人文総合演習A 第6回の補講
- 斎藤環,『心理学化する社会――癒したいのは「トラウマ」か「脳」か』,河出文庫,2009年
今回は、諸般の事情による仕切り直し回でした。そして最終回。
報告は、「トラウマの科学化」に否定的な著者の議論を受けたうえで、語られる内容としてのトラウマそれ自体ではなく、「トラウマ語り」という行為形式の方を学問的研究の対象とする可能性を追求したものでした。
具体的には、報告者自らが聞き手となって収集した5つの「トラウマ語り」エピソードをトランスクリプトの形で紹介し、そのそれぞれについて、(1)語られる「原因」、(2)語られる「結果」、(3)語ることによる「効果」を特定し、さらにそのうえで、それぞれの特徴を分類していく、というものです。オーソドックスな科学的方法論ですね。データそれ自体は何も教えてくれないが、そこにちょっと手を加えるだけで、突如として雄弁になる、ということがよくわかります。
議論にもなったし、私自身も疑問を感じたのは、語りの効果についての報告者の一般理論の部分です。語りのメディアとしては、(1)他人との口頭コミュニケーション、(2)日記/ブログなどによる特定/不特定多数への発信、(3)歌/アート/書籍などによる不特定多数への発信、といった別があることを指摘しつつ、しかしそのどれもが「他者との共有」という、肯定/否定の彼岸にある中立的効果に一般化できるというわけですが、それはどうかなあ。
おそらく、報告者は、語り手の「思い」を中立的に共有することのできる性格的特性、というか、世渡りの仕方を、比較的無意識的に身につけているのではないでしょうか。だからこそ、報告のネタになるほどの多様性に富んだ事例を収集することができているわけですが、他方でそのせいで、他に様々に可能なはずの語り/語られ関係のあり方が見えにくくなっているのではないか、と。まあこれは私の思いつきですが。
しかしいずれにしても、出発点は自分の直観でしかありえません。直観からスタートし、それをできる限り非直観的な水準にまで展開した上で、他人の前で披露することで、自分の議論がいかに自分の直観になおも支配されているかを指摘される・・・ 研究というのはそうやってしか進んでいかないのであって、そういう意味では正しい一歩の踏み出し方だと思います。
さて今回の司会は何を隠そう私なんですが、それなりにうまいことできたんじゃないかなと思ってます(あくまで、「それなりに」ですが)。心がけたのは、ここは説明不足かなと思ったら、報告の途中でも口をはさんで補足をしてもらうことによって、聞き手の理解がスムーズになるようにすること、それと、質問者には、報告者からの回答に対して、再質問や意見の相違の表明を求めることで、質問しっぱなしにはしない、とかですかね。まあ、下の感想にも書きましたが、それがちゃんとできてたと確信もって言えるほどじゃあないです。