人文総合演習B 第5回
- 諏訪哲二,2007,『なぜ勉強させるのか』,光文社新書
えーと、打ち合わせ時点のヴァージョンを知っている身からいうと、話をまとめようとして削りすぎたという感じですね。まとめる努力はすべきですし、報告の一貫性は重要ですが、ネタの多様さも重要です(出席者はどこに喰いついてくるかわからないですからね)。レジュメを見て、あ、あのネタ削っちゃったんだ・・・と思いました。
報告者の主張は、学校のクラス編成を習熟度別にすべきだというものでした。これは、打ち合わせ時の、勉強は塾・予備校に、それ以外の人間的成長は学校に、というラディカルな分業提案と較べると、ちょっと穏当すぎる常識的な提案で、出席者にショックを与えるには弱すぎました。発想が穏当なために、議論がすぐに、提案を実現するための具体的な調整の話になってしまったように思います。要するに人件費がなんだとか、教師の負担がなんだとかいう話ですね。もちろん報告者としてはそこまで詰めて考えてはいないわけで(というかそこまで詰めた議論があの場でできるわけはないわけで)、それで議論が停滞したり「木を見て森を見ない」になってしまったというのが私の観測です。
われわれは議会のように、なにか責任ある決定を下すために議論をしているわけではありません。なので、問題提起の性質によっては、細かい実現可能性などは無視して、極端な提案を極端なままで検討し、その帰結をひとまず確認するという流れが有意義だったりします。学問はそういう無責任(であるがゆえに自由)なものであっていいのです。むしろそういうものであるべきでしょう。今日の議論でいえば、負担や費用の増加などはとりあえず無視して、学校の授業を面白くするにはどういう手立てがあるかということだけを論じていくのが先決だったでしょう。この論点だけでも、授業が面白いとはどういうことか、授業にとって大切なのは面白いことだけか、などなど、詰めないといけない点がたくさん含まれています。負担や費用の話と同時に行うのは実質的に不可能な大きな話なのです。そういう意味では、私も含めて、議論の場が詰め論に傾いていったのはよくなかったですね。
えー、感想を見たら司会者が気落ちしているようなのですが(笑)、どう言おうかな。えーと、まあ今回だけに限りませんが、前期も含めて、司会者が遠慮しすぎだなと感じています。一般論として何度も言いますが、主役は司会者です。会を司る者なんだから。司会者が、報告者に報告をさせ、出席者に発言をさせるのです。だから報告作成途中の打ち合わせ時でも、報告者にもっと要求をしていいです。漫画雑誌の鬼編集者のように、容赦なくボツを出していいのです。そうやって、自分が司会をしやすいような報告を作らせましょう。また演習の場においても、自分にとってつまらない展開になってきたら強制的に打ち切って、新しい話題を振ればいいのです。朝生の田原総一朗を見習いましょう。司会者は王様です神様です。
そういう意味では、私も含めて、出席者はもっと「しもべ」としての自覚をもたないといけませんね。どうも船頭が多くて船が山に上っている感がちょっとあります。
というわけで、今回は議論運営の仕方について多くコメントしましたが、私としては大学の授業のあり方についての悪口(?)がききたかったですね。時間がなくて残念です(笑)。
以下、出席者のコメント。