール」(カモ料理が絶品だった),和光別館のティーサロンなど(現在は,もう既にない店であるか,もしくは,様相は一変している),友人たちや,時には独りで,時には父母と,よく食べ歩いたものであった。時代はバブル期であったが,手元不如意な時には,有楽町高架下や,新橋の烏森口にも行った。東宝特撮『マタンゴ』(1963年)にも登場する不二家には,流石に行かなかったが,数寄屋橋交差点の銀座不二家は,有楽町駅を降りて,最初に眼にする巨大ネオンであった。


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数寄屋橋の銀座・不二家のネオン


ところで,JR有楽町駅を降りた人の流れは,現在では,おそらく,印象だが,昔とは変わっている。今は,中央口の前に,丸井(有楽町イトシア)ができて,東京交通会館との間に,人が流れている。少し前までは,銀座口から,有楽町マリオン(阪急と西武の間の通り)に人が流れ,銀座中心部へと向かって行った。更に,もっと昔はと言えば,銀座口から,日劇の脇(西側)を抜けて,晴海通りに出たものであった。先の記事で紹介した有楽町高架線の前から,ニュートーキョーの向かいにかけて,人々が往来し,『ALWAYS 続・三丁目の夕日』のロクちゃんも,そこを通っていたのである。しかし,その辺り(有楽町阪急の西側)は,今では,風が吹き抜けてゆくばかりである。


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JR有楽町駅・銀座口


有楽町センタービルは,復活版『ゴジラ』(1984年)に,初めて登場した。復活ゴジラ(身長80m,体重5万t)の映像の特徴は,有楽町マリオンの窓ガラスに,ゴジラの姿が,まるで姿見の鏡のように,映し出されることである。有楽町センタービルは,この同じ1984年に,竹中工務店によって施工された,地上14階建てのビル(1F~7Fの吹き抜けが,高さ28m)で,ハーフミラーガラスとアルミのファサードは,元々,周囲の情景を映し出すスクリーンとして意図されたものであった。このガラス窓に映ったゴジラの姿は,オキシジェンデストロイヤーによって死んだ,30年前の1954年の初代ゴジラの霊かも,知れないのである。つまり,復活ゴジラと,初代ゴジラの,2体が,鏡像として存在した,ということである。謡曲『松風』の,「月は一つ,影は二つ…」とあるように,2体のゴジラの影が,ある瞬間,実在したのかも知れない。この数寄屋橋での光景は,1954年に,まさに初代ゴジラが通った場所であり,その亡き跡とえば,まことなるかな,いにしえの,跡懐かしき景色かな… 跡懐かしき景色かな…,なのである。

さて,『早春』の捉えた,小津のレンズの光軸を,東京空間に切り取られたの点と線のうち,「線」の一つとして,ここに紹介した。有楽町2丁目の,ニュートーキョービル北側の通りから,朝日新聞社東京本社にかけて貫かれた「光軸」が,小津の映画の映像論的特質の一つだったのである。では,「点」とは,何を言うのであろうか。次回,「小津安二郎の描く東京(8)」で,紹介したいと思う。


2009年3月 8日

火葬場の煙突 ― 『小早川家の秋』 と大堰川 ―

― 小津安二郎の描く東京 (6)  番外篇・京都


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『小早川家の秋』 の大堰川 (京都・嵐山,渡月橋から)


小津の『秋日和』(1960年)について,「東京タワー」「紅葉」「婚礼衣装」という観点から,先の記事で,アグファ・カラーの「赤色」の表す本質として述べたが,そうであるならば,翌年製作された『小早川家の秋』(1961年,宝塚映画,東宝)についても記しておかねばならないだろう。『秋日和』が東京を舞台としたものならば,『小早川家の秋』は,謂わば,京都版『秋日和』であり,「赤色」とは対称的に,「黒色」が基調となっている映画でもあるからである。秋子(原節子)と紀子(司葉子)のこの二人の結婚話が,一応の筋とはなっていることから,『秋日和』の京都版だとも言えるのだが,『小早川家の秋』は,晴れの「東京タワー」ではなく,驚かせるような題名で申し訳ないが,赤煉瓦の「火葬場の煙突」が重要な主題となっている点に於いて,『秋日和』の合わせ鏡のような,対称的な作品であると思われるのである。

「小津安二郎の描く東京」ということで,ここのところ連載を続けているが,本来ならば,色々なブログ記事の合間合間に掲載することになれば理想的なのだが,勝手ながら連発する結果となることをお許し頂きたい。尚,掲載してある写真は,全て,私が撮ったものであるが,小津の映画研究のために特別に撮ったものではなく,東京とかに行ったついでに,隙を見て,ちょこちょこっと撮ってきたものなので,お見苦しい点があらばご寛恕の程をお願いしたい。


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京都市左京区 (銀閣寺から望む)


さて,『小早川家の秋』は,初めての東宝作品(『宗方姉妹』は,1950年,新東宝)であるのみならず,宝塚映画作品であることに,一つの特徴がある。宝塚映画は,東宝の隙間を埋める形で,同じ阪急系として,『南十字星』(1941年),『極楽島物語』(1957年),『アワモリ君西へ行く』(1961年),『大菩薩峠』(1966年)などの映画を製作していた映画会社である。『小早川家の秋』は,当初から,京阪神地区を舞台とすることが決まっていたものである。

小津安二郎の描く東京を紹介するのが,本連載の私の意図ではあるが,今回は,番外篇として,京阪神の紹介をしたいと思う。私は,東京生まれの東京育ちだが,一時期,小学校の頃,宝塚と神戸に暮らしていた。こういう現象を,東京では,「隠れ関西」とも言われる。文コミの教員では,S先生も,実は「隠れ関西」である。また,B先生は,(東京下町ではなく)西東京の育ちである。その他,文コミの教員スタッフは,新潟佐渡地方や,東北地方の出自である方が,当然のことながら多いのだが,I先生はと言えば,半分京女である。こんなことを,ここで暴露しても仕様がないが,微妙に差異のある研究スタイルや,学風のちょっとした違いが,実は,この様な,生まれ育ちの地域差も,程度の差こそあれ,関係無しとは言えないことを,文コミの学生諸君なら,それとなく知っておいても良い。

佐藤忠男『映画の中の東京』(平凡社ライブラリー,2002年)は,小津の映画も含めた,すぐれた映画論・東京論の一つだが,東京人が地方に下ることを「都落ち」として正面から捉え,小津の映画に見られるこの「都落ち」(『早春』など)を論じていることには注目に値する。『伊勢物語』で,「昔男」が東に下って,「似非みやび」を糾弾する断章には,実に凄まじいものがあるが,昭和の映画史の中で,「都落ち」の映像論に言及することが可能だったのは,東京に暮らす佐藤忠男氏が,本人もその経緯を述べておられるように,新潟の出身であったことにその大きな要因があったのだろうと,私は,ほぼ間違いのない事実として確信している。私も,三代溯ると,実は,新潟である。私の姓は「猪俣」だが,新潟に多い姓でもあり,ご先祖さまが,この私を新潟に「都落ち」させたのである(亡き母も,生前そう言っていた)。

……さて,余計な前置きとなってしまったが,『小早川家の秋』(こはやがわけのあき)は,最後のシーンに見られる,原節子と司葉子の喪服の「黒」とその裏地の「白」が,眼には鮮やかなのである(但し,フィルムではなく,DVDの映像で見たものであることは,言っておかねばなるまい)。映画の最後のカットも,京都の川辺の,カラスの「黒」であることは,それまでの小津の映画にはない,謂わばショッキングな映像表現の一つだと,私の眼には見える。「赤煉瓦」の火葬場の煙突も,『秋日和』の東京タワーの「紅白」とは対称的に,ひたすらに,葬送の儀式を象徴しているように見えるのである。


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京都・四条烏丸


『小早川家の秋』は,大阪は道頓堀のネオンに始まる。しかし,小津初出演の森繁久弥の,黒と白の縞の背広には,初手から,何やら違和感を感じさせるものがある。『秋日和』に倣うようにして,大阪城の見えるオフィスビルの映像(司葉子が勤めるオフィス,東宝の白川由美が,『秋日和』の岡田茉莉子に取って代わっている)も登場するし,阪急十三駅での,司葉子と宝田明(東宝ゴジラ映画の顔役ではないか!)の会話,そして,『宗方姉妹』にも見られた京阪神の舞台を思い起こさせる京都の光景など,『小早川家の秋』は,「小津の東京」の,謂わばアナザー・ワールドの映像としてのみならず,その対称性の鮮やかさに,驚かされるのである。


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京都・東山 (『小早川家の秋』 の旅館「佐々木」)


小津が,箱根を越えて,関西方面を描くのは,そう珍しいことではない。『お茶漬の味』(1952年)では,木暮実千代が,東海道線の天竜川鉄橋を渡り,浜松,神戸方面へと向かっているし,『東京物語』(1953年)では,笠智衆と東山千栄子が尾道から上京しており,その帰りには,三男のいる大阪の鉄道線と大阪城が描かれている。『早春』(1956年)では,岡山県三石に「都落ち」する池部良と淡島千景が描かれるし,『彼岸花』(1958年)では,佐分利信が,京都から広島へ,急行「かもめ」の3号車(電気機関車+客車10輛編成)に乗って,東淀川の鉄橋を渡っている。溯って,『宗方姉妹』(1950年)では,京都(京都大学),奈良(薬師寺),神戸元町など,関西地方がふんだんに描かれてはいるが,話の中心となる舞台は,やはり,東京の大田区大森と東銀座・築地である。そんな中にあって,『小早川家の秋』が,(東京を描かず)京阪神を唯一の舞台としていることは,やはり,珍しいのである。


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京都・花見小路 (四条通・祇園へ)


『小早川家の秋』で,原節子と司葉子が語らうのは,京都・嵐山の大堰川(保津川)である。これは,渡月橋の上流域。尚,下流域は,桂川と言う。大堰川は,延喜7年(西暦907年)9月10日,宇多法皇が,紀貫之らと行幸せられ,「大堰河行幸和歌」を催した場所でもある。紀貫之は,その時,

  秋ノ水ニ泛(うか)ブ
波の上をこぎつつ行けば山近み嵐に散れる木の葉とや見む

と詠い,舟を木の葉と見立てる,古今集時代に典型的な歌を残している。『小早川家の秋』の描く嵐山は,そんな王朝的雰囲気を,今でも残しているのである。


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阪急十三駅 3番線・宝塚方面
『小早川家の秋』 の京都行き特急は,左の5番線


司葉子と宝田明が,帰りの電車を待っている駅は,阪急十三駅。十三(じゅうそう)は,梅田から出発する阪急京都線,阪急宝塚線,阪急神戸線が,淀川を西へ渡り,そこから三方面へと分岐してゆく中枢駅であり,梅田から見て,大阪の下町である。安い飲食店の並ぶ歓楽街でもあり,札幌に行くという大学教師の寺本(宝田明)の送別会に,司葉子や白川由美らが集うのである。原節子は,『秋日和』と同じく,再婚しないようだし,司葉子は,お見合いを断って,札幌に行く決心をするところが,『小早川家の秋』の結婚話としての一応の筋である。

しかし,赤煉瓦で造られた「火葬場の煙突」の煙には,小津の他の映画にはない,名状し難い感慨に襲われる。私は,昨春,東京・町屋の斎場に,母を送ったが,町屋斎場(荒川区町屋1丁目23-4)は,12基の火葬炉を持つ,都内最大の火葬場である。しかし,近年は,景観や環境への配慮などで,火葬場に煙突はない。勿論,煙も出ないように設計されている。死者の魂が,天空へと棚引いてゆくという光景は,最早,見られないのである。死者は,そのまま,地下の墳墓へと眠りに着く。

『小早川家の秋』の嵐山には,「紅葉」はない。しかし,大堰川の「川の流れ」がある。秋子(原節子)と紀子(司葉子)は,秋子に残された長男が川縁で遊ぶ姿を見つつ,そこで,将来を語り合うのである。死者と生者との,どうしようもない非連続性(断絶)を,いやという程感じつつも,そこに,僅かに,連続性(生命の連鎖)を見出すのである。二人の喪服(小早川万兵衛の死)の「黒」と「白」の色合いに,『秋日和』の「赤」と「白」との対称性にはっとしつつも,『秋日和』の「紅葉」に相当するものが,京都・嵐山の「大堰川」(おおいがわ)の流れにあったことに,行方は西の山なれど,眺めは四方の秋の空,一筋の光明を見る思いがするのである。


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桂川 (大堰川の下流域)  阪急京都線の車窓から


2009年2月28日

有楽町高架線 ― 世界一有名な表象空間 ―

― 小津安二郎の描く東京 (5)


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有楽町高架線


初代ゴジラ(1954年)にも,そして,30年後の復活版ゴジラ(1984年)にも壊された有名な高架線(鉄道高架橋)がある。それが,有楽町のJR高架線(有楽町駅と新橋駅の間,晴海通りに架かる高架橋)である。『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(2007年)のロクちゃんが,銀座で友達と待ち合わせをしていた所だ。堀北真希の後ろに見えるのが,有楽町高架線であり,日劇の向かい,ニュートーキョーの前辺りで友達と落ち合っている。

この高架線は,何だか分からない数多の高架線の一つに過ぎないのではなく,唯一無二の固有の高架線なのである。それは,幾度となく映画の中に描かれているからということのみならず,東京の近代化の歴史を如実に語ってもいるからである。因みに,東京の高架線でもう一つ代表的なものを挙げるとすれば,それは,東急池上線の五反田駅の高架である。それは,小津が『東京暮色』(1957年)で描いているからということだけではなく,東京中心部へと進出を図った私鉄線の歴史の痕跡でもあるからである。この二つの高架線は,開業当時の最初から,高架であったのだ。


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銀座・晴海通り (西銀座を望む)


小津の『お茶漬の味』(1952年)冒頭で,木暮実千代がタクシーに乗って,「PXの手前,右ィ曲がって頂戴」と言い,淡島千景の銀座の洋品店に行くシーンがある。日比谷通りの明治生命館を左手に見ながら,晴海通りを東に進んでゆくシーンである。ここで,この有楽町高架線を潜り,日劇の前を過ぎて(但し,日劇の建物は見せない),東京PX(和光)へと向かってゆく。


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銀座・晴海通り (旧・東京PXを望む,東銀座の方角)


晴海通りは,西銀座に東宝のエリア(日劇など),東銀座には,歌舞伎座を始めとする松竹のエリアを併せ持つ,稀有の謂わば“映画通り”である(映画会社があるというだけではなく,映画の表象通りでもある)。この同じ晴海通りでも,ゴジラ(東宝)では,ゴジラの花道として,日劇や,その跡地に建つ有楽町センタービル(有楽町マリオン)を見せつけるが,小津(松竹)は,東劇(東京劇場,松竹)を『宗方姉妹』(1950年)で撮ってはいるものの,日劇は勿論,この有楽町高架線を何故か積極的には描いていない。高架線を描くのが好きだった(好きかどうか知らぬが,結構多い)小津の映画の中にあって,木暮実千代がこの高架線を潜るシーンは,貴重なシーンだとも言える。

但し,現在の有楽町高架線は,山手線・京浜東北線・東海道線・東海道新幹線が通る,四複線(8線)の高架線だが,『お茶漬の味』の1952年当時は,新幹線開業(1964年)以前,且つ,京浜東北線・山手線の分離化(1956年)以前のことなので,京浜線(現・京浜東北線)と東海道本線の複々線(4線)であり,木暮実千代を乗せたタクシーは,(高架橋の幅が今より狭いので)あっという間にこの高架線を潜り抜けてしまう。これは,現在の感覚とはだいぶ異なるものである。


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新幹線の通る現在の有楽町高架線


有楽町高架線の歴史,つまり,新橋駅~有楽町駅~東京駅の鉄道線の文化史は,実は,一冊の本が書かれるくらいのものがある(中村建治『山手線誕生―半世紀かけて環状線をつなげた東京の鉄道史』,イカロス出版,2005年)。ここでは,その一端を紹介しながら,小津の映画にほんの一瞬描かれた,この有楽町高架線について記してみよう。

話は,外堀通りがまだ,正真正銘の外堀(水が流れている。数寄屋橋も実際の橋として初代ゴジラが渡っている)であり,銀座の中央には,三十間堀が走っていた頃の話である。1872年(明治5年)5月7日,品川・横浜間の仮営業開始に続き,同年6月30日,新橋駅(後の貨物線・汐留駅)が完成,9月13日(12日に開業式)に,新橋・横浜間が正式開業する。当時は,鉄道に対する無理解や用地買収の困難が伴い,この東海道線は,「海上築堤」に敷かれた海の中の線路であった。

官設の東海道本線の新橋駅と,日本鉄道(岩倉具視らが設置した私鉄会社)の東北線の上野駅の間は,日本橋などの有数の商業地区があったにも拘わらず,実は,長い間,鉄道線の通らぬ「陸の孤島」であった。新橋・上野間は,山手線環状化の最後に残された区間だったのである。1909年(明治42年)12月16日,烏森駅(現・新橋駅)が開業,翌年6月25日,有楽町駅が開業し,電化運転が開始されるまで,38年の歳月が経っていた。更に,有楽町・呉服橋駅(東京駅開業前の仮駅)間の開業(1910年9月15日),東京駅(計画段階では中央駅)開業(1914年12月20日,開業式は18日)を経て,山手線の環状化が完成・開業するのは,1925年(大正14年)11月1日,「汽笛一声新橋」から数えて,53年後のことであった。


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晴海通りと交差する有楽町高架線 (ニュートーキョーの向かい辺り)


東京駅や有楽町駅は,現在でこそ,東京の中枢駅であるが,山手線(正式には,東海道本線。山手線は,品川・渋谷・新宿・池袋・田端間を,田端・上野・東京間は,東北本線,東京・有楽町・新橋・品川間は,東海道本線である)環状化の最後に作られた新しい駅だったのである。新橋駅~有楽町駅~東京駅は,開業の当初から,(汽車線ではなく)電車線(電化路線)であったこと,そして,煉瓦で築かれた高架線であったことが,その歴史的特徴となっている。

取り分け,煉瓦(レンガ)というのは,渋沢栄一が創設した深谷(埼玉県深谷市)の日本煉瓦製造会社(煉瓦工場)の生産する赤煉瓦が,辰野金吾の設計する東京駅(中央停車場)の建設に大量に使われ,不燃都市を目指した「銀座煉瓦街」は,東京の近代化を象徴しているものである。小津の『早春』(1956年)に登場する,岡山県三石に製造工場を持つ,丸の内の煉瓦会社が描かれているのは,この様な東京の文化史と無縁ではない。赤と白の配色にこだわった,小津の色彩感覚も,赤煉瓦と白の石材で作られた東京駅や法務省旧本館などの,東京の近代化の遺産と歴史的因縁がある。尚,辰野金吾は,東京駅,日銀,国会議事堂など,政治・経済・交通の中枢となる建築物の設計に携わった人物である。


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有楽町高架線 (西側の日比谷通り側から望む)


有楽町高架線は,映画の中に描かれる世界一有名な表象空間であると同時に,そこには,東京という帝都建設の歴史的背景があったということが,実は,必須の要件だったのである。

成瀬巳喜男の『銀座化粧』(1951年)には,三十間堀が埋め立てられてゆく銀座への郷愁(田中絹代が地方から上京した石川(堀雄二)を案内する。小津の『東京物語』で,尾道から上京した義理の両親に東京を案内する原節子に相当する)が描かれているし,川島雄三の『銀座二十四帖』(1955年)では,当時の新橋駅や,有楽町高架線が描かれ,森繁久彌のディスク・ジョッキー風の銀座紹介と相俟って,三橋達也や月丘夢路が闊歩する銀座は,ミニチュア・セットで撮られた1954年の『ゴジラ』の実景を撮し取っている。「森永ミルクキャラメル・森永チョコレート」の地球儀型広告塔(中央区銀座5丁目5番,現在のアルマーニ)が映っている夜の銀座の映像も,『ゴジラ』(1954年)や『秋刀魚の味』(1962年)の描く東京と同一であることは言うまでもない。


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中央区銀座5丁目5番


官設鉄道の東海道線,日本鉄道品川線(品川・渋谷・新宿・池袋),日本鉄道豊島線(池袋・田端),日本鉄道東北本線(田端・上野),これらが,国有化されるのは,1906年(明治39年),鉄道国有法に拠るものである。甲武鉄道(現・中央線),総武鉄道(現・総武線)と併せて,現在の東京の鉄道網が,築かれた。

有楽町高架線は,映画の中の世界一の表象空間であると同時に,帝都東京の歴史を物語るものでもあったのである。


※ 中村建治『山手線誕生―半世紀かけて環状線をつなげた東京の鉄道史』,イカロス出版,2005年,参照。
※ 財団法人・東日本鉄道文化財団HP(http://www.ejrcf.or.jp/)参照。旧新橋駅(後の汐留駅)は,日本最古の駅(品川駅,旧新橋駅)の一つとして,汐留シオサイト(旧新橋停車場,鉄道歴史展示室)に復元されている。


2009年2月20日

アグファ・カラーの「赤色」 ― 『秋日和』の紅葉と婚礼 ―

― 小津安二郎の描く東京 (4)


今月,「にいがた国際映画祭」の企画で,小津の『秋日和』が,3回にわたって上映された。既にその最終上映も済んだことなので(映画祭そのものは,22日(日)まで開催),この眼で見て感じたことを,少し長くなるが,ここに書いておくことにしたい。


アグファ・カラーのフィルム


私は,今回,2回見に行ったのだが,『ゴジラ FINAL WARS』(2004年,東宝)は,公開当時,7回見たし,円谷特撮の第1作『海軍爆撃隊』(1940年,東宝)が,戦後初めて復元・上映された時(2006年)は,京都(第5回京都映画祭)と東京(京橋のフィルムセンター)へ,2回見に行っていることを思うと,新潟に居ながらにして小津を見られるというのは,本当に有り難いことだと思う。DVDでも見られるのに,なぜ,何回も見に行くのかと問う人もいるが(ゴジラを7回も見に行ったと言うと,殆ど,アホかという話になる),頭の中でゴチャゴチャ考えているよりも,映画は映画館で上映される映像(写真)なのだから,現場に行って,眼で見て,眼に感じさせ,体感しないことには,話にならないのである。勿論,認識するのは頭の中(あるいは,先入観や記憶)なのだろうが,見るのはこの眼であるということは,謂わば,絶対的な事実であるし,それに,映画館という場と,フィルム(上映用ポジ・フィルム)とスクリーンという媒体が,映画には必須なのである。DVDで家で見るのは,あくまでも代替であって,ゴジラの迫力は,映画館のスクリーンでしかあり得ないことを熟知している私は(私は,映画の専門家と言うよりは,元々は,比較古典詩学が専門なのだが),今回,小津の映画にあっても,やはり,映画館のフィルムで見るべきものだということを,有り難いことに,確信することができたと感じている。

それは,小津の『秋日和』の見所として,実は,当初から,予想されたことでもあるのだが,アグファ・カラー(Agfa Color)の「赤色」にあった。

小津安二郎は,『彼岸花』(1958年,松竹)以降のカラー作品に於いて,撮影監督・厚田雄春の優れた職人的感覚に基づいた助言に従い,アグファ・カラーを用いたことがよく知られている。『秋日和』のクレジットにも,「アグファ松竹カラー」とある。このフィルムは,「赤」の色調に極めて大きな特徴があるのだが,イーストマン・カラーで撮られた初の怪獣映画『空の大怪獣 ラドン』(1956年,東宝)の最終シーンに見られる阿蘇山の赤い溶岩と比較してみると,その違いがはっきりと分かるであろう。ところで,「にいがた国際映画祭」で上映された『秋日和』(1960年,松竹)は,1960年当時の上映用ポジ・フィルムに複製されたものではないことが分かるのだが(2003年,小津生誕百年の際に,リプリントされたものであろう),そのフィルムが一体何であるのか(クレジット通り,アグファ松竹カラーのシステムに基づくものなのか,それとも,イーストマン・カラー,コダ・カラー,フジ・カラーなのか),また,オリジナルのアグファ・カラーの色調を,技術的にどの程度,忠実に再現し得たもの(あるいは,経年変化による褪色を修復したもの)なのか,厳密なことは残念ながら分からない。とは言え,DVDの映像よりは,アグファ・カラーの「赤」を髣髴とさせるものがあったのだと期待している。今回上映された一本のフィルムの正体は,なかなか知り得べくもないが,以上のことを含んだ上で,『秋日和』の本質に係わると思われることについて,ここに記しておきたいのである。


東京タワーの「赤色」


先ず,『秋日和』冒頭の東京タワーは,『モスラ』(1961年,東宝)に見られるように「(テレビ用)電波塔」を撮ったものではなく,「赤と白」の謂わば「紅白塔」を撮ったものであることが,映画祭で上映されたフィルムから,はっきりと見て取れる。これは,映画の終盤,三輪の娘アヤ子(司葉子)の婚礼衣装に見られる,「白」とその裏地の「赤」を,予言的に捉えたものであることに,眼の感覚(視覚)が教えてくれるのである。

今回の第19回「にいがた国際映画祭」のテーマは,―愛 LOVE―であり,初日には,「映画の中の結婚」ということで,花嫁衣装のオープニング・イベントも行なわれた由である。ここには,この企画に携わった実行委員の一人,本学人文学部のWさんの希望が反映されているのだと聞き及んでいるが,私には,婚礼衣装など,悪いが,関心の対象にはなかった(以前,『秋日和』を見ても,全然見てもいなかった)のだが,しかし,『秋日和』の婚礼衣装の色彩と東京タワーの色彩が,この映画の本質的な符牒をなしていることに,私の眼が気が付いてくれる,大きな契機ともなったのである。アグファ・カラーの「赤」が,眼に教えてくれたのは,小津の『秋日和』の映像論的な本質だったのである。

フィルムが,映画の物質的本質であることは,1960年代のゴジラ映画をリアル・タイムで見た者の眼には,実感としては,確実にある。1950年代の怪獣映画については,私も生まれていなかったので,残念ながら(と言うより,幸運なことに),1970年代の「東宝チャンピオンまつり」や,町内の子供会などで上映された再上映版のフィルムで,記憶している。上映前,映写機にセットされる,直径50cmはあったであろうか,リールの現物と,僅かに垣間見られるポジ・フィルムのコマの絵を覚えている。映画は,スクリーンに投影される表象以前に,フィルムという「モノ」であった。それは,フィルムに焼き付けられる,レンズの前にあったであろう,現実の「モノ」(被写体)の存在をも感じさせてくれた。


「視認」されるアグファ・カラー


さて,アグファ・カラーの「赤」は,まるでその「赤」だけを抽出して,その配置やその動きを,私の眼の前に,はっきりと映し出した。それは,まるで,レーダー画面の中で,「赤」の存在だけが映し出され,それを追尾していたようだ,と言っても,決して誇張ではない。七回忌後の会食に見られる赤と黒のストライプの鉢(それは,ユーハイムの包みの模様へと繋がる)や,テレビやタンスの上に置かれた赤い缶,子供の服の赤いストライプ,赤のオーバーを着た通行人の女性(岡田茉莉子の寿司店前,1回目は身に付けて,2回目は手に持って),そして,東京中央郵便局の郵便配達車の赤,「COFFEE BOW」の看板も赤,「HUTTE」(山小屋)の看板も赤,丸の内のビルの消火栓も赤,これら「赤」の視認性が,恐ろしい程,際立っていたのである。桑田服飾学院の教室で,原節子が拾い上げていたのも,赤い毛糸であったし,若い二人(佐田啓二と司葉子)がラーメンを食べていた「三来元」の赤と白のお品書きも,ゴルフ用品店の前を横切る赤いチャックのスカートの女性も,アグファ・カラーの「赤」として,自分でも恐ろしくなるくらい,はっきりと「見える」のである。

アグファの「赤」は,決して派手な色合いではなく,寧ろ,朱が掛かったような,赤茶けた,くすんだ色である。他の配色が全般的に地味なものであったから,あるいは,小津が好んだとも言われるアグファの「青」が要所要所に使われていることとの対照性から,「赤」が際立ったという側面もあろうが,「小津調」と言われるものを決定付けているアグファの「赤」が,これだけ視認性の高いものであるとは,フィルムで見て初めて視認できた。そういうものだという知識を前もって得ていたならば,DVDの映像でも確認できるのであろうが,そんな知識がなくても,フィルムを見れば,一発で,眼が反応してくれるのである。


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アグファ・カラー風に修正してみた東京タワー (なかなか上手くいかないが……)


そして,映画の最後で,アヤ子(司葉子)の花嫁姿を見た時に,最初のシーンの東京タワーとこの婚礼衣装が,「紅白」の符牒をなしていることに,自ずと気が付くのである。これは,「解釈」の問題ではなく,「視認」の問題である。東京タワーは,単に位置を示すだけの無意味な空間などではなく,また,失われてゆく嘗ての東京に出現した,無骨な建造物などでもなく,次の新しい世代を生み出す,誠におめでたい「紅白」の塔であることに意味があったのだと,頭の中で考えずとも,映画を見ている眼がそう理解する。

『秋刀魚の味』に登場する川崎の工場の赤と白の煙突や,そもそも,クレジットの文字の赤と白の色遣いなど,小津の映画には,「赤」に対するこだわりが見て取れる。上述した事柄は,これらに共通して当て嵌められる「解釈」を言ったものではない。最初にお断りしたように,『秋日和』を「眼で見て感じたこと」(視覚)を記したものである。


「紅葉」 ― 彼岸と此岸を繋ぐもの


ところで,この映画に深く係わっているのは,(桜ではなく)「紅葉」(もみじ)である。母娘(原節子と司葉子)の二人が,銀座「若松」で食事をして,アパートに帰ってから,父の思い出話をするシーンがある。この時に初めて登場するのが,「紅葉(もみじ)の若葉」という台詞である。そして,アヤ子の結婚が決まり,この母娘が,周遊券を使って旅行するのが,日光(台詞のみ)と伊香保だが,榛名湖と榛名山(榛名富士,画面右の斜面にロープウェイも見える)のシーンが,「紅葉」が映像となって登場し,『秋日和』の人事と景物を繋ぐ王朝和歌的クライマックスとなって眼の前に現われるのである。派手な「紅葉」では決してなく,迫力に欠けるとも言えなくもないが,父の生前の思い出話とアヤ子がここに疎開していたという会話の開始と,小学唱歌「紅葉」(秋の夕日に照る山紅葉……)の開始が同時であるのも,そこに深い関連性があるからである。「紅葉」は,亡くなった人の魂,あるいは,亡き人を偲ぶ跡なつかしき気色(「疎開」から,戦争の痕跡も)であると同時に,次の世代を生み出し,育むものとして描かれているのである。「秋ハ哀シ」というのは,潘岳『秋興賦』など中国六朝詩学の影響で,『古今集』以降に定着した季節観だが(『万葉集』時代の日本にはなかった),秋萩,女郎花,白菊などを詠った「秋歌」の中にあって,竜田川や三室山と共に「紅葉」を詠った古今集歌(秋歌下)は,文字通り異彩を放っている。しかし,時雨の降る紅葉でも,移ろう紅葉でもなく,『古今集』の紅葉と較べてみれば,『秋日和』の紅葉が,如何に「爽やか」(アヤ子がこの漢字の一画目を指で書いているシーンがある)なものであるか分かるであろう。「これからもずっとお父さんと二人で生きていくわ。」と最後に言う秋子(原節子)の姿に象徴的に見られるように,死者への思いを胸に抱きつつ,アグファの「赤色」が描いた,東京タワー,紅葉,婚礼という,この「紅葉の若葉」の新生(Vita Nuova)の連鎖が,『秋日和』の本質だったのである。

清洲橋の袂の料亭(脚本では,築地とあるが,清洲橋は,築地ではなく,中央区日本橋中洲と江東区清澄1丁目に架かる橋)は,亡き三輪の七回忌の会食に始まり,その三輪の忘れ形見の婚礼後の会食に終わる。隅田川は,死と生の境目でもあるかのようだ。亡き人への追悼と,これから生きよう(そして,新しい生命も誕生するであろう)とする次の世代の人への祝いのはなむけ,その二つの儀式が同時に行なわれる場所が,小津の映画にとって,隅田川西岸だったということである。空襲の被害が甚大だった隅田川東岸では,あり得なかったのだ。そして,1960年に結婚した二人が生み出したもの,それが翌年に誕生した私でもある。私は,四谷の一つ先,信濃町で生まれた。現在,新・東京タワー(東京スカイツリー)が,隅田川東岸の墨田区押上(業平橋,向島の東隣)に建設中である。『秋日和』の新しい息吹,「紅葉の若葉」が,戦後66年経って(2011年竣工予定),ようやく,隅田川東岸(「濹東」)にも訪れることになる。


2009年2月12日

東京タワーと『秋日和』(1960年) ― にいがた国際映画祭 ―

― 小津安二郎の描く東京 (3)


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2008年春の東京タワー


小津監督の『秋日和』(1960年,松竹)が,第19回「にいがた国際映画祭」の企画の一つとして,来る2月14日(土),18日(水),19日(木)の3回,新潟市民プラザで上映される。日頃,DVDでしか見られない欲求不満が溜まっていることもあり,フィルムで,しかも,映画館で見られるというのは,大変楽しみなことだ。

私は,部外者ではあるが,隣の研究室のI先生や,学生のWさんたちが,実行委員として係わっておられることもあり,ちょっと宣伝してみたい気もする。内容や見所について,ここで云々するものではないが,先日,DVDで改めて“予習”してみたので,少しだけ,ここに記しておくことにしたい。

この映画は,冒頭で,東京タワー(1958年開業)が出てくることでも,有名な作品である。これは,小津の映画によく登場する,江東区のガスタンク(『風の中の牝雞』),千住の煙突(『東京物語』),川崎の工場(『秋刀魚の味』)など,発展してゆく東京の建築物と並んで,先行研究では,その意味についてしばしば言及されているものである。とは言え,吉田喜重『小津安二郎の反映画』(岩波書店,1998年)らの見方にはどうしても首肯し難いのは,私が,東京タワー以前の東京を知らず,高度経済成長期に差し掛かる時代に生まれたからやも知れないのだが,実際のフィルムを見て,どう感じさせられるか,楽しみでもある。


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東京タワーの鉄骨 戦後東京の現代化


ところで,今年度,東京タワーの表象論で卒論を書いた学生のK君がいて,『秋日和』も取り上げていた。彼は,東京タワーと桜が並置されることの意味作用についても触れたのだが,映画では,桜の「花」が映っている訳ではない。東京タワー周辺は,確かに,桜の名所でもあるのだが,東京タワーと桜の「木」について,なかなか難しいことを考えさせられることになる。桜と言えば,「花」であって,「木」ではない,これが,もし,梅ならば,「花」(白梅)もあるが,「木」(白雪の降り掛かる)もあり得る,というのが王朝古典詩学の文脈だからである。


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東京タワーと桜の「花」


ところで,『秋日和』で私が好きなのは,清洲橋(隅田川)のシーンである。小津の映画に隅田川が登場するのは,『一人息子』(永代橋,台詞で清洲橋)と『風の中の牝雞』(相生橋,勝鬨橋)くらいで,荒川(『風の中の牝雞』,『東京物語』)や多摩川(『早春』,『お早よう』)をよく描いたことに較べれば,小津は,この圧倒的に古典的な主題である「隅田川」をあまり描かなかったという感が否めない。このことの理由については,先行研究でも言及されてはいるが,隅田川の(東岸には渡らず)西岸に止まって,清洲橋の袂の料亭で,三輪の七回忌後の会食をしているシーンは,『風の中の牝雞』に於いて,勝鬨橋の東岸で,娼婦房子と会話をする,実に感動的なシーンと,極めて対照的な意味を持っていると言わざるを得ない。尚,登場する料亭は,高級料亭「三田」であったと言われている(川本三郎『銀幕の東京』,中公新書,1999年)。

さて,『秋日和』には,冒頭の,松坂屋(上野店)裏のとんかつ屋の話題に始まって,例によって例の如く,丸の内・銀座周辺に設定された料理屋が,たくさん出てくる。看板「う」で有名な小津お得意のうなぎ屋が,佐分利信と原節子のシーン,佐分利信と司葉子のシーンの2回出てくるのは,嬉しい。「う」は,『東京暮色』と『秋刀魚の味』にも登場するが,小津が好んだ蒲焼の老舗・竹葉亭(銀座店)の看板「うなぎ」の「う」に字にそっくりだ。


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竹葉亭(銀座店) 中央区銀座5丁目8-3


また,「和光の角ね。」と言って,原節子と司葉子の母娘が,銀座で待ち合わせをして食事をするのが,「若松」で,『彼岸花』や『秋刀魚の味』にも登場する。これは,うなぎ屋でも天ぷら屋でもなく,うまいもの屋なのだが,「おいしいもの食べて歩きたいわね。」と,映画を見て,食事をして,買い物をするこの二人を見ていると,『秋日和』を見た後,我々もきっと,どこかでおいしいものを食べて帰りたくなる。この二人が食べたものが何であるのか,いつもの如く映像にはないのだが,白い大きなお皿に残っているトマトの切れ端とパセリ(ブロッコリー?),そして,タラコを買うと言う微妙な原節子の表情から,「鱈(たら)のムニエル」,あるいは,少なくとも,魚のフライ類(尻尾の焦げた衣も見える)を併せたものではなかったのかと確信しているのだが,さて,如何だろうか。佐田啓二と司葉子がラーメンを食べる「三来元」も,『お茶漬の味』でお馴染みの中華料理屋だ。

ユーハイムの包みが登場するシーンも,見逃せない。中身は,結局開けないので分からないのだが,その赤と黒のストライプは,背景に干してあるタオルの同じ様な模様と重なって,面白い。

また,湘南電車が見えるシーンも,2回登場する。これは,東京中央郵便局(下に郵便配達車の駐車場が見える)の間から,湘南電車が東京駅を出て(勿論,下りの方向),すぐの所を眺めたものである。画面左から右へ,列車が走行するシーンである。

余計なことを書き連ねてしまったが,こんな事を楽しみながら見ていられるのも,小津の映画の楽しみ方の一つである。軽妙洒脱な男たちの猥談を楽しむのもまた良し,当時の「現代っ子」岡田茉莉子の気っ風の良い啖呵に拍手するのもまた良し,そして,原節子のそこはかとなく醸し出す,一人残された母の寂しさに涙を抑えるのもまた良し,どのように楽しむのも自由ではあるが,しかし,映画の理解は,開かれたものであるとは言え,それは,映画の「外」にあるという意味ではなく,映画の「内」から始められるべきものであるということは,はっきりと言っておきたいと思う。

新潟に居ながらにして,小津のフィルムを見られるというのは,実に,有り難いことだ。「にいがた国際映画祭」関係者の皆さまには,心より感謝申し上げたいと思う。


2009年2月 5日

銀座点描 ― 変わりゆく街の光景 ―

― 小津安二郎の描く東京 (2)


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『東京物語』(1953年)の今


さて,上の写真の建物は,一体,どこの建物であろうか。これは,小津安二郎が,嘗て,『東京物語』(1953年11月,松竹)で撮った銀座の老舗デパートの,今のファサードである。『東京物語』では,「はとバス」(1948年に誕生)で銀座4丁目の交差点にやって来たと明らかに分かる光景に続き,突如,ある建物のガラス窓のアップが,こんな風に映される。それは,知っている者の眼には,銀座松屋のファサードだということが即座に分かるのだが,その松鶴マークや松屋自慢の屋上展望台などが映されることによって,松屋デパートだということが明らかになってくる。


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銀座松屋のファサード 中央区銀座3丁目6-1


とは言え,東京にそう再々行く訳でもない本学の学生諸君にとっては,どうしても地理的に不案内なこともあって,それが銀座松屋であることが見て取れないかも知れない。しかし,それ以上に,東京は刻々と変化してゆく街であり,小津の描く東京は,実は,東京在住の人々にとっても,それがどこなのか,分からなくなりつつある。小津にお馴染みの東京駅丸の内の「丸ビル」や「新丸ビル」,有楽町の「日劇」や「朝日新聞社東京本社」の建物も,今はもう一変している。戦前から1950年代~1960年代を描いた小津の東京の姿は,時代的にも,遠くなりつつある「都市の記憶」であるとも言える。1990年代から,新橋・汐留,品川,東京湾岸の再開発などを始め,東京は大きく変貌し,取り分け,近年の耐震補強工事の必要性から,建物外壁の外観が変わってしまった建物も多い。この「銀座松屋」(1990年代半ばには「松屋銀座」という言い方が一般的になっている)も,いつの間にか2001年(2006年完成)に改修されたその一つだが,前回の記事で紹介したJR蒲田駅も,その様相を大きく変えている。

『東京物語』に描かれた嘗ての銀座松屋のファサードは,1960年代の東京に生まれ,一時期,宝塚や神戸に暮らした後(懐かしの宝塚大劇場や,小津も好んだ神戸元町のユーハイムは忘れ得ない),1970年代に東京に戻ってきた私の眼にも,辛うじてそれと分かるものであるが,その巨大なガラス窓が銀座の街並みを映していたという強い印象がある。日比谷・有楽町から銀座・築地にかけては,私が当時通っていた東京学芸大学附属高校をさぼって抜け出し,よく歩き回ったものであった。その甲斐あって,日劇の「白亜の殿堂」もよく覚えている。丸ビルに当時漂っていたどんよりとした空気感も,昭和の残映として記憶している。

銀座松屋は(何の関係もない「牛めしの松屋」ではない! 文コミの学生諸君よ!),1869年創業,1925年5月1日に銀座3丁目に開業し,永井荷風『斷腸亭日乘』にも描かれている銀座を代表する老舗デパートだ。そして,『東京物語』の前年,1952年当時の新聞には次のようにある。

「……銀座三丁目松屋百貨店を接収した「東京PX」が十七日午後五時限り閉鎖された。……これによって銀座の植民地色もいくぶん少くなろうとみるむきが多い。……
松屋本店長谷川取締役談
改造には半年かゝるので暮の開店には間に合うまい。本館と伊東屋ビルの三階以上とを連結,裏に出来上っている地下五階や地下鉄の口も再開して面目を一新した姿で復活させたい。」
(朝日新聞,朝刊,1952年8月18日,東京PXきのう閉鎖)

※ 「東京PX」とは,東京に設けられた進駐軍専用の売店(Post Exchange)のことである。小津の『お茶漬の味』(1952年10月,松竹)でも,銀座和光のことをこう呼んでいる冒頭シーンがある。

これは,1952年4月28日,サンフランシスコ講和条約の発効によって進駐軍が漸次撤収し,「占領下の日本」(Occupied Japan)から独立国家としての「日本」に生まれ変わってゆく時代の銀座を言い表したものである。つまり,『東京物語』の1年前,松屋は,占領軍の接収を解除されたばかりなのであった。更に,『東京物語』ロケ・ハン開始の前月,1953年5月の銀座松屋を伝える新聞記事として,

「東京銀座の松屋は,昨年十月の接収解除以来改増築工事を行っていたが,このほど完成,二十日の開店を前に十八日午前十時高松,三笠両宮様をお招きした。……高松宮さまは……松坂屋より一尺高いとかで自慢の展望台から都心を見渡されたり店内をお回りになった。」
(朝日新聞,夕刊,1953年5月18日,高松,三笠宮様松屋へ)

という記事があり,1953年に小津の描いた銀座松屋が,どの様な歴史的意味を持っていたものなのか,よく分かるのである。笠智衆,東山千栄子,原節子の三人は,1ヵ月前,新装開店直前に宮様が見渡された松屋「自慢の展望台」から,有楽町方面を眺めていたのである(ロケ撮影は,9月)。もし1ヵ月早かったなら,『東京物語』のあの映像はあり得なかったのである。


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色取り取りに変化する,夜の銀座松屋


銀座松屋のファサードは,現在,アルミパネルの上に,金属金物でガラスを固定した,二重構造になっている。小津の描いた松屋とは様相を大きく変えたとは言え,表面をガラス構造にすることによって,銀座の街並みを映し出そうとする巨大なファサードであることをコンセプトにしていることには変わりはない。お洒落な建築物が軒並み建ち並ぶ今の銀座の街並みにあっては,突出した存在とは言い難くなっているのも残念ながら事実ではあるが,この銀座松屋は,実は,昨春亡くなった私の母が,大好きだったデパートでもあった。銀座の和光,三越,松坂屋にも,それぞれに思い出もあるのだが(丸井やプランタンなど,どうでもよい),銀座松屋は,小津が『東京物語』で描いた通り,今でも,東京銀座を「映す」象徴の一つなのである。

ところで,今のこのご時世,デパートへの憧れが残っているというのも,私が昭和に育ったことの証しだが,往年のデパートには,ミニチュアカーとか模型とか,ショーウインドウにずらーっと並んでいて,まさに,男の子の夢の世界でもあった。そういう世界を今でも残しているのは,銀座天賞堂がその一つであろう。『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年,東宝)には,それをもじった店が背景にちらっと出てくる。入ったら,なかなか帰れない店だ。小津の『麥秋』(1951年,松竹)では,子供たちが,32mmゲージの鉄道模型(その後主流になるHOゲージは,その半分の軌間16.5mm)で遊んでいるし,原節子も駅弁を売る真似をして調子を合わせている。『晩春』(1949年,松竹)でも,鉄道模型が登場するが,ここでは,原節子がちょっかいを出して勝手にスイッチを入れ,子供にひどく嫌がられている描き方が面白い。天賞堂で,私も,懐かしいメルクリンの鉄道模型にうっとり……


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天賞堂 中央区銀座4丁目3-9


2009年1月27日

早春の蒲田 ― 1956年1月29日の今 ―

― 小津安二郎の描く東京 (1)


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東京都大田区蒲田5丁目3番 宮之橋から呑川を望む
電車は,京浜東北線(南行),蒲田駅に差し掛かる


今から53年前の1月29日,小津安二郎監督の『早春』(松竹・大船)が公開された。これは,東京都大田区蒲田が舞台となっている映画だ。蒲田は,1920年から1936年までの戦間期,松竹キネマ蒲田撮影所があった東京の南の下町。「春の蒲田 花咲く蒲田 キネマの都」とは,当時撮影所で歌われた「蒲田行進曲」の一節で,映画『キネマの天地』(1986年,松竹)でも再現されている(JR蒲田駅の発車メロディーでもある)のだが,大田区花の「梅」も,暦の上では「早春」とは言え,この時期,さすがにまだ咲いていない。

映画『早春』の描くこの蒲田について,蒲田が故郷である私から,少しではあるが,皆さまにご紹介申し上げたいと思う。


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東急蒲田駅(高架駅,左手) 西蒲田8丁目1番


『早春』の冒頭で,国電蒲田駅周辺での朝の出勤風景が描かれているのはご存じの方も多いと思うが,蓮實重彦も『監督 小津安二郎』(増補決定版,筑摩書房,2003年)で論じている有名な一連のシーンである。この中で,東急目蒲線・池上線の蒲田駅が国鉄蒲田駅と直角に接続している地点の南側を描いたショットがある。これは,現在の西蒲田8丁目1番で撮影されたものである。東急蒲田駅が高架化されるのは,1968年11月なので,1956年の映画では,まだ地上駅。そして,正面に京浜東北線の電車が通過するシーンも映画では見られるのだが,現在では,上の写真の通り,建物が建ち並び,ここからは全く見えない。


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JR 蒲田駅 西口


国鉄蒲田駅の西口の光景に続いて,『早春』では,「今度二番線に参ります電車は,八時二十八分の蒲田始発大宮行きでございます。」と構内放送が流れ,京浜東北線の蒲田駅入線シーンが登場する。これは,西蒲田7丁目2番で撮影されたものである。下の写真が,その撮影ポイントだ。当時の国鉄蒲田駅のプラットホームは,島式1面2線なので,大宮行き(北行)は2番線,現在のJR蒲田駅(1961年に完成した島式2面3線)の4番線に相当する。


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JR 蒲田駅 4番線 西蒲田7丁目2番


この入線シーンは,車輛編成の異なる二つの別個のショットで構成されているのだが,二つ目のショットの車輛編成は,先頭車から,「モハ73339+モハ72203+クハ79168」であることがはっきりと読み取ることができる。取り分け,「3輛目」のこの車輛形式称号は,まさにそれを見せるためのカットであり,撮影監督・厚田雄春の鉄道マニア(厚田雄春・蓮實重彦『小津安二郎物語』,筑摩書房,1989年)としての「こだわり」が,極めてよく現われている。その歴史的意味については,人文学部紀要『人文科学研究』第124輯に掲載予定の拙稿「東京の地理学と小津安二郎の映画技法―鉄道路線とゴジラ映画の視覚から―」で述べてある。

『早春』当時の京浜東北線は,「基本5輛+附属3輛」の8輛編成であり,1966年には,山手線よりも早く,10輛化(McM'Tc'McM'TTMM'Tc')され,現在は,「10輛貫通化」して久しい。1950年代は,63系の改造車である73系の「モハ+モハ+クハ…」で編成されているが,現在は,「クハ+サハ+モハ…」であり,中間車には,映画にあるように,「クハ」が来ることはもうない。


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京浜東北線(北行) 先頭車 クハ E233


上の写真は,先頭車。下の写真は,小津が,『早春』で,京浜東北線「3輛目」を撮った地点だ。1970年,駅ビル西館が開業しており,それ以前の『早春』当時は,映画のように,もう少し右手に寄ることもできた。


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京浜東北線(北行) 3輛目 モハ 209


蒲田駅大森寄りの西口通り抜け通路もできて,『早春』の京浜東北線「3輛目」は,今はこんな所になっている。1956年,ここに,「クハ79168」が来ていたのだ。

私の知っている国電103系の時代も,10輛化はされていたが,まだ貫通化していなかったので,小津の描く京浜東北線は,明らかに,大量輸送時代を迎えた「戦後」の東京の「現実」を描いたものであることが分かる。


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JR 蒲田駅 東口


ところで,松竹キネマ蒲田撮影所は,JR蒲田駅東口,現在の大田区民ホール・アプリコの辺りにあった。その「松竹橋」が,今も,残されている。


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大田区民ホール・アプリコ 蒲田5丁目37番


ホール1階には,「松竹橋親柱」が移設されている。大田区蒲田の貴重な歴史的遺産だ。地下1階には,撮影所全体の模型も展示されている。


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松竹キネマ蒲田撮影所(跡地) 松竹橋


蒲田駅構内の線路を一望できる地点が,蒲田陸橋(環八)。『早春』当時は,まだない。下の写真の上方が,北方向(大森・品川方面)。その下左手(南西方向)には,蒲田操車場(蒲田電車区)に向かう線路がある。停車している電車は,4番線に入線する蒲田駅出庫始発電車である(折返し始発の場合は,3番線)。『早春』に登場する始発電車の,今の姿である。


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蒲田陸橋から蒲田駅を望む
右2線が東海道線,中4線が京浜東北線とその引込線,左1線が蒲田操車場接続


53年前の『早春』の蒲田駅始発電車が,今でもこうやって,4番線入線を待っている……


「クハ」(Tc)は,先頭車(後尾車)で用いる制御車(運転台付き),「モハ」(M)は,中間車に用いる電動車(運転台がない,但し,63系の場合は運転台の有無を表さない),「サハ」(T)は,附随車(モーターも運転台もない),「クモハ」(Mc)は,電動制御車(モーターと運転台付き)のことである。中間車に「クハ」ないし「クモハ」を用いるということは,そこで連結を切り離す必要性があったことを示している。京浜東北線は,山手線よりも,10輛化は早かったが,貫通化(連結を切り離さずに済む車輛編成)が遅れていたのである。「ハ」は,普通車を表す。尚,『早春』に登場する「モハ73339」は,改造されて運転台のある先頭車として使われている。京浜東北線は,東京駅を挿んで,北は大宮から,南は大船(根岸線)まで結んでいるので,「上り・下り」とは言わず,「北行き・南行き」と言う(但し,実際上は,「大宮行き」といった具体名で言っている)。ところで,関係のない話だが,「サハ」は,モーターの振動がないので,乗り心地が良い。「サロ」は,グリーン車なので,更に良い。このように鉄道用語を使って話すのは,実は,小津組の特色でもあり,小津の映画技法を支えていたものであった。

『早春』の1輛目「モハ73339」は,旧「モハ63552」(1947年製造),1953年改番,その後,「クモハ73339」に改番(1959年)。2輛目「モハ72203」は,旧「モハ63676」(1947年製造),1952年改番。3輛目「クハ79168」は,旧「(未電装)サモハ63340」(1946年製造),1952年改番。


2008年6月 5日

詩文は香り,人をくすぐる ― versus digitos habet ―


B先生の「アダルトなロシア語」に応答して,ちょっと連ねて書いてみようと思います。そうしたくなる私への誘惑が,B先生の文章の中には既に仕組まれているようでもあるし,テクストはテクストの上に “superposition” されるものでもあるし,その方が,このブログも面白くなることでありましょう。但し,私は,ロシア語も知らないし,チェーホフの作品すら知らないので,B先生の引用文と地の文だけから,想像して書いてみます。

ところで,「客観的であるべき地の文のなかに,主人公の内面の声が混じりこんできます」とも,「地の文の客観性と主人公の主観性が交差する原文の微妙なニュアンス」が大事だともありますから,B先生の地の文で,「面倒な理屈などいっさい放棄してしまいたくなるような誘惑に駆られます」というのは,チェーホフの文章を前にして嘆息するB先生の感慨だけではなく,「犬を連れた奥さん」こと,二十を少し過ぎたばかりのアンナ・セルゲーエヴナに恋する四十男の気持ちを,そこに交差させているのかも知れません。「経験の少ない若い女にありがちなぎこちなさ」を云々するほどの手練手管の中年男が,「人生にはこんな出会いもあるのだ!」ということを生まれて初めて知ったのだから,さすがに,「分析だ,理論だ」なんて言ってられませんね。

それはさて措き,チェーホフのロシア語の輝きや響きについては,私にはよく分かりませんが,「いいなあ~」としみじみと溜息を洩らすB先生の文章を見ていて,思い出すことがあります。それは,モンテーニュ『エセー』の次の一文です。

Mais de ce que je m'y entends, les forces et valeur de ce Dieu se trouvent plus vives et plus animées en la peinture de la poesie qu'en leur propre essence,
Et versus digitos habet.
Elle represente je ne sçay quel air plus amoureux que l'amour mesme. Venus n'est pas si belle toute nue, et vive, et haletante, comme elle est icy chez Virgile:
(Montaigne, Les Essais, III, v, Sur des Vers de Virgile)

(和訳)
「だが,私がそこで分かることと言えば,この神(愛の神)の活力は,詩に描写されている時の方が,本物以上に,生き生きと,躍動しているということだ。
『そして,詩句には,指がある。』 (詩文は,人をくすぐる。)
その描写は,愛の神そのものよりもずっと愛の神らしい色を帯びた,得も言われぬ様相を呈している。全裸で,生きていて,息を弾ませている本物のウェヌスも,ウェルギリウスの次の詩句に描かれたウェヌスほどには,美しくはないのだ。」
(モンテーニュ『エセー』,第3巻第5章,ウェルギリウスの詩句について)

続くモンテーニュの文章には,ウェルギリウス『アエネーイス』第8巻(Verg. Aen. viii, 387-392, 404-406)から引用され,女神ウェヌスが,前夫であるウルカーヌスを抱擁する場面が描かれる。 “versus digitos habet” とは,ユウェナーリス『諷刺詩』(Juvenalis, Satura, vi, 197)の一句を改編して作られたものだが,生き生きとした精密な描写で,読む人の五感に直接作用する「エナルゲイア」(enargeia)の修辞技法の醍醐味を見事に言い当てたものである。

生身の女性より,詩や絵画に描かれた女性の方が魅惑的だという考え方は,ルネサンスの芸術家たちが口を揃えて言っていたことである。二十そこそこの本物の女性の色香も実感したかも知れないということは敢えて否定する必要もないが,B先生は,チェーホフのロシア語テクストから,極上の快楽を味わうことができた訳なのである。まさに,ご同慶の至りと言うしかない。

前置きはこのくらいにして,さて,本題に入ろう。

私が最も気になった点は,なぜ,チェーホフの「犬を連れた奥さん」から,あの箇所が引用されているのかということである。勿論それは,英訳と対比しつつ,ロシア語読解の肝心要を説明するための適切な材料だったということは明示的なのだが,なぜ,「いいなあ~」とB先生を嘆息させるほどの表現力を持っていたのかということが問題なのである。

「彼女の部屋は蒸し暑く,日本雑貨の店で買った香水の匂いがこもっていた。」

実を言うと,B先生は,この香りにやられたに違いない,と密かに私は思っているのである。「日本雑貨の店で買った香水」とは,「日本製品を取り扱っている/日本人が経営している」雑貨の店で買った「日本製の/日本製以外の」香水であるが,ロシア語としては如何様に解釈できるのであろうか。「犬を連れた奥さん」が書かれた1900年前後の帝政ロシアに於いて,外国製の香水が輸入されているとしたら,筆頭に挙がるのは,フランス製である。「……官營のデパートメント・ストアには佛蘭西産の三鞭酒もあり香水もあり装飾品もあり其他贅澤なる嗜好品,食料品も求めんとすれば總て舊帝政時代の如くこれを得ることが出來る。」(大阪毎日新聞,1923年2月20日~4月5日,勞農露國の現在)といった記事からも窺い知ることができる。

しかし,わざわざ「日本」と言っているのだから,あくまでも日本製の香水なんだとしたら,如何なる理由で,ロシアに入って来たのであろうか。アンナ・セルゲーエヴナは,それを,ヤルタで買ったのであろうか,それとも,生まれ故郷のペテルブルク,あるいは,S市(S市って,どこ?)で買ったのであろうか。二人が初めて二人切りになった女の部屋の,文字通り,空気を描写したこの一文は,五感に訴える強烈な第一印象となって,B先生の感覚を捉えていたはずなのである。避暑地の黒海沿岸での,新鮮な不倫,しかし,部屋の蒸し暑さは,恋の行為の阻害要因になるどころか,それを助長する。まるで,デュラスの『愛人』に登場する仏領植民地サイゴンの隠れ家のようではないか。そして,その蒸し暑さに隠微に混じり合う,日本の香水の香り。二人がS市で再会を果たした劇場で演じられていた芝居も,『芸者』であった。チェーホフと日本という主題は,ロシア文学の大きな研究テーマでもあるのだが,私にはその知識がないので,後日ご教授願うとして,取り敢えず,知らぬままに書き進めてみたい。(先行研究を参照しないで,プロは文章を書かないものだが,参照する以前に,一瞬,どういう想像を巡らせるのかということを,ブログならではの自由さで書いてみようということだ。)

「東露の同胞 其數約四千五百人に達し其内醜業婦第一位にあり其他寫眞洗濯理髪時計直し大工等の諸業最も多く貿易商の如き僅か六十に足らず……」(時事新報,1918年8月15日,東露經濟近況) ここでいう東露とは,バイカル湖以東のシベリアのことである。「からゆきさん」(当時の言葉では,「娘子軍」「醜業婦」)は,明治から昭和にかけての南進日本の先陣を切って,南洋・東南アジアに進出した海外売春婦のことであるが,帝国陸軍が主として推進した北進政策の中でも,シベリア方面に渡った「北のからゆきさん」も多数いたことが知られている。「からゆきさん」が行く所には,その身仕度のために,着物やら化粧品やらを扱う怪しげな商人も便乗して渡っていった。映画『サンダカン八番娼館 望郷』にも,着物を売り付けようとする呉服屋や,写真屋が描かれている。当時,シベリア鉄道は既に通ってはいたが,ヨーロッパに渡った「からゆきさん」がいたことも知られているし,アポリネールの小説にも,蝶のように肢体を開く日本娘(恐らく,からゆきさん)の性の描写も見られはするものの,チェーホフが描く帝政ロシアの主要都市に「からゆきさん」が渡ったという記録は,ここ数日の調査では,残念ながら該当する文書が見つからない。アンナ・セルゲーエヴナが買い求めた香水は,日本の女郎屋周辺に係わる商店にあった物ではなかったかという想像を掻き立てたのである。チェーホフは,シベリアを横断してサハリンまで来ており,「北のからゆきさん」のことは知っていた。

時代はチェーホフより少し下るが,「……今本邦よりの輸入品として掲記せらるゝ品名は精米,寒天,精製樟腦,アンチモニー,薬品,コスメチック及香水類,器械類,眼鏡類,生絲,消毒綿撚絲,麻織物,絹織物,編物及莫大小,鈕釦,小間物類其他なりとす。」(横浜貿易新報,1915年11月18日~11月23日,開戰後の對露貿易)という記事もあり,ロシアが日本から香水を輸入していた事実が分かる。また,更に時代を下り,ソ連時代のことになるが,「モスコー百貨店に初めて,日本品現ると報ぜられた時は,全く一つの出來ごとであつた。……絹地,毛織物を始めとして,ハーフ・コート,腕卷時計,蓄音器のレコード,ボタン等々である。なにひとつ特別に日本品の廣告が出たわけでもないのに,かういうことに特別きゝ耳の早いモスコーつ子の間に「日本品現る」の聲がそれからそれへと傳はり擴まると,憧れの日本品に人々は殺到していつた。世界に名だたる日本品が出てゐるさうだ,殊に日本の絹ときたら世界一だ,人々はかう言い合つて,無理をしてでも日本品をむさぼり求めた。人々はまづ,その表裝の美しさ,模様や色上げの見事さに,歡聲を放つた。かうしてモスコーの女といふ女が,全部,日本の美しい絹服を纏つて,生れ代つたやうに綺麗になるだらうと噂されたのであつた。……日本品が珍らしくもソヴエトに現はれた經路は,もちろん北鐡譲渡によつて,ソ聯が其代償金の一部を日本商品によつて受取つてゐるからであるが,……」(東京朝日新聞,1936年8月4日~8月30日,世界のデパート)という記事も見られる。

ヨーロッパ・ロシアに於ける日本趣味の流行は,パリ万博も含めた,ジャポニスムの影響だというのは,素人にもすぐ思い付くことではあろうが,表の歴史だけではなく,裏の歴史というものもあるのだということが私を引き付けるのであり,アンナ・セルゲーエヴナが確かに買い求め,「犬を連れた奥さん」の極めて重要な小道具になった「日本雑貨の店で買った香水」が如何なるものなのか,私は知りたいと思ったのである。話が勝手な方向に進んでしまったが,チェーホフの研究用リファレンス・エディションを見れば,注釈に書いてあることやも知れないし,周知のことなれば,ご教示下されば幸いである。

B先生は,ロシア語のアダルトな一側面に感動されて記事を書いた。私とは,全く専門を異にするとはいうものの(日常的には,極めてよく一緒に仕事をしている間柄だが),その感動が,もし,「からゆきさん」の歴史的因縁と仮にどこかで絡まっているとするならば,事実は,小説よりも奇なり,と言わざるを得ないのである。


2008年4月 4日

勝鬨橋とゴジラ映画 ― 銀幕の東京を偲ぶ ―


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勝鬨橋 (西岸,築地6丁目,はとば公園から)


先月末,勝鬨橋(かちどきばし)へ行った。都営バス15系統に乗り,鉄砲洲,明石町を経由して,築地7丁目で降りる。はとば公園から勝鬨橋を望む。この橋は,築地6丁目と勝どき1丁目(旧月島)を結ぶ,隅田川最下流に架かる橋で,通りの名は,晴海通り。1954年,ゴジラが壊した橋だ。『ゴジラ』(1954年)で,芝浦埠頭に再上陸したゴジラは,銀座4丁目の交差点から晴海通りを通り,数寄屋橋方面へと向かう。日劇,国会議事堂,テレビ塔(平河町)を経て,その後,上野,浅草から隅田川を下り,この勝鬨橋に至る。

勝鬨橋は,1940年(昭和15年)6月に完成した跳ね橋で,その名は,1905年(明治38年),日露戦争での旅順陥落の戦勝に因んで設置された「勝鬨の渡し」に由来する。1970年(昭和45年)までは,1日5回,橋の中央部が跳ね上がり,船が通行していたが,現在は,開かずの橋となっている。


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勝鬨橋 (東岸,勝どき1丁目,旧月島から)


勝鬨橋の静かなシーンに続き,隅田川にゴジラが現われる。ゴジラは,橋の東側(上の写真で右側)を大きく持ち上げて破壊し,その衝撃で,築地側に大きな波が押し寄せる。東京都中央卸売市場築地市場のある辺りだ。旧東京市設魚市場は,1923年(大正12年),関東大震災で焼失し,現在の築地に移っている。

ゴジラの東京蹂躙は,東京大空襲の再現でもあるが,その通過経路がB-29そのものの反復であるかどうかは,実は,定かではない。映画でも,ゴジラの移動経路が,すべて描かれている訳ではない。私の父の証言によると,B-29は,市川上空に飛来しているのである。なお,言問橋は,勝鬨橋よりずっと上流にある。


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勝鬨橋より隅田川上流を望む (見えるのは,佃大橋)


更に,勝鬨橋を月島側(隅田川東岸)に渡り,築地市場方面を望む。ゴジラが,東京湾へと去ってゆく方向でもある。


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築地市場 (勝鬨橋,東側河岸から)


上の写真では,東京タワーも見えるが,1954年当時,東京タワーはまだない。東京タワーは,今年,50周年を迎えるが,東京タワー大展望台に登って,こちらの隅田川下流を望んだのが,下の写真である。


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隅田川河口域 (東京タワーから)


写真左上に勝鬨橋が見える(写真が小さくて見えないって?)。上2枚の写真は,向かい合わせの写真である。この一帯が,実は,『ゴジラ』の銀幕の舞台なのである。更に東京湾を進んだ所(写真のもっと右側)には,レインボーブリッジも見えるのだが,東京タワーに訪れた折にでもご覧いただきたい。

ところで,ゴジラが東京初上陸の際に,最初に壊すのは,八ツ山橋である。ゴジラは,品川埠頭に上陸し,東海道線に至る。現在のJR品川駅を南に下って最初に潜る跨線橋が,八ツ山橋である。ゴジラに最初に壊された,名誉ある建造物だ。


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八ツ山橋 (京浜東北線下りの車窓から)


2008年3月13日

根岸明美さん追悼 ― 南洋憧憬の一つの終焉 ―


根岸明美さんが,この11日,逝去(73歳)された。今朝,13日早朝のニュースで報道。1950年代,日劇ダンシング・チーム(N・D・T)のトップ・ダンサーとして活躍された根岸明美さんについては,南洋のカナカ娘の踊りを披露した『さらばラバウル』(1954年,東宝)や,『キングコング対ゴジラ』(1962年,東宝)などに出演し,戦後日本の南洋憧憬を表現する極めて重要な女優の一人として,文コミの授業でも,また,先日行なった口頭発表「南洋史観とゴジラ映画―皇国日本の幻想地理学―」(2月20日,人文学部・大学院プロジェクト共催,表現文化研究フォーラム)でも,その映像を紹介したばかりである。

根岸明美さんは,1934年(昭和9年)3月26日,東京生まれ。母は,往年宝塚少女歌劇で活躍していた元タカラジェンヌ。大妻高等女学校中退,1949年10月,日劇ダンシング・チーム(N・D・T)第6期舞踊研究生の試験に合格し,N・D・T付属舞踊研究所を経て,翌1950年(昭和25年)から,N・D・T第6期生として舞台に立つ。1952年,日劇の舞台を見に来たスタンバーグ監督の眼にとまり,1953年(昭和28年),映画界入りをする。それが,「女王蜂」("Queen Bee")として主演した『アナタハン』(THE SAGA OF ANATAHAN,1953年,東和,日米合作,特殊技術・円谷英二,音楽・伊福部昭)である。『さらばラバウル』,『獣人雪男』(1955年,東宝,特殊技術・円谷英二)などの他,李香蘭の最後の映画『東京の休日』(1958年,東宝。白川由美,原節子,水野久美,河内桃子,香川京子など“東宝美女軍団”と共演)にも出演,『キングコング対ゴジラ』では,ファロ島の原住民の踊りをスクリーンで披露している。
※ 生年月日について,1933年(昭和8年)3月(当初参照資料に拠る)とするのは誤り。

「日劇三大おどり」では,1951年,戦後第1回の日劇『春のおどり』全16景,1953年,日劇『夏のおどり』全11景の第9景「南海の女王」や,1954年,日劇『春のおどり』全16景の「ジャングル・マンボ」の場面などに出演していることが特筆される,N・D・Tのスターであった。また,1960年,日劇ミュージック・ホール(N・M・H)『夜に戯れて』2部22景の第1部第8景「タヒチ島」,第9景「南太平洋の傷痕」などにも特別出演しており,1952年に出演したN・M・H『ラブ・ハーバー』では,日本で初めての螺旋昇降式の円形舞台も出現している。(以上,拙稿「南洋群島とインファント島―帝国日本の南洋航空路とモスラの映像詩学―」,新潟大学人文学部紀要『人文科学研究』,第121輯,2007年10月,に拠る。主な参考文献は,橋本与志夫『日劇レビュー史―日劇ダンシングチーム栄光の50年』,三一書房,1997年。)

映画『アナタハン』(1953年)では,アナタハン島事件の実在の人物,南洋興発株式会社によってこのマリアナ群島に派遣された社員の妻・比嘉和子さん(沖縄出身,1973年(昭和48年),病死(50歳),吉村昭『漂流』(改版),新潮文庫,1989年,に拠る)の役を「女王蜂」こと「恵子」として演じ,島で歌い,踊る登場人物の一人として,琉球古謡「つんだら節」も披露。映画の最後のシーンでは,空港で待つ根岸明美さんの顔のアップと共に,DC-4で羽田に帰還する男たちの姿,魂だけ帰還する男たちの姿が映し出され,みんなで歌い踊った,あの懐かしい南の島の出来事だったという後味が残るように,しかし,戦後の復員兵や戦争未亡人,鎮魂や慰霊の問題を,『ゴジラ』(1954年,東宝)と同様,現代の我々にも突き付けるかの如く描かれる。「もっと踊りたい」と言う台詞の通り,踊る根岸明美は,民族舞踊によって「南の孤島も,住めば都」に変容させ,戦前の日劇や『歌ふ李香蘭』(1941年2月,日劇)などの系譜の中で,戦後のインファント島(『モスラ』,1961年,東宝)に見られる「なつかしさ」を生み出し,「踊る」南洋でもあった。

『サンダカン八番娼館 望郷』(1974年,東宝)にも出演した田中絹代に続き,戦後の女優として現われた根岸明美は,『ゴジラ』と共に,戦前・戦後を通して変容することのなかった日本の南洋史観の一側面を表象している。『眠狂四郎 女妖剣』(1964年,大映)の青蛾役にも出演するなど,ラバウルのカナカ娘や,ストリッパー魔子(『魔子恐るべし』,1954年,東宝)なども演じ,日劇の豊満肉体派女優(ご本人は嫌がったとのことだが)とも言われた。スタンバーグ監督が,根岸明美を見出したのは,1952年(昭和27年)9月,シャンソン・レビュー『巴里の唄』10景の第1景で,その時,彼女は,純白の短い衣裳で,五尺四寸,十五貫(換算すると,約163cm,56kg)であったという。『アナタハン』の主演に選ばれた時,「とっても嬉しいけど大変だと思うわ。踊り? もともと踊り手になるつもりじゃなかったんだけど,今じゃとても踊りをやめることなんか考えられないわ。」(橋本,前掲書)と言っている。

「踊る」根岸明美,「着がえる」根岸明美,「魅せる」根岸明美,日本の南洋憧憬が,一つ,消えたような気がする。戦後日本(「戦後」はまだ終わっていない)について,少しでも多くのことを記述しておかねばならないという思いも強くする。謹んで,ご冥福をお祈りしたい。


2008年2月13日

たった一度の青春 ― 卒論は,青春!


確かに,B先生のおっしゃるように,卒論に係わる一連の行事では,悲哀こもごも,絶妙に計算された師弟愛の発露も展開される場でもありますね。意図的にずらしてみたり,夜叉面を演出してみたり,はたまた,翁のようなふりをしてみたり,この辺りは,学生の皆さんも先刻,感じていらっしゃることでしょう。また,評価をめぐっては,教員間の死闘もありますが,一戦を交えるからこそ,文コミならではの学問的信頼関係も築くことができる訳で,卒論が,学生と教員の壁を越えた切磋琢磨の貴重な機会となっていることは間違いありません。

たった一度の青春を
悔いなきようにと言うけれど
……

『高校教師』(1974年,TVドラマ,東宝,加山雄三主演)
主題歌「裸の青春」(唄・夏木マリ)

ところで,上記の「たった一度の青春」という文言が,卒論を書き上げた皆さんに送ったエールであることに,気が付いていらっしゃいましたか? 70年代の古い青春ドラマの主題歌だから,意図不明だったやも知れませんが,私が当時(中高生だった),ぐれて,荒れて,反抗していた頃,毎日のように,耳を傾けて聞いていた歌です。「オリゃ,先公(←もう死語),制限用法と継続用法の区別もしないで,関係代名詞,教えようって,それでも教師かッ,ばーか」とか,「あの先公,ブッタ切ってやるッ」とか,相当荒れていて,母の白髪を増やしていた深刻な時期がありました。登校拒否もして,スケバン(←これも死語)に共感すら覚えた時期,それが私の70年代でした。(こんな私の姿,誰も想像できないって?) ただし,既に私は,フランス語とラテン語を自分で勉強していましたし,サルトルの『自由への道』も読んでいましたし,フランクルの『夜と霧』も,『三太郎の日記』(知ってますか,阿部次郎の教養書!)もむさぼるように読んでおり,自分の歩むべき道を必死に(文字通り,必死に!)探しておりました。

皆さんの卒論は,まさに青春の証しだと思います。ダサイ言い方かも知れませんが,思いっ切り考えて,悩んで,書きまくって,そして,あとで過ちを悔やむ,それが卒論の卒論たるゆえんだと思います(学士学位論文なんて普通,言いませんよね)。自分を偽ってまで,カッコだけ,何やら完成されたものを書こうなんて,ゆめゆめ,そんな了見違いだけはしてもらいたくない。かく言う私もまだ,青春! 誰にも私を止められたくない。そして,皆さんにも,お行儀なんて今はいいから,これからもできるだけずっと,風のように,自由であってもらいたい。そう願ってやみません。

今回,卒論を書けなかった,親愛なるあなた,そして,これから初めて卒論に取り組む皆さんも,自分の青春の力に賭けてみませんか。


2008年1月26日

たった一度の青春


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2007年11月10日

ゴジラと林檎のイマジナティヴ・ジオグラフィー


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福岡タワー (椰子茂る百道浜から望む)


福岡タワーに行ってきた。福岡市早良区百道浜2丁目,平成元年(1989年)に建てられた全高234mの日本一の海浜タワーである。地上123mの展望室は,博多湾や市街地を一望できる場所にある。「百道浜」「室見川」という地名は,実は,B先生の愛して止まない椎名林檎の「正しい街」(1999年)に歌われている場所でもあり,入門の授業で私が取り上げた「インファント島」という架空の島の表象を説明するために,サイードの言う imaginative geography(心象地理と一応訳されている)という概念を引き合いに出して,B先生がまとめをされたものだ。

奇しくもその授業の翌日,私は福岡へ飛び,「シーサイドももち」にある福岡タワーに行くことになっていた。それは,『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)の最終決戦地でもあったし,キングギドラが福岡市中心部を破壊する(『ゴジラvsキングギドラ』,1991年)空中からの視点を体感したかったからでもある。ゴジラ映画のイマジナティヴ・ジオグラフィーを目的とした今回の旅は(本当は,文科省特色GPフォーラム担当のための出張のついでだが),思わぬところで,椎名林檎の歌詞との接点があった。

地下鉄空港線の「西新」で降りて,徒歩で北に向かう。西南学院大学や元寇防塁跡のある界隈だ。実は,ここまでが,嘗ての海浜地区で,現在の西新通りが海岸線に相当した。昭和62年(1987年)発行の帝国書院の地図を見ると,福岡タワーは当然のこと,「シーサイドももち」そのものがない。その後,埋め立てが進み,現在の「百道浜」は完全な人工浜なのである。旅行案内書『るるぶ楽楽』には「白砂の人工ビーチ」と謳ってあり,九州は勿論,韓国からも恋人たちが大挙して押し寄せる有名なデート・スポットになっている。首都圏なら,さながら「お台場」「レインボーブリッジ」といった風情だ。百道浜は,室見川と樋井川の間の海岸を指し,埋め立て前の旧「百道浜」(西新~百道の旧海岸)と埋め立て後の新「百道浜」(シーサイドももちの町名)が存在する。


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百道浜(手前)と室見川河口 (海に見えるのは能古島)


「百道浜も君も室見川も無い」という「正しい街」の歌詞は,旧「百道浜」が失われた事実を反映したものでないのなら,やはり,新「百道浜」すなわち「シーサイドももち」の現実の風景がまずは広がっているはずであり,実際の記憶や作られた虚構はそれに附随している。歌詞の「此の街」は福岡市街であり,「空港」(駅ではない)という発想も,市街地に隣接し,市街地上空を飛行空域とする福岡空港の特性なくしてはあり得ない。百道浜からも,博多湾を南下して着陸進入する航空機が見通せるのである。


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百道浜の東側 福岡空港への進入ルート (右手の白い建物はJALリゾートシーホークホテル福岡)


この歌詞について,百道浜や室見川なんて誰も知らないだろう,という前提に基づいて解釈を展開している一例が,他ならぬ我らのB先生なのであるが,新潟や東京での受容のされ方という点では,確かに,福岡市に暮らした椎名林檎の私的な「現実」が逆に薄まり,抽象度の高い恋歌と化しているように見える(またはそう計算して見せている)とも言える。そして,「百道浜」「室見川」に,「神田川」や「隅田川」の幻影を勝手に重ねてしまっているのかも知れない。しかし,例えば「お台場もレインボーブリッジも」と歌うかわりに「隅田川も勝鬨橋(かちどきばし)も」と歌えば,喚起される映像はセピア色となり,エレジーの色調を帯びる可能性が高いように,「シーサイドももちも福岡タワーも」とは言わず「百道浜も室見川も」と表現した理由は,誰も知らないだろうから,という表象効果だけを狙ったものでは恐らくない。隅田川や勝鬨橋なんて誰も知らないだろうと言って福岡の大学で授業が行なわれていたとしたら,東京の人は嗤うであろう。


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百道浜(シーサイドももち海浜公園)の中央部 「マリゾン」(結婚式用教会,高速船発着場,レストランなど)が見える


「百道浜」は,紛れもなく,西日本の現代の恋人たちのデート・スポットであり,博多湾をめぐるお洒落な高速船の発着場なのである。「空想の地理学」は,「歴史的事実としての地理学」との緊張関係があってこそ,想像力を空高く飛翔させることができる。私が,南洋群島とインファント島の関係にこだわる理由もそこにある。

で,その同じ「百道浜」で,ゴジラとスペースゴジラ,それに,キングギドラも暴れまくった訳だが,一体どんな理由があったのだろうか。それは,恐らく,福岡タワーの「高さ」と8,000枚の「ハーフミラー」にある。デート・スポットとしての「百道浜」ではなく,建造物としての「福岡タワー」の方が重要なのだ。これは,今度,B先生に福岡へ行っていただいて考えてもらおうかな(笑)。


2007年11月 4日

平成モスラ三部作


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2007年11月 3日

11月3日,ゴジラ,日劇に現わる ― ゴジラの誕生日


今日,日本の銀幕の大スターが誕生した。1954年11月3日,有楽町の日劇で,『ゴジラ』が公開されたのだ。それから50年,『ゴジラ FINAL WARS』が,2004年12月4日に公開されるまで,全28作の歴史を作ってきた。

大戸島に初めて姿を現わしたゴジラは,日本本土,品川に初上陸する。東海道線上り列車を破壊し,一度は海に姿を消したが,芝浦に再上陸。銀座松坂屋を壊し,服部時計店(現和光,銀座4丁目)を壊し,晴海通りを数寄屋橋へと向かう。外堀通りがまだお堀であった時で,数寄屋橋はその名の通り橋であった。ゴジラが,数寄屋橋を渡る。お堀の水が,波打つ。そして,日劇(有楽町2丁目)の前。初日挨拶よろしく,しっぽで日劇の建物をちょこっと壊して,熱線放射。その時のシーンで,右側に見えるのが,日劇。その後,国会議事堂,テレビ塔を廻って,隅田川の最下流,勝鬨橋に至る。

日劇は,1933年に開場され,1981年に最終公演を迎えるまで,数々の南洋憧憬をかき立てる日劇ダンシング・チームの「舞台」でもあり,日本の怪獣を出現させてきた「映画館」でもあった。53年前の11月3日,スクリーンで初めてゴジラが前を通る日劇で,そのスクリーンを見ていた劇場の臨場感とは,一体どれほどのものであっただろうか。残念ながら,私はまだ生まれていなかった。

初代ゴジラ以来,再びゴジラが日劇前を通るのは,30年後の復活版『ゴジラ』(1984年)である。既に往年の建物はなく,有楽町マリオン(有楽町センタービル)となっている。数寄屋橋は,橋ではなく地名となり,上には東京高速道路(首都高速ではない)も走るようになった時代だ。懐かしの50年代も,そして,私が生きた懐かしい60年代も,今はもうスクリーンでしか見られない。しかし,小学生だった頃,2年間にわたり毎月,宝塚大劇場(宝塚市)で,「舞台」と「映画館」の複合的シネマ体験を持てたことは,極めて貴重なことだったと思っている。2005年1月14日,試写会を含めて私は7回見た『ゴジラ FINAL WARS』の新潟での最終上映日,この日,劇場スクリーンからゴジラは去った。

ハッピー・バースデー,Dear ゴジラ。2013年には,約束通り,また会おう。ゴジラは,日本の銀幕に必ずや帰還する大スターなのだ。


2007年11月 1日

九七式大型飛行艇


サンダカンのおサキさんだの,忍ぶ川のお志乃さんだの,人の胸をこんなにも打って止まない女性の映像は,後がしめっぽくなっていけない。しっとりとした人生の重みは,時に息苦しい。死んでゆくゴジラより,暴れまくるゴジラだけを論じていたいとも思う。そんな時は,やはり,雄壮な九七式大型飛行艇の機体(『南海の花束』)や,九六式3連装25ミリ対空機銃の迫力(『男たちの大和/YAMATO』)で,景気よくやるに限る。

モスラ(成虫)は,戦前,帝国委任統治領の南洋島内航空路を羽ばたいていた九七式大型飛行艇(九七大艇)の残映,ないしは,読み替えられた映像であることに私はほぼ確信を持っている。これは,戦前からの円谷の映像を見てゆけば,謂わばそれを視覚的に体感できる,と言ってもよい。中村真一郎・福永武彦・堀田善衛の原作に込められた文学的な意味も大事だが,それよりも,映画製作者がどのように描いているのか,モスラ飛翔の映像そのものを見て,実感すべきだろう,ということでもある。

『モスラの精神史』が,往年のゴジラ映画ファンから支持を得られないとしたら,それは,まさにこの点にある。この著者は,『赤道を越えて』に言及しているが,こんな映画は存在しない。おおかた,『円谷英二の映像世界』に誤って記載されている題名を写しただけであろう。実際に見たのなら,『赤道越えて』と書くはずである。また,円谷の飛行機好きにも触れているが,『南海の花束』,『雷撃隊出動』など,戦前の円谷映画を実際に見ていれば,宮崎駿の飛行艇なんぞよりも前に,円谷の描いた九七大艇を特定できたはずである。『ハワイ・マレー沖海戦』のことを,「無視されがちだが」とも書いているが,戦前の国策映画を無視しがちなのは著者の方である。『モスラ』の爆撃機も見逃している。円谷の飛行機が,本当は見えていないのであろう。だから,「精神史」でしかないのだ。

また,「モスラの歌」がインドネシア語で解釈できることなども,少なくともゴジラ映画ファンの間では,周知の事実である。だったら,インドネシア語でどういう意味なのか,和訳すら紹介していない『モスラの精神史』は,伝聞を書いたに過ぎないように見える。日劇についての記述も,有名な某サイトの記事を拝借したものであるのは明々白々だが,参考文献での記載がなぜだか省略されている。

実は,著者の小野俊太郎さんを私は実際に存じ上げていたし,嘗て,文学談議を交わさせてもらったこともあるのだが(ご本人は私のことをご記憶ではないと思うが),敬愛すべき,とてもいい人であった。篠田一士,小池滋,鈴木建三,若き高山宏ら,狭い「文学」の範疇をその時既に越えていたアカデミック・アトモスフェアの中で薫陶を受けてきたであろう人でもあり,モスラ論を著すに至ったとしても不思議ではない。時を同じくして,モスラ論を書いていたなんて,一足先に出されたのには苦労させられたが,嬉しくも思った。

しかし,ゴジラ映画・モスラ映画の肝心要は,何よりも先ず「映像」にあるのであって,ましてや,見なかった映画からは「精神」を引き出すことなどできまい。お陰で,私も,拙稿「南洋群島とインファント島―帝国日本の南洋航空路とモスラの映像詩学―」を出した甲斐があった。ポテチでも食べながら,寝っ転がって読んでいただければ,幸いである。飛行機映像に対する論文の強度は,悪いが,私の方が上である(と自慢してみる)。


※ 本記事と11月4日の記事を含めて,後日,小野さんからはたいへん丁寧なお便りをいただいたことを附記しておきたい。詳細はここでは省くが,私が読んだ第1刷の編集ミスは,第2刷では訂正されているとのこと。学部学生時代から,何と,二十数年ぶりのモスラが取り持つ「再会」であった。小野さんとモスラに,感謝。


2007年10月23日

望郷のサンダカン


「望郷」とは,祖国日本を指して言ったものではなく,サンダカンのことではなかったのかという印象を,私の演習でこの映画を見た学生の誰もが抱いた。故郷の天草が,「外国帰り」の主人公サキを極めて異質なものとして排除したということだけではなく,伊福部昭の音楽が,「中心」よりも「周縁」に対して,ある種の「なつかしさ」を感じさせるかのように奏でられていることにも,大きな要因があると思われる。それは,冒頭から既に感じられることであり,映画のタイトルの背景も,日本の風景ではなく,サンダカンの赤い屋根の町並みなのである。戦前,ボルネオを訪ねた特派員は,

「英領北ボルネオ第一の都サンダカンは山を背に,赤い屋根を連ねて湖畔の温泉場を想はせる町だ。」(大阪朝日新聞,1933年10月17日)

とも書いている。何やら,琉球・八重山の延長のような景色だ。『サンダカン八番娼館 望郷』(監督・熊井啓)は,「にいがた女性映画祭2007」でも,今週から上映されるとのこと(栗原小巻が演じるのは,三谷圭子。「佳子」ではない)。わざわざ「女性」と言わずとも,「ゴジラ」の演習でも,この映画は必見である。南洋というものが,如何に描かれているのか。果たして,本当に,「望郷」の対象は,サンダカンだったのか。

ところで,同じ熊井啓監督の作品に,『忍ぶ川』(1972年,東宝)がある。「忍ぶ川」のお志乃さんを演じているのが,これも栗原小巻だが,サキが初めて目にするサンダカンの町並みは,哲郎と志乃が白いパラソルの相合い傘で歩く洲崎パラダイスの町並みを思わせる。木場・洲崎は,京葉線でディズニーランドに行く時,電車がちょうど地下から地上に出た辺りだ。

『サンダカン』で泣けるなら,『忍ぶ川』では,その十倍は泣けるだろう。今どき,「手鍋下げても」というのは流行らないだろうが,結婚という幸せが存在するのだということを見せつけてくれる(1950年代が映画の舞台だが)。しかし,『サンダカン』と『忍ぶ川』では,流す涙に違いがある。おそらく,それは,死者をどう弔うか,死の意味を,後に残された人がどう納得するか,ということに係わってくる。サンダカンおキクの死,志乃の父の死,そして,ゴジラの遺骨の行方……(これが,私の次回論文のテーマだ。いや,まだ死ぬのは早い。)

今期の演習では,『サンダカン』で,学生たちに南洋憧憬を抱かせ,『南海』で南緯4度の海に沈んでもらい,『ラバウル』で南方戦線に散華してもらい,『モスラ』でカロリン群島のインファント島に帰ってもらうのだが,やはり,『忍ぶ川』も見せて,母国日本に生還させてやらないといけない気がする。


2007年8月15日

8月15日,敗戦の慚愧 ― 帝国日本の栄光と悲惨


帝国海軍の九六式陸上攻撃機(九六陸攻)は,1937年,支那事変(防衛省防衛研究所の正式名称)に於いて,重慶爆撃を断行した。この未曾有の航空機による戦略爆撃は,マレー沖海戦(1941年)で英国東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズを撃沈した栄光の記録としても残っているが,米国のB-29戦略爆撃機による東京大空襲,廣島・長崎の原爆投下に至る要因ともなっている。

敗戦が,「終戦記念日」であるとはどういうことか。嘗て,大東亜共榮圏の建設に邁進した南進日本は,円谷英二の撮影した映画『赤道越えて』(1936年)に見られる如く,確かに,敗戦を未だ知らぬ帝国の国民的エネルギーに溢れていたし,『南海の花束』(1942年)には,躍進せる航空日本の夢が描かれている。一方,占領下の日本に於いて,戦勝国の米国は,看板こそ民主主義の名に塗り替えこそすれ,戦前の日本が築いた大東亜共榮圏の基盤を利用したことは既に知られている(『冷戦体制と資本の文化』,岩波講座・近代日本の文化史9)。

「帝国の残映とゴジラ映画―爆撃機の特撮映像論―」(『人文科学研究』,第120輯,2007年)に引き続き,私は今,「南洋群島とインファント島―帝国日本の南洋航空路とモスラの映像詩学―」を次期刊行の紀要論文として書いている。執筆中に,『モスラの精神史』(小野俊太郎著,講談社現代新書)が刊行されてしまったので,それを迂回する形で書かねばならず,これまでにない難儀を強いられているのだが,ゴジラやモスラで論文を書くということは,否応なく,日本の近現代史と向き合うことになる。帝国とは何だったのか,敗戦とは何だったのか,ということを問わずにはいられないのである。東京裁判の再検討(牛村圭『「文明の裁き」をこえて』,中公叢書,2001年)や,南洋の問題(山口誠『グアムと日本人』,岩波新書,2007年)などは,近年,既に提起されている。

8月15日,敗戦の日に何を考えるのか。日本から重慶爆撃を受けた側に立ってみるということと,日本に原爆を投下した側に立ってみるということは,やはり,距離があると言わざるを得ない。日本の栄光と悲惨を,同時に想像してみなくてはならぬ敗戦国は,あらゆる意味で,「慚愧に堪えない」のではあるまいか。海洋国日本が嘗て抱いた大東亜共榮圏は,形こそ変え,しかし,今も残映として消滅してはいないことも確かなのである。


2007年8月 3日

祝ブログ開設 ― ゴジラ一番乗り!


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ゴジラの銅像(有楽町)


取り敢えず,ゴジラでエントリーしてみます。画像も,こんな感じで貼り付けられます(このサイズは,横370ピクセル)。ブログの投稿画面も,私がいつも使っているものとほぼ同じで,いい感じです。

カテゴリーの設定とか,画面で使うテンプレートとか,いろいろ変えられそうですが,初期設定のままで,投稿しています。どんな風にブログ画面に映りますやら……

この様に自由自在に投稿できますが,文コミとしてまとまりのあるブログに育ててゆくには,結構コツも要りそうですね。尚,自宅からのVPN接続だと,やや不安定です。


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