九七式大型飛行艇
サンダカンのおサキさんだの,忍ぶ川のお志乃さんだの,人の胸をこんなにも打って止まない女性の映像は,後がしめっぽくなっていけない。しっとりとした人生の重みは,時に息苦しい。死んでゆくゴジラより,暴れまくるゴジラだけを論じていたいとも思う。そんな時は,やはり,雄壮な九七式大型飛行艇の機体(『南海の花束』)や,九六式3連装25ミリ対空機銃の迫力(『男たちの大和/YAMATO』)で,景気よくやるに限る。
モスラ(成虫)は,戦前,帝国委任統治領の南洋島内航空路を羽ばたいていた九七式大型飛行艇(九七大艇)の残映,ないしは,読み替えられた映像であることに私はほぼ確信を持っている。これは,戦前からの円谷の映像を見てゆけば,謂わばそれを視覚的に体感できる,と言ってもよい。中村真一郎・福永武彦・堀田善衛の原作に込められた文学的な意味も大事だが,それよりも,映画製作者がどのように描いているのか,モスラ飛翔の映像そのものを見て,実感すべきだろう,ということでもある。
『モスラの精神史』が,往年のゴジラ映画ファンから支持を得られないとしたら,それは,まさにこの点にある。この著者は,『赤道を越えて』に言及しているが,こんな映画は存在しない。おおかた,『円谷英二の映像世界』に誤って記載されている題名を写しただけであろう。実際に見たのなら,『赤道越えて』と書くはずである。また,円谷の飛行機好きにも触れているが,『南海の花束』,『雷撃隊出動』など,戦前の円谷映画を実際に見ていれば,宮崎駿の飛行艇なんぞよりも前に,円谷の描いた九七大艇を特定できたはずである。『ハワイ・マレー沖海戦』のことを,「無視されがちだが」とも書いているが,戦前の国策映画を無視しがちなのは著者の方である。『モスラ』の爆撃機も見逃している。円谷の飛行機が,本当は見えていないのであろう。だから,「精神史」でしかないのだ。
また,「モスラの歌」がインドネシア語で解釈できることなども,少なくともゴジラ映画ファンの間では,周知の事実である。だったら,インドネシア語でどういう意味なのか,和訳すら紹介していない『モスラの精神史』は,伝聞を書いたに過ぎないように見える。日劇についての記述も,有名な某サイトの記事を拝借したものであるのは明々白々だが,参考文献での記載がなぜだか省略されている。
実は,著者の小野俊太郎さんを私は実際に存じ上げていたし,嘗て,文学談議を交わさせてもらったこともあるのだが(ご本人は私のことをご記憶ではないと思うが),敬愛すべき,とてもいい人であった。篠田一士,小池滋,鈴木建三,若き高山宏ら,狭い「文学」の範疇をその時既に越えていたアカデミック・アトモスフェアの中で薫陶を受けてきたであろう人でもあり,モスラ論を著すに至ったとしても不思議ではない。時を同じくして,モスラ論を書いていたなんて,一足先に出されたのには苦労させられたが,嬉しくも思った。
しかし,ゴジラ映画・モスラ映画の肝心要は,何よりも先ず「映像」にあるのであって,ましてや,見なかった映画からは「精神」を引き出すことなどできまい。お陰で,私も,拙稿「南洋群島とインファント島―帝国日本の南洋航空路とモスラの映像詩学―」を出した甲斐があった。ポテチでも食べながら,寝っ転がって読んでいただければ,幸いである。飛行機映像に対する論文の強度は,悪いが,私の方が上である(と自慢してみる)。
※ 本記事と11月4日の記事を含めて,後日,小野さんからはたいへん丁寧なお便りをいただいたことを附記しておきたい。詳細はここでは省くが,私が読んだ第1刷の編集ミスは,第2刷では訂正されているとのこと。学部学生時代から,何と,二十数年ぶりのモスラが取り持つ「再会」であった。小野さんとモスラに,感謝。