とはいえ(いったい、誰の、どのエントリーとの、どのようなつながりで「とはいえ」になるのか、自分でもよく分かりませんが)、のろのろと、不自由しながらテクストを「読む」という、いまとなっては古くさい教育実践の中からしか得られない快楽というものは確かにあって、昨今の「教育改革」なるものの意義を理解しないではないものの、たまには「到達目標」だとか「授業評価」だとか「PDCAサイクル」などという言葉をすっかり忘れて(最後の言葉は知らない人がいるかも。GP業界の隠語ですね)、テクストの片言隻語の輝きにひたっていたいと思うときもあります。
たとえば、これは文コミの授業ではないのですが、2年生相手のロシア語購読の目下のお題は「アダルトなロシア語」。別名、アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ「犬を連れた奥さん」。
冒頭、主人公の年齢について"Ему не было еще сорока"と書かれていることに軽くショックを受けつつ(ここではあえて訳さないでおきます)、気を取り直して、妻子ある主人公が避暑地ヤルタで「犬を連れた奥さん」とあだ名された女性と出会い、次第に親密さを深めていく過程を読みすすめていくと、こんな文章にぶつかります。
У нее в номере было душно, пахло духами, которые она купила в японском магазине. Гуров, глядя на нее теперь, думал: "Каких только не бывает в жизни встреч!"
Bの試訳(あくまでも試訳なので、あまり追及しないでくださいね)。
彼女の部屋は蒸し暑く、日本雑貨の店で買った香水の匂いがこもっていた。グーロフは、いまあらためて彼女の姿に眼をやりながら考えていた。「人生にはこんな出会いもあるのだ!」
次に示すのは、ネットで見つけた英訳(あくまでもネット上の拾いもので、アップした人の間違いということもあり得ますから、もとのページにはあった書誌はあえて記さずにおきます)。
Her room was stuffy and smelt of some scent she had bought in the Japanese shop. Gurov looked at her, thinking to himself: "How full of strange encounters life is!"
おわかりでしょうか。この英訳からは、この件でもっとも重要な一語が抜けていますよね。原文で"теперь"、なんのことはない、あらゆるロシア語学習者が一月もしないうちに覚える単語で、英語でいえば"now"にあたります。しかし、この一語の脱落を、翻訳にはつきものの単なる迂闊といって許すわけにはいかない。あるいは、語学の教室でよく見られるように、機械的に「グーロフは、いま彼女を見ながら考えた」と訳してしまったのでは台無しになる。ここはなんとしても「いまあらためて」とか「あらためて」でなければならない。ほんの一時間前には気づかなかったことに「いま」気づいた主人公の驚きが、この一語には込められているはずなのです。
その少しあとでは、こんな文章。
Но тут все та же несмелость, угловатость неопытной молодости, неловкое чувство; и было впечатление растерянности, как будто кто вдруг постучал в дверь. Анна Сергеевна, эта "дама с собачкой", к тому, что произошло, отнеслась как-то особенно, очень серьезно, точно к своему падению, - так казалось, и это было странно и некстати.
Bの試訳。
しかし、ここにあるのはあいもかわらぬ臆病さであり、経験の少ない若い女にありがちなぎこちなさ、気まずい思いだった。まるで誰かが急にドアをノックしたときのような、途方に暮れた感じ。アンナ・セルゲーエヴナ、この「犬を連れた奥さん」は、起こってしまったことを何かおかしなくらいに真面目に考えていて、まるで私は堕落したとでも言わんばかりだった。――そんなふうに見えたのだが、それは奇妙だったし、場違いだった。
英訳。
But here the timidity and awkwardness of youth and inexperience were still apparent; and there was a feeling of embarrassment in the atmosphere, as if someone had just knocked at the door. Anna Sergeyevna, "the lady with the dog," seemed to regard the affair as something very special, very serious, as if she had become a fallen woman, an attitude he found odd and disconcerting.
ポイントになるのは、"все та же"(「あいもかわらぬ」)、英訳なら"still"の部分でしょう。野暮を承知で補えば、「あんなことがあったのに、その前後で変わらぬぎこちなさ」といったところか。「まるで誰かが急にドアをノックしたときのような」――普段から教室では「分析だ、理論だ」と口をすっぱくして言っているBですが、こんな表現に出会うと、ふと、面倒な理屈などいっさい放棄してしまいたくなるような誘惑に駆られます(ダメじゃん)。けれども度外れの純情さを前にした主人公の驚きは、百戦錬磨のプレイボーイが感じるかすかな苛立ちと隣り合っている。客観的であるべき地の文のなかに、主人公の内面の声が混じりこんできます――たかがこれしきのことなのに、ずいぶんな落ち込みようじゃないか。大いに楽しまなくちゃいけないのに――英訳は原文のダッシュの「間(ま)」を取り去り、さらに"he found"を補って感情の主体を明示してしまっているために、地の文の客観性と主人公の主観性が交差する原文の微妙なニュアンスを台無しにしてしまっているような気がします。
そんな主人公の当惑を予告していたかのような、数頁前の一文。
原文:"Что-то в ней есть жалкое все-таки"
試訳:「それにしても、あの女にはなにか憐れをさそうところがある」
英訳:"And yet there's something pathetic about her"
"pathetic"という英訳は、少なくとも(あまり当てにならない)Bの語感からすると「ありえねー」のですが、それはさておき、じゃあ"жалкое"をどう訳すかといわれると途方にくれてしまいます。薄給を顧みず十数万もはたいて買った全17巻の重い重い辞書を引いてみても、やはり答えは得られない。とりあえずこんなふうにでも訳しておくしかないけれども、どんなふうに訳してみたところで、それではすくえない含意が残るような、そんな一語。
文コミにはチェーホフがご専門のS先生がいらっしゃいますので、恥ずかしいかぎりですが、いやあ、Bにとっては、チェーホフはやはり鬼門ですね。こんな文章を前にして、どんなふうに論じたらいいのか分からない。ばかみたいに、教室で「いいなあ~」と嘆息して、学生のみなさんを当惑させるばかりです。文学的な、あまりにも文学的な。こんなことでは、最近話題になったロシア文学者を嗤えないですね。