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2007年11月 アーカイブ

2007年11月 1日

九七式大型飛行艇


サンダカンのおサキさんだの,忍ぶ川のお志乃さんだの,人の胸をこんなにも打って止まない女性の映像は,後がしめっぽくなっていけない。しっとりとした人生の重みは,時に息苦しい。死んでゆくゴジラより,暴れまくるゴジラだけを論じていたいとも思う。そんな時は,やはり,雄壮な九七式大型飛行艇の機体(『南海の花束』)や,九六式3連装25ミリ対空機銃の迫力(『男たちの大和/YAMATO』)で,景気よくやるに限る。

モスラ(成虫)は,戦前,帝国委任統治領の南洋島内航空路を羽ばたいていた九七式大型飛行艇(九七大艇)の残映,ないしは,読み替えられた映像であることに私はほぼ確信を持っている。これは,戦前からの円谷の映像を見てゆけば,謂わばそれを視覚的に体感できる,と言ってもよい。中村真一郎・福永武彦・堀田善衛の原作に込められた文学的な意味も大事だが,それよりも,映画製作者がどのように描いているのか,モスラ飛翔の映像そのものを見て,実感すべきだろう,ということでもある。

『モスラの精神史』が,往年のゴジラ映画ファンから支持を得られないとしたら,それは,まさにこの点にある。この著者は,『赤道を越えて』に言及しているが,こんな映画は存在しない。おおかた,『円谷英二の映像世界』に誤って記載されている題名を写しただけであろう。実際に見たのなら,『赤道越えて』と書くはずである。また,円谷の飛行機好きにも触れているが,『南海の花束』,『雷撃隊出動』など,戦前の円谷映画を実際に見ていれば,宮崎駿の飛行艇なんぞよりも前に,円谷の描いた九七大艇を特定できたはずである。『ハワイ・マレー沖海戦』のことを,「無視されがちだが」とも書いているが,戦前の国策映画を無視しがちなのは著者の方である。『モスラ』の爆撃機も見逃している。円谷の飛行機が,本当は見えていないのであろう。だから,「精神史」でしかないのだ。

また,「モスラの歌」がインドネシア語で解釈できることなども,少なくともゴジラ映画ファンの間では,周知の事実である。だったら,インドネシア語でどういう意味なのか,和訳すら紹介していない『モスラの精神史』は,伝聞を書いたに過ぎないように見える。日劇についての記述も,有名な某サイトの記事を拝借したものであるのは明々白々だが,参考文献での記載がなぜだか省略されている。

実は,著者の小野俊太郎さんを私は実際に存じ上げていたし,嘗て,文学談議を交わさせてもらったこともあるのだが(ご本人は私のことをご記憶ではないと思うが),敬愛すべき,とてもいい人であった。篠田一士,小池滋,鈴木建三,若き高山宏ら,狭い「文学」の範疇をその時既に越えていたアカデミック・アトモスフェアの中で薫陶を受けてきたであろう人でもあり,モスラ論を著すに至ったとしても不思議ではない。時を同じくして,モスラ論を書いていたなんて,一足先に出されたのには苦労させられたが,嬉しくも思った。

しかし,ゴジラ映画・モスラ映画の肝心要は,何よりも先ず「映像」にあるのであって,ましてや,見なかった映画からは「精神」を引き出すことなどできまい。お陰で,私も,拙稿「南洋群島とインファント島―帝国日本の南洋航空路とモスラの映像詩学―」を出した甲斐があった。ポテチでも食べながら,寝っ転がって読んでいただければ,幸いである。飛行機映像に対する論文の強度は,悪いが,私の方が上である(と自慢してみる)。


※ 本記事と11月4日の記事を含めて,後日,小野さんからはたいへん丁寧なお便りをいただいたことを附記しておきたい。詳細はここでは省くが,私が読んだ第1刷の編集ミスは,第2刷では訂正されているとのこと。学部学生時代から,何と,二十数年ぶりのモスラが取り持つ「再会」であった。小野さんとモスラに,感謝。


2007年11月 3日

11月3日,ゴジラ,日劇に現わる ― ゴジラの誕生日


今日,日本の銀幕の大スターが誕生した。1954年11月3日,有楽町の日劇で,『ゴジラ』が公開されたのだ。それから50年,『ゴジラ FINAL WARS』が,2004年12月4日に公開されるまで,全28作の歴史を作ってきた。

大戸島に初めて姿を現わしたゴジラは,日本本土,品川に初上陸する。東海道線上り列車を破壊し,一度は海に姿を消したが,芝浦に再上陸。銀座松坂屋を壊し,服部時計店(現和光,銀座4丁目)を壊し,晴海通りを数寄屋橋へと向かう。外堀通りがまだお堀であった時で,数寄屋橋はその名の通り橋であった。ゴジラが,数寄屋橋を渡る。お堀の水が,波打つ。そして,日劇(有楽町2丁目)の前。初日挨拶よろしく,しっぽで日劇の建物をちょこっと壊して,熱線放射。その時のシーンで,右側に見えるのが,日劇。その後,国会議事堂,テレビ塔を廻って,隅田川の最下流,勝鬨橋に至る。

日劇は,1933年に開場され,1981年に最終公演を迎えるまで,数々の南洋憧憬をかき立てる日劇ダンシング・チームの「舞台」でもあり,日本の怪獣を出現させてきた「映画館」でもあった。53年前の11月3日,スクリーンで初めてゴジラが前を通る日劇で,そのスクリーンを見ていた劇場の臨場感とは,一体どれほどのものであっただろうか。残念ながら,私はまだ生まれていなかった。

初代ゴジラ以来,再びゴジラが日劇前を通るのは,30年後の復活版『ゴジラ』(1984年)である。既に往年の建物はなく,有楽町マリオン(有楽町センタービル)となっている。数寄屋橋は,橋ではなく地名となり,上には東京高速道路(首都高速ではない)も走るようになった時代だ。懐かしの50年代も,そして,私が生きた懐かしい60年代も,今はもうスクリーンでしか見られない。しかし,小学生だった頃,2年間にわたり毎月,宝塚大劇場(宝塚市)で,「舞台」と「映画館」の複合的シネマ体験を持てたことは,極めて貴重なことだったと思っている。2005年1月14日,試写会を含めて私は7回見た『ゴジラ FINAL WARS』の新潟での最終上映日,この日,劇場スクリーンからゴジラは去った。

ハッピー・バースデー,Dear ゴジラ。2013年には,約束通り,また会おう。ゴジラは,日本の銀幕に必ずや帰還する大スターなのだ。


2007年11月 4日

平成モスラ三部作


(削除)


2007年11月 7日

愉しい無責任

ここしばらく、ゴジラとモスラの襲撃をうけて鳴りをひそめていましたが、大丈夫、心配無用です。文コミではまだ人間も生きています。

他の先生方のことはよく知りませんから、一般化は慎まなければなりませんが、文コミの演習では、担当教員が、自分では答えが分からないし、学生にとってもそうそう答えが出るようなものではないだろうという問いを投げかけることがあります。自分でも分からない問いですよ。当然、問いかけられた学生は絶句する。教員のほうはというと、なぜか楽しげに「う~ん、分からないですね~」と言って、自分がなぜこの問いに答えられないかについて、ひとしきりしゃべる。で、それで終わり。オチは? 無し。問いはそのまま放置。授業が終わったあと学生が難しかったと文句を言ってきたりしますが、それでも無視。だって、自分でも答えが分からないのですから。

しかし、それが実に楽しい。

現実にはなかなかそうもいかないことも多いですが、大学で、なにより愉快なのは、問いに答えがなくてもよいことです。面白い問いが提起できればよい。はっとさせられるような問い――関連していろいろなことを考えさせるような問い、なにか曖昧な欲望を掻き立てるような問い――そういう問いを議論のなかで練り上げることができればよいのです。会議ではそうはいかない。会議では、落とし所を探ること、とりあえずの合意を形成すること、無理そうだったらすぐに諦めて、余計なエネルギーを消耗しないように、その場は早く終わらせること、が重要になります。演習では、逆に、全員の合意をできるだけ遅らせること、一致しているかに見える意見のあいだに微妙な差異を見つけ出すこと、余計な一言を発して議論を混乱させることが重要になります。「たしかにそうなんだけれど、でも、○○ということを考慮に入れると、××であるということになるから、その議論は成立しなくなるよね~、えへへっ」といった感じでしょうか。議論における、そういう品の良くない態度を、私はいま演習で読んでいるクレーリーの訳者から学びましたが、いまふうに言うと、そういうのはドSというのでしょうか、それともドMなのでしょうか。

2007年11月10日

ゴジラと林檎のイマジナティヴ・ジオグラフィー


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福岡タワー (椰子茂る百道浜から望む)


福岡タワーに行ってきた。福岡市早良区百道浜2丁目,平成元年(1989年)に建てられた全高234mの日本一の海浜タワーである。地上123mの展望室は,博多湾や市街地を一望できる場所にある。「百道浜」「室見川」という地名は,実は,B先生の愛して止まない椎名林檎の「正しい街」(1999年)に歌われている場所でもあり,入門の授業で私が取り上げた「インファント島」という架空の島の表象を説明するために,サイードの言う imaginative geography(心象地理と一応訳されている)という概念を引き合いに出して,B先生がまとめをされたものだ。

奇しくもその授業の翌日,私は福岡へ飛び,「シーサイドももち」にある福岡タワーに行くことになっていた。それは,『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)の最終決戦地でもあったし,キングギドラが福岡市中心部を破壊する(『ゴジラvsキングギドラ』,1991年)空中からの視点を体感したかったからでもある。ゴジラ映画のイマジナティヴ・ジオグラフィーを目的とした今回の旅は(本当は,文科省特色GPフォーラム担当のための出張のついでだが),思わぬところで,椎名林檎の歌詞との接点があった。

地下鉄空港線の「西新」で降りて,徒歩で北に向かう。西南学院大学や元寇防塁跡のある界隈だ。実は,ここまでが,嘗ての海浜地区で,現在の西新通りが海岸線に相当した。昭和62年(1987年)発行の帝国書院の地図を見ると,福岡タワーは当然のこと,「シーサイドももち」そのものがない。その後,埋め立てが進み,現在の「百道浜」は完全な人工浜なのである。旅行案内書『るるぶ楽楽』には「白砂の人工ビーチ」と謳ってあり,九州は勿論,韓国からも恋人たちが大挙して押し寄せる有名なデート・スポットになっている。首都圏なら,さながら「お台場」「レインボーブリッジ」といった風情だ。百道浜は,室見川と樋井川の間の海岸を指し,埋め立て前の旧「百道浜」(西新~百道の旧海岸)と埋め立て後の新「百道浜」(シーサイドももちの町名)が存在する。


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百道浜(手前)と室見川河口 (海に見えるのは能古島)


「百道浜も君も室見川も無い」という「正しい街」の歌詞は,旧「百道浜」が失われた事実を反映したものでないのなら,やはり,新「百道浜」すなわち「シーサイドももち」の現実の風景がまずは広がっているはずであり,実際の記憶や作られた虚構はそれに附随している。歌詞の「此の街」は福岡市街であり,「空港」(駅ではない)という発想も,市街地に隣接し,市街地上空を飛行空域とする福岡空港の特性なくしてはあり得ない。百道浜からも,博多湾を南下して着陸進入する航空機が見通せるのである。


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百道浜の東側 福岡空港への進入ルート (右手の白い建物はJALリゾートシーホークホテル福岡)


この歌詞について,百道浜や室見川なんて誰も知らないだろう,という前提に基づいて解釈を展開している一例が,他ならぬ我らのB先生なのであるが,新潟や東京での受容のされ方という点では,確かに,福岡市に暮らした椎名林檎の私的な「現実」が逆に薄まり,抽象度の高い恋歌と化しているように見える(またはそう計算して見せている)とも言える。そして,「百道浜」「室見川」に,「神田川」や「隅田川」の幻影を勝手に重ねてしまっているのかも知れない。しかし,例えば「お台場もレインボーブリッジも」と歌うかわりに「隅田川も勝鬨橋(かちどきばし)も」と歌えば,喚起される映像はセピア色となり,エレジーの色調を帯びる可能性が高いように,「シーサイドももちも福岡タワーも」とは言わず「百道浜も室見川も」と表現した理由は,誰も知らないだろうから,という表象効果だけを狙ったものでは恐らくない。隅田川や勝鬨橋なんて誰も知らないだろうと言って福岡の大学で授業が行なわれていたとしたら,東京の人は嗤うであろう。


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百道浜(シーサイドももち海浜公園)の中央部 「マリゾン」(結婚式用教会,高速船発着場,レストランなど)が見える


「百道浜」は,紛れもなく,西日本の現代の恋人たちのデート・スポットであり,博多湾をめぐるお洒落な高速船の発着場なのである。「空想の地理学」は,「歴史的事実としての地理学」との緊張関係があってこそ,想像力を空高く飛翔させることができる。私が,南洋群島とインファント島の関係にこだわる理由もそこにある。

で,その同じ「百道浜」で,ゴジラとスペースゴジラ,それに,キングギドラも暴れまくった訳だが,一体どんな理由があったのだろうか。それは,恐らく,福岡タワーの「高さ」と8,000枚の「ハーフミラー」にある。デート・スポットとしての「百道浜」ではなく,建造物としての「福岡タワー」の方が重要なのだ。これは,今度,B先生に福岡へ行っていただいて考えてもらおうかな(笑)。


2007年11月11日

精神分析という謎

文コミにいれば、必ずや、一度といわず、何度も何度も繰り返し耳にすることになる名前の一つが、精神分析の生みの親であるフロイトです。たとえ読んだことがなくても名前だけは多くの方がご存知でしょうし、ある意味では20世紀の人文科学の方向を決定づけてしまったような人ですから、私もことあるごとに言及しているのですが、しかし、考えてみれば、いわゆる思想家のなかで、こんなに奇妙な人もいないかもしれません。

三角形の内角の和が180度であるということを教えるのはそれが疑問の余地なく正しいと信じているからですし、ベンサムが考案しフーコーが分析したパノプティコンと呼ばれる監視システムに言及するのは、それが「近代」と呼ばれる時代の分析に有効であると信じているからにほかなりません。あたりまえの話で、人はそれが正しいと思うから教えるわけです。ところが、フロイトの場合にはそうとは言い切れない。オイディプス・コンプレクスと呼ばれる無意識のドラマをはたして教師は信じているでしょうか? あらゆる夢は幼年期の無意識的欲望の歪められた充足であるというフロイトの説は、本当にすべての夢を説明することができるのでしょうか? 「パパ―ママ―ボク」のオイディプス的三角形など馬鹿げた幻想にすぎないと、ドゥルーズやフーコーやバフチンといった権威は言っていなかったでしょうか? フロイトが普遍的な「真理」だなんて、本当はこれっぽっちも思っていないのではないでしょうか?

にもかかわらず、近代の芸術や文化について語るとき、フロイトを省略することはできない、フロイトは間違っていたが、その間違いについて語らないわけにはいかない――ほぼこんなふうに考えている人文科学の研究者が、どうやら確実に一定数存在しているらしいのです。別に正しいとは思っていないが、避けることもできない神話、といったところでしょうか。だから、こんなものには初めから近づかないというのが正しい態度なのかもしれません。ならば、『夢判断』やら『精神分析入門』やらをつい読んでしまった者はどうすればよいのか――これは、間違いなく、文コミの大きなテーマの一つだと思います。

百道浜と歌舞伎町

、、、という書き込みをした直後に、I先生の力のこもった書き込みを発見して、ちょっとびっくり。I先生の得意げな顔が眼に浮かぶようですが、う~ん、困った。これはちょっと考えてみなければなりますまい。とはいえ、百道浜でゴジラが暴れまわった理由というよりは、記号のリアルという問題であり、それは例えば「百道浜」と「歌舞伎町」の差異とも言い換えられるであろう問題ですが。精神分析の奇妙なリアリティとも、きっと無関係ではないような予感が。

2007年11月12日

シネ・ウインドに文コミ生登場!

11月10日の土曜日、新潟市内の映画館シネ・ウインドで開催された
トークイベント「佐藤真が遺したもの」に、文コミ生四人が出演しました。

佐藤真はドキュメンタリー映画作家です。
対象を鋭利に切り取るだけでなく、対象とともに考える姿勢の映画作家です。
新潟県では、新潟水俣病をテーマにした『阿賀に生きる』(1992)と
新潟県出身の写真家牛腸茂雄をテーマにした『SELF AND OTHERS』(2000)
を撮っています。

しかし、大変な残念なことに、今年他界されました。
今年は、佐藤監督だけでなく、エドワード・ヤン、ミケランジェロ・アントニオーニとたくさんの映画監督が亡くなっており、寂しいの一言に尽きますが、
かれらの映画作品はわたしたちに遺されています。
作品を上映し、観て語ることが、遺された者の使命です。

今回のトークイベントは、若い世代と佐藤作品の出会いの場でした。
文コミ生四人が『阿賀に生きる』を観て、
ドキュメンタリー映画とはなにか、映画を撮るとはどういうことかを討論しました。
普段はあまり口にしないだろう意見を、他人に伝える貴重な機会だったと思います。
今後もこうした機会があれば、挑戦していってほしいです。

佐藤真監督作品は現在シネ・ウインドで上映中です。
ぜひ劇場に足をお運びください。
詳細は下記をご覧下さい。

http://www.wingz.co.jp/cinewind/

2007年11月20日

卒業生にお世話になってます

 一つ前の石田先生のかきこみのタイトル、「文コミ生登場」を「文コミなまとうじょう」と読んでしまった齋藤です。いや、久しぶりの登場となってしまいました。石田先生は、佐藤真監督のことを書いておられて、同じ頃に同じ所で学んでいた人なので、本当に、ご冥福をお祈りしたいと思いました。

 さて、今年度、「情報文化実習E」を担当していまして、これは昨年まで番場先生が、シンポジウムをやっておられた実習の後釜の科目です。何をやるか迷いまして、雑誌を作ることにしました。学生時代(院生時代も含め)、同人誌を友人と作ったり(そういう時代ってありましたよね? 例えば、そうですね、佐々木先生!)、ちょっとしたサークルのミニコミ誌みたいなのの編集長をやって取材とか行ったこともあったので、できるかと思ったので。

 第1回目の時、参加する学生の皆さんに記事にしたいことを尋ねたところ、お店の紹介的なものが多かったので、「もっと堅いのにしましょう!」と、昨年までの番場先生のシンポジウムを思い出しつつ、呼びかけたら、ここだけの話ですが(って、実習参加者も読むんでしょうが)、番場先生が内容を聞いて、「随分堅い雑誌ですね」と言うような内容になりました。うん、今年の2年生は、「打たれ強い」というか、ハードな内容でも結構付いてきてくれるような気がしています。どうかな?

 ところで、タイトルの「卒業生にお世話になってます」ですが、印刷所に相談する時に、卒業生で就職している人に頼んだり、情報誌に勤めている人に、「取材の時にどんなこと気をつけている?」とメールできいたりと、色々アドバイスをもらっています。先日も、1枚の紙にどうやって16ページ分の原稿を割り付けるのか、レクチャーしてもらいました。さあ、これを読んでいる卒業生の皆さん、私にアドバイスしてくれることがあれば、是非。お待ちしています。

2年生向け文コミガイダンスのお知らせ

11月28日(水)の学務による2年生向け履修コースガイダンス(16:25~人社系棟A19)の後、文コミでも独自のコースガイダンスをおこないます。

文コミ・コースガイダンス
11月28日(水)学務によるガイダンスの終了後(17:15くらい?)
人社系棟A121

文コミの学習や就職状況の説明、演習紹介などを予定していますので、文コミへの進学を考えている2年生は必ず出席してください。情報メディアにするか文コミにするか迷っているという人も、ぜひ。

履修コース委員

2007年11月23日

写真は閃光するか?

文コミには写真に関心がある学生も多く、カメラの実践に関しては教員をはるかにしのぐ学生も少なくありません。でも、考えてみると、写真ほど難解なメディアもない。問題は写真の「時間 temporality」に関わります。写真が表現する時間とは、いったいどのようなものなのでしょう。

写真が表現する時間に関して、いささか乱暴に、いままで概ね二つの説があったとしてみましょう。一方の代表は、フランスの写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)の「決定的瞬間(The Decisive Moment)」というもの。日常生活における、ある生き生きした瞬間を、写真は切り取り、永遠化することができる。そのとき、「決定的瞬間」は、写真のなかで、歴史的時間の推移を超えて生き残る。

もう一方は、同じくフランスの記号論者ロラン・バルト(Roland Barthes)と椎名林檎に代表してもらうことにしましょう。写真に写っているのは、つねに、すでにもはや取り返しのつかないものになってしまった過去でしかない。現在は写真になるやいなや過去になり、ノスタルジーの対象になってしまう。写真が語るのは「それは―かつて―あった」という物語であり(バルト)、いったん写真になってしまえば、あたしはすぐに古くなってしまう(椎名林檎)という嘆きでしかない。

シャッターが押され、閃光が走るとき、そこではなにが起こっているのでしょう。

11月21日に発売されたばかりのDVDを見ながら考えたことは、当たり前なことのようでありながら、写真は舞踏する身体ではないということでした。写真において、撮る者と撮られる者はけっして同じ時間を共有することはない。両者は厳粛な距離によって隔てられており、この距離は、日常生活においてたとえ両者がどれほど親しい間柄であろうと、けっして埋められることはない。写真というメディアは、持続としてある時間のなかにひとつの裂開(dehiscence)を生じさせる――そんなふうに表現できるのかもしれません。

だから、二人の人間が時間を共有し、シンクロし、ともに一つの舞踏を創り出そうとするなら、人はまず写真機を捨てなければならない。写真は閃光しない。写真機は要らないから、まずは自分の五感を全開にして、それを互いに持ちよらなければならない。五感を全開にして眼の前の相手に閃くこと――でも、私たちにとって、これほど困難なことがあるでしょうか。

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