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三谷武司

2009年7月31日

人文総合演習A 第6回の補講


今回は、諸般の事情による仕切り直し回でした。そして最終回。

報告は、「トラウマの科学化」に否定的な著者の議論を受けたうえで、語られる内容としてのトラウマそれ自体ではなく、「トラウマ語り」という行為形式の方を学問的研究の対象とする可能性を追求したものでした。

具体的には、報告者自らが聞き手となって収集した5つの「トラウマ語り」エピソードをトランスクリプトの形で紹介し、そのそれぞれについて、(1)語られる「原因」、(2)語られる「結果」、(3)語ることによる「効果」を特定し、さらにそのうえで、それぞれの特徴を分類していく、というものです。オーソドックスな科学的方法論ですね。データそれ自体は何も教えてくれないが、そこにちょっと手を加えるだけで、突如として雄弁になる、ということがよくわかります。

議論にもなったし、私自身も疑問を感じたのは、語りの効果についての報告者の一般理論の部分です。語りのメディアとしては、(1)他人との口頭コミュニケーション、(2)日記/ブログなどによる特定/不特定多数への発信、(3)歌/アート/書籍などによる不特定多数への発信、といった別があることを指摘しつつ、しかしそのどれもが「他者との共有」という、肯定/否定の彼岸にある中立的効果に一般化できるというわけですが、それはどうかなあ。

おそらく、報告者は、語り手の「思い」を中立的に共有することのできる性格的特性、というか、世渡りの仕方を、比較的無意識的に身につけているのではないでしょうか。だからこそ、報告のネタになるほどの多様性に富んだ事例を収集することができているわけですが、他方でそのせいで、他に様々に可能なはずの語り/語られ関係のあり方が見えにくくなっているのではないか、と。まあこれは私の思いつきですが。

しかしいずれにしても、出発点は自分の直観でしかありえません。直観からスタートし、それをできる限り非直観的な水準にまで展開した上で、他人の前で披露することで、自分の議論がいかに自分の直観になおも支配されているかを指摘される・・・ 研究というのはそうやってしか進んでいかないのであって、そういう意味では正しい一歩の踏み出し方だと思います。

さて今回の司会は何を隠そう私なんですが、それなりにうまいことできたんじゃないかなと思ってます(あくまで、「それなりに」ですが)。心がけたのは、ここは説明不足かなと思ったら、報告の途中でも口をはさんで補足をしてもらうことによって、聞き手の理解がスムーズになるようにすること、それと、質問者には、報告者からの回答に対して、再質問や意見の相違の表明を求めることで、質問しっぱなしにはしない、とかですかね。まあ、下の感想にも書きましたが、それがちゃんとできてたと確信もって言えるほどじゃあないです。

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2009年7月30日

人文総合演習A 第15回


憲法って、小学校から学んでいる割には、その基本的な性質すら、きちんと理解されていることは少ないわけです。立法権力が国民を縛る法律をつくり、その枠内で行政権力が国民に対して権力を行使する。そういう意味で、民主主義というのが国民を拘束するものであるのに対して、憲法は民主主義的に決定され行使される権力作用を拘束するという関係にあること。またそうやって権力を縛る憲法が、単なる書かれた決まりにすぎないのではなく、憲法の文面それ自体よりも大切なもの(人権保障)を実現することを目的とするものであること(立憲主義)。

報告では、そういった基本点をおさえつつ、9条を取り上げて、それが平和主義を謳いながらも、戦争の不在という消極的な定式による国際平和にすぎず、国内の平和を保障するものになっていないことが指摘されました。

これはおもしろい問題提起なんですね。つまり、戦争というのは「国権の発動」なんで、その放棄や武力保持の禁止は、国家権力を縛るという憲法のあり方に合致するわけです。他方で、じゃあ国内の平和を保障しようと思ったら、犯罪を厳しく取り締まるとか、駄目な人間を作らないように、また「○○心」をもった人間を育てるために思想教育を強めるとか、基本的には国家権力による国民の自由の制約の方向に行くわけです。これはちょっと憲法っぽくない。そうしたことを立憲主義の枠内でどう処理すればいいのかというのは、なかなか考えどころだったと思うのですが、提起だけで終わったのは残念でしたね。

報告者には打ち合わせのときから言っていたんですが、報告を作成する際には「粘り強さ」が大事。一つの問題提起から、論理的に導かれる様々な可能性、他の条件を追加することによってさらに派生する様々な可能性、こういったものを一つ一つ検討してつぶしていく粘り強さです。

直観は大切なんですが、直観というのは要するに様々に可能な論理経路群の中の一つにすぎないわけで、他の人も共有しているとは限りませんから、直観だけで進められると(゚д゚)ポカーンてことになりかねません。出発点は直観でいいので、そこから思考の力によって論理的分析を行い、他の人の直観であるかもしれない経路にも触れつつ、そういった可能性のなかでなぜ自分の立場が正しいのかを説得的に示す。こういった議論が粘り強い議論です。報告者は後期がんばると言っているので、後期はそれに期待しましょう。

司会者は、単位にもならないのに司会を買って出てくれてありがたかったです。話題設定等、場を方法論的に支配し、かつたとえば発言者が偏らないように、といった配慮も感じられました。

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2009年7月23日

人文総合演習A 第14回


先週に引き続いて体調っていうか頭の調子が思わしくないんですよね。するとどうなるかっていうと、教員としての立場を維持するための緊張感がなくなって、超然としていられなくなるわけです。まあ、所詮思いつきでしゃべってるだけなんで、基本的には穴だらけだと思いますので、「先生のお言葉」的にはとらないでくださいね。あとまあ、逆に言うと、議論に参加しないではいられないくらい、テーマが面白いということでもあるんですけどね。

さて今回の報告者は、以前自由について報告した人で、そこでは「自由を認識するためには他者が必要なのであり、その他者とは自己と違いのある存在である」と主張したわけですが、それを受けて、今回はそこで検討が不十分であった「他者」について考察すると、そういうシリーズものになっています。こういうのはいいですね。大学の授業って、表面的にはバラバラで、だけど水面下では(担当教員が気付かないところで)相互に連関していたりするので、自分で学期とか年度のテーマを決めて、自分の関心に合致した地下茎を見つけ出すとかね。これはもう、そうしないときと較べて10倍は有意義でしょう。

内容としては、現代人(=オタク)が他者性のない他者を求めるという著者の見解に反して、他者による「他者性のない」反応によって自己が肯定的感覚を得られるのは、まさにその相手が他者性をもっているからである、とまあ私なりにパラフレーズすればそういう議論でした。他者的な他者だからこそ、その人が珍しく他者的でない反応をしたら嬉しい、みたいな感じですよね。ツンデレ的というか(笑)。

自制を失っている(笑)私がつっこんだのは、そういうときの他者の他者性というのは、どの水準での自己との差異によって規定されるものなのか、ということです。根っこから幹から枝葉まで全然違う、ということが他者らしさだとしたら、そんな人と、ある瞬間に見解が一致したところで、それはただの偶然であり、自己が求める肯定感は得られないんじゃないの、と。

ツンデレの話は、いま書きながら思いついたのですが、そのまま議論を続けてみると、普段ツンツンなのが、ある一瞬デレっとしたときに嬉しいとしたら、それは、普段のツンツン(=差異性)が仮象(Schein)であることが見え見えで、デレこそが本質、という基本認識があるからではないでしょうか。えーと、知らんけど(笑)。

まあ、ともかく、面白い議論なわけで、報告者のアプローチも、それがどこまで持ちこたえられるかが気になる、という点でまだまだ修正を続けていってほしいところです。そのためには、他者であるための条件規定、自己が得る肯定感の内実、他者が自己にとって重要であるための条件規定、自他間の差異の水準分け、水準による差異の重要度や意味の違い、などなどについて、より詳細な議論を組み立てることです。もちろん、先行研究を勉強することも大事ですが、勉強だけしててもダメです。「本書を理解できるのは、本書に書いた思想を、自分で考えたことのある人だけだ」ってウィトゲンシュタイン先生も言ってますしね!


以下、出席者のコメント。

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2009年7月16日

人文総合演習A 第13回


鼻がつまったりすると、わかるんだ。今まで呼吸を、していたこと。――はい、えーと、というわけで、鼻はつまってないんだけど、熱が出て、ちょっと教員が朦朧としている回でした。朦朧としていると、周りへの気遣いができなくなるんですよね。なので、直観的に正しいと思ったことと論理だけの、すごく簡単なことを口走ってしまうという弊害が出てしまいます。逆に言うと、いつもは正解は求めず、周りへの思考喚起的な発言をしようと試みているわけですがー。

さて、今回の報告者は、いまどき! そしてこのネタなのに! 自宅にネットを引いていない貴重な人材でした(笑)。もちろん、ネット利用体験もかなり少ない。そうなってくると、本書を読んで、また報告の準備をする中で、自分がなんとなく知っているものを言語的に明晰な言説知識(discursive knowledge)にする、ってことはちょっとできない(なんとなくも知らないわけだから)。そういうときどうするか。

報告者が選んだのは、自分が比較的馴染んだネタと、本書から得られる、自分にとって比較的疎遠な知識を比較し、その比較の参照点として要請される抽象的概念を明確にする、という道でした。つまり、「議論」という抽象的観点から、その一つの具体化であるネット上の議論と、またもう一つの具体化であるこの演習という場での議論とを比較し、そもそも議論とはなんなのか、良い議論とはなんなのか、について考察を深めていくわけです。

その際には、対面であるかないか、匿名であるかないか、時空間の共有があるかないか、主題選択の自由度がどの程度あるか、といった、コミュニケイション一般の水準での種類の違いをどう捉えるのか、そして、議論という特殊なコミュニケイションにとってそれらの違いがどんな意義を持つのか、議論というコミュニケイションに参加することが、参加者各自にとってどんな意義を持つのか、といったことが問題になってくるでしょう。

朦朧としながら私が言ったのは、議論というのは、言葉を用いたコミュニケイションによって到達可能であるような正解が存在すると信じる人たちの間の、その正解を求める努力のことだ、みたいな感じだったと思うのですが、朦朧としていたのであんまり覚えていません。しかしまあ、だからこそ、(たかだか共同の意思決定を目標とするだけの)「会議」はつまらないが、「議論」はおもしろいんだ、ってことは伝わったのではないでしょうか。わかんないけど。


以下、出席者のコメント。

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2009年7月 9日

人文総合演習A 第12回


選んどいてあれですが、なにを隠そう、私は対談本とか鼎談本とかすごいきらいなんですよね。インタヴューとかもね。俳優とか歌手みたいな(自分で物を書く機会のない)人ならともかく、物書きにしゃべらせて文字起こしするとか、怠惰でなければ倒錯だよねと。もちろん、口述筆記本の類もおんなじ。まあ、選んどいてあれなんですけどね(苦笑)。なにがいやかというと、わかりにくいからなんですよね。すらすら読める分、結局なにが書いてあったのかよくわからんという。

というわけで、対談本については、今回の報告者のように、なにが書いてあったのか、ということを線形なストーリーに構成し直してあげるということが、レジュメ作りの付加価値になります。ただ、注文をつけるなら、そのリニアなストーリーの中に、著者の意見と報告者の意見がどっちも組み込まれていて、いまいちメリハリよく区別できなかったので、そこをきっちり分けることができるような構成にした方がよかったですね。

最終節で展開された報告者独自の議論は、自由と平等という二大価値の間の対決で、演習での議論もそこを中心に行われました。報告者は、自由よりも平等のほうが大事だ、という意見だったのですが、「熾烈な自由競争のもと、弱者は切り捨てられ、強者だけが多くの富を得て、切り捨てられた弱者を国が保護してくれないような社会と、国民の最低限の健康をしっかりと保障してくれるような社会ははたしてどちらが良いだろうか」という問い自体が、まあなんというか、自由陣営にとってかなり不利な立て方になっていてアンフェアだという点、それから最低保障というのははたして平等主義の一種だといえるのかどうかという点、などが問題になりました。

問いのアンフェアさについては、一般の言論はもちろん、研究者でもそういった間違いに陥っていることがよくあるので、今後そういう議論を評価する際にこの経験が活きることでしょう。それから、平等についても、アマルティア・センにならっていうなら、いま議論しているのは「何の平等か?」ということをつねに意識していなければ、そもそも話が通じないということも大切です(What is equality? よりも Equality of what? の方が、とりあえず重要なんですよね)。

この種の議論を、「正義」論といいますが、この40年間の正義論を牽引してきたジョン・ロールズは、(1)自由を平等に保障しろ、そのうえで、(2)機会の平等を保障したうえで、結果の平等よりも最低ラインが豊かな結果の不平等がありうるならそれを許容しろ、という「正義の二原理」というのを立てています。もし今後も、自由とか平等について考えていくならば、この議論とも何らかの形で対決していかないといけないでしょうね。

さて司会者は、「没!!」とか書いてますがw、途中で頭がついていかなくなったり、わけがわかんなくなったりするのは、自分がいいことを言おうとしすぎているとか、自分の計画に場を従わせようとしすぎている、といったことなんじゃないかと思います。もちろん、できるのであればそれに越したことはありませんが、あ、できないなと思ったら、場の流れとか、質問者の議題設定に任せてしまっていいのです。他の人にいいことを言わせるのが司会者の仕事であって、自分でいいことを言う必要はないのです。


以下、出席者のコメント

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2009年7月 2日

人文総合演習A 第11回


今回から2周目です。

報告は、トピックが多岐にわたる本書から、その肝となる「価値コミットメント」と「ミメーシス」を取り出し、それぞれについて論じたうえで、両者を目的手段関係で捉える、というものでした。

特にミメーシスについて、著者はスゴイ奴に対する感染的模倣だというけれど、報告者の実感としてわからない。そこで、あとから見るとミメーシスに見えるけれども、その成立過程を追って行くと実はそうではない、という代替モデルを構築してくれました。

私が提案するモデルは、大きく三層に分かれている。まず一層目には、物事の先駆者が入る。二層目には、先駆者と同じ発想や意思を持ち、先駆者に続いて行動を起こす者達(社会的に言うエリート)が入る。三層目には、エリート層の流れに追随することや大きな流れに乗ることに価値を見出したりする者や、何の気なく周りに同調してしまう子どもなどが入る。

しかしこのような仕組みが出来上がっていたとしても、周りからみれば、スゴイ奴の真似をしているんだと決めつけることは出来る。

これはあれですね、マスコミ(の影響力)研究でいうところの、「コミュニケイションの二段の流れ」説に似てますね。それはともあれ、出席者からは、それでも感染的なミメーシスっていうのもあるんじゃない? という疑問も出たりして、なかなか活発な議論がなされました。

司会者は、報告者の議論をすばらしくよく理解しており、そのために、他の出席者の意見との異同をきちんと見抜いて、議論の構図をつくることに成功していたと思います。前に座っている二人の意思疏通がうまくいっていると、場に安心感が生まれますね。


以下、出席者のコメント。

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2009年6月25日

人文総合演習A 第10回


いや、レジュメよく書けてました! と、わざわざ言うのはなぜかというと、報告時のパフォーマンスがそれにつり合ってないからで(笑)。独りで考えて文章を組み立てるのと、人前でいろんな人の思いもよらない指摘を受けながら、なおも議論を維持することは、エネルギーの使い方というか、求められる能力が全然違うことが、体験的に理解できたのでは? もちろん、全部できるとは思っていません。いくつかの点では、1年生ゼミとしては、日本で、というか世界でもトップレベルの要求水準の演習だということは、自覚しておいてよいでしょう(私はこういうところ謙遜しないで書いちゃう素敵人格なのですw)。

報告の趣旨は、著者は思考停止を批判してるけど、思考停止しちゃいけないのは(つまり考えないといけないのは)「誰なのか」が不明だから、俺が考察して、その理由も含めて著者に教えてやんよ! ということですね。「社会的要請に応えたいという意志」から社会における成員性を条件として析出するところなんか、ちょっと政治哲学の論文にあってもおかしくない雰囲気でした。

「社会的要請に応えたいという意志」がどのように発生するのか、なにを契機として生じるものなのか (中略) この意志は社会から独立した完全な個人からは生まれえない (中略) つまり、社会的要請というものが前提とされた時点で、個人ではなく社会の中の一員という視点が必要になる。
とかね。なかなか立派です。米国のコミュニタリアンの論文からの引用です、とか言っても騙される人いそうでしょ(笑)。

さて、最後の方に私がややこしいことを言ったので補足をば。言いたかったのは、「社会的要請」というのは、「法令」がすでに存在していて、それが人々のフェティシズムの対象になっているとき――つまり、法令遵守それ自体に価値があると(誤って)思い込んじゃってるとき――には、法令よりも上位の審級としてその相対化に役立つ、という面が確かにあるけれど、まだ法令が存在しないときに用いると、特定の人間集団の私的な要求にすぎないものを「社会的」要請として(不当に)正当化しかねない危険があろうことよな、ということでした。・・・えーと、やっぱややこしいですねすいません。

司会者は、事前にレジュメの内容を知ることができなくて仕方ない面もありますが(そしてそれは報告者が悪いんですが)、自分が事前に準備したフレームに回収しようとするのが少し強引でしたかね。この辺は加減がなかなか難しくて、報告内容が薄くてしょうがない場合には、司会者が濃度を増してやるのが有効なんですが、今回は、レジュメで実質的に新しい議論が出てきていたので、まずはそれに乗ってあげるというのが正解だったと思います。と、こんなことを書いておりますが、私だってちゃんとできるわけではありませんのでまあその辺は。


以下、出席者のコメント。

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2009年6月18日

人文総合演習A 第9回


報告は、我々の「自由な選択」の基礎になっていると想定され、また我々自身がそう信じている欲望や選好といったものが、実は心理的な潜在過程における外部からの操作可能性に晒されているという本書の知見を受けて、そのことの倫理的意義について、一つの思考実験を通して考えてみる、というものでした。

この思考実験はなかなか興味深いので、原文のまま引用してみましょう(読みやすくするために適宜段落を分けました)。

私は今まで自分で買い物をしたり、着る服を選んだり、食べるものを決めたりしてきた。しかしある日突然政府から

あなたは今まで自分の意思で買いたいものや着たい服、食べたいものなどを選択してきたつもりだろうが、実はそうではない。それらの行動はすべて私たちが特殊な装置を使ってあなたにそうしたいと思わせ、それらを選択させていたのだ。

だが、それには多大な費用と手間がかかる。そこで私たちはもうあなたを陰でこっそりと操ることを止め、正直に話すことにした。

さてここに、中に入るとあなたは私たちが指定するものが欲しくなる機械がある。入ってくれれば、欲しくなったものをあなたは手に入れることが出来る。いちいちあなたの意思で選択しているかのように操作するよりも直接この機械に入るほうがはるかに時間も費用も手間もかからない。しかもいらないものを押し付けられるのではないし、欲しいと思えるものが手に入り満足感も得られるのだ。やっている行為自体は今までと変わらない。ただ、あなたが操られているということを知っているかいないかの違いしかない。

ということを言われるとする。

ちょっと分かりにくいかもしれないけれど、これは要するに「自分で選んだつもりになって消費して満足している生活」から、「自分で選んでいる感」だけを取り去ったとき、我々は大切なものを失ったのかどうか、ということを考えるための思考実験になっています。ただ、議論の中でも明らかになったとおり、「政府」といういかにも悪者的なアクターが登場しているために、いろいろと余計な思考を呼び込んでしまいがちではあります。(なので、操作のアクターを「神」とかにしておいた方がよかったかもしれません。)

報告者の直観は、やはりここで大切なものが失われていると告げているようです。それは選択過程それ自体が与えてくれる楽しさ、だと言います。しかし、私としては、それだけではちょっと弱いのではないかと思います。その程度の娯楽であれば、政府(神)はおまけで擬似的に与えてくれるかもしれません。

他方、結構多くの人が、食べるもの、着るもの、読む本などを、実際にも自分では選択していないのではないかとも思います(実家の人、夕食のメニューを選択しているのはあなたですか?)。与えられた食事が美味しければ、与えられた服が自分に似合っていると思えれば、それで十分という意見は、それほど突拍子もなくもないのではないかと思うわけです。

さらにいうと、人生において重大な意味を持つもの、たとえば「愛」というのは、自己選択感の〈欠如〉によってこそ特徴づけられるものではないか、という議論も可能です。Liebe als Passionですね。恋は落ちるものであって選ぶものではないとか云々

とまあ、そういういろんな観点からの議論を喚起してくれる思考実験だったと思いました。報告は分量として少し短すぎました。もっと自分の思考実験の可能性を、様々な方向から分析してみるとよかったかと思います。

司会者は、自分の意見を表明しつつ、それに対する他の出席者の反応を引き出すという方針で、なかなかうまいことやっていたと思います。まあ問題は、勝手にたくさんしゃべりたがる人がいるので(私のことですが(笑))、それをどううまくあしらうかということでしょうかね。他人事のように書いてしまいました。


以下、出席者のコメント。

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2009年6月11日

人文総合演習A 第8回


しかし、下のコメントにもあるけど、みんなレジュメ作るのうまいねー。いや、単に、要約「は」うまいね、みたいなイヤミではなくて、イントロから材料の提出、料理、食事、食後のデザートまで、一つの流れがきちんとできている。それに較べて、自分が学部1年の頃の「基礎演習」という人文総合演習に似た授業で作ったレジュメの貧相なこと(ああ恥ずかしい。でも他の人も似たようなもんだったけど)。まあともかく、料理の構想があるからこそ、材料もうまく調達できるってことです。料理のことを考えず、材料選びだけまずうまくなろうったってそれは無理な話。そしてこのことは、実際に料理をしてみた人にしかわからないこと。「演習」という授業の醍醐味はここにあるんですねー。

さて、今回の報告ですが、かなりラディカルな制度変更(学級廃止とか)を含む著者の提言に対して、そのラディカルさゆえのリスクを重視し、そこまでラディカルな変更を行うことなく、現在の制度の枠内でも可能な、しかし現状では行われていない対策を模索する、という形式でした。

その内容は、一言でいうと、生徒と教師の個別面談の機会を増やす、というもので、まあこれについては、報告者自身が「甘い」と思われる可能性を自覚しているとおり、甘いだろうなとは思います。しかし、ここから一般論ですが、著者の提言が「人類滅んじゃえば問題解決」的な、十分条件ではあるが必要条件ではないことまで言っちゃってないか、という観点からの検討、そしてそれに基づく、十分条件を必要十分条件に近づけていく知的努力というのは、「議論を作る」という点からは非常に有効です。実際ここから、出席者たちの活発な議論が出たわけですし。あとはまあ、もう少し報告者自身が議論に加わって、異論を返り討ちにしてあげる、というのがほしかったですが。

司会者は、「びしばし指名型」でしたね。おそらく意識してやったのでしょうが、これまでで一番、出席者間での発言のバランスがとれていたのではないかと思います。もう少し報告者に振ってもよかったんじゃ、というのと、わからなくなったら自分で考え(込ま)ないで、わかってそうな人に振ってしまって時間をかせぐ、というのをやってもいいかなと思います。あんまり流れを気にしすぎると縛られてしまいますからね(私の出身ゼミでは、「じゃあ、どっからでも」で議論が始まるのが通例でした)。

それから今日も、おかしと飲み物の差し入れがありました。私もお茶と紙コップ持っていったんですが、お呼びでなかったみたいで(泣)。


以下、出席者のコメント。

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2009年6月 4日

人文総合演習A 第7回


文体も独特だし、議論の水準も高く、かつ丁寧さに欠けた本で、苦労したと思います。しかし、やはりテーマに魅力があるためでしょうか。報告もおもしろく、議論も盛り上がりました。90分じゃ足りないですね。

報告は、著者の哲学を検討するというよりは、著者の問題設定に刺戟された報告者が、自らの〈私〉や〈今〉についての直観を頼りに、自ら哲学を実践してみせるという形式でした。報告者を含む出席者の現在の知識や、哲学的議論の繊細さに対する感受能力を考えると、まさにベストな形式選択だったと思います。夢の話、パーフィットの火星転送の話、『転校生とブラック・ジャック』の手術の話、いろいろと面白い話題と、それについての報告者自身のアプローチを示してくれて、出席者の思考を大いに喚起してくれたのではないかと思います。

いくつかは議論の中で指摘されましたが、この経験を通じて、報告者は、自分の(私秘的な)直観と、それを議論に載せるための(公共的な)言語の間の齟齬を感じざるを得なかったのでは? 大雑把にいえば、言わんとすることが言えていない、言うつもりのないことを言ってしまっている――そういったことは、玄人の学者にもあることで、先行研究を批判的に検討する際には非常に有効なポイントです。(この齟齬こそが哲学の問題をつくっているという見方もある。)今後の読書・研究に活かされることと思います。

司会者も、自分なりのまとめ、問題点抽出、出席者へのネタ振りなど、活発にやってくれて、うまい展開でした。報告者との打ち合わせも念入りだったのだろうと思いました。あと、司会者が元気だと場が活発になりますね、ということも再確認できました。

なお、著者は一昨年に新大人文学部に講義に来ており、そのときの内容が『なぜ意識は実在しないのか』という本になっています。今日私が口走った「ゾンビ」の話も出てきますので、興味のある向きはぜひどうぞ。〈私〉の問題がいまいちつかみきれていない人は、『翔太と猫のインサイトの夏休み』、『〈子ども〉のための哲学』からどうぞ。

ああ、あとそれから、今日は出席者の一人が、クッキーを焼いてきてくれました。おいしかったです。どうもありがとう。(でも途中で気管に入ってむせたので、次回は飲み物もっていこうと思います・・・)


以下、出席者のコメント。

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