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三谷武司

2009年5月21日

人文総合演習A 第5回


今回は10ページの大作でした。内容も、著者の議論の流れに沿いつつも、報告者独自の立場である「自律としての自由」論を基礎に、各段階での自由の観念を批判的に検討していくという、きわめてオーソドックスでありながら、プロの学者でもなかなかきちんとやれている人のいない方法論にのっとった、かなり高水準のものでした。実際、そういう意味では、議論の水準も目標設定も、対象文献を大きく超えていたといってしまっていいでしょう。

また、「本書全体を通しての自由の変遷」を、「実際の現象としての自由/理想としての自由」に分けて再度図式的に整理し直してくれたことで、対象文献を読んだだけでは免れない、なんか分かったような分からんようなもやもや感は一掃されました。

報告者は、(もちろん前提知識なく)カントの自由論と、現代政治・道徳哲学におけるコミュニタリアニズムの自律論に、非常に近い直観的発想を持っていて、まあなんというか素朴にすごなあと思いました(笑)。さらに緻密に議論を展開するために、ぜひこれらの議論をフォローしてみてほしい、と思います。

さて司会者ですが、下記のコメントにもあるように、たいへん素晴らしい司会ぶりを見せてくれました。ネタの振り方、指名のタイミング、想定外の流れになったときの戻し方など、まあその、絶妙というか、私自身あれよりうまくやれと言われてもできるかどうか自信がありません・・・ 司会がうまいと、他の出席者も安心して発言できる・・・というわけで、また私がしゃべりすぎてしまったのが申し訳ないです(笑)。


以下、出席者のコメント。

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2009年5月14日

人文総合演習A 第4回


今回の報告は、雇用、社会保険、公的扶助という三層のセーフティネットがすこすこだという著者の議論を受けて、まずは各層における問題の原因と解決策を、短期的合理性と長期的合理性の齟齬という観点から整理し直し、その上で特に、生活保護のマイナスイメージ問題を取り上げて、ある種の「自己責任」的な(というか自業自得的な)、また不正な受給者に対しては厳しい態度をとることでマイナスイメージの軽減を図るという案を呈示し、しかしやはり最終的には人権の保障を責務とする国の責任を強調する、という感じでした。

合理性の問題にしても、責任の問題にしても、あれかこれかの二分法的単純思考ではどうにもならない微妙な論点です。事例に即して、試行錯誤的に適切な回答を探っていくしかないわけですが、今回の報告はその一例となったのではないでしょうか。

司会者も、報告後に自分なりのまとめを示したり、なかなかうまいタイミングで話を振ったりして、事前の工夫がしのばれました。(もうすこし声を大きくしたらなお良かったかなー)

いつも思うことですが、事前の打ち合わせのときに、本番ではこんな感じかなと予想していたのを、みんな上回ってくれます。教員の指導などよりも、本番で前に座って90分を任せられるという経験こそが、個々の能力を引き出すのであるよな、と感慨にふけるところ。(まあ、そういうアーキテクチャを設計しているのは俺なんだけどな!という、あのその(以下略))

なお、今回は他ゼミの受講生が一人、(単位も出ないのに!)うちに出席してくれました(コマが違うので可能)。なかなか挑発的な議論を吹っ掛けてくれて、呼び水になりました。こういう人の参加は、(対象書籍を読んでいるということを条件として)つねに歓迎します。


以下、出席者のコメント。

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2009年5月 1日

人文総合演習A 第3回


まずは、報告者・司会者の二人は、互いの名前もまだ把握しきれていない、どうも感じがわからない中でのトップバッター、お疲れ様でした。終わったあとで司会者が「悔しいです」とこぼしていましたが、その感想が出ることこそ、演習の醍醐味でしょう。一般に、報告者よりも司会者の方が大変だし、感じる責任も大きいものです。

まあ、ついでなんで、この二人には人柱になってもらって(笑)、次回以降に改善すべき点をいくつか指摘しておきましょう。

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2009年4月28日

高原基彰さんからのメッセージ

人文総合演習でやる文献の著者の一人である高原基彰さんから、受講生に対してかなり本格的なメッセージをいただきました。せっかくなので、はてなからこちらにも転載しておきます。

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2009年4月23日

人文総合演習A 第2回

今期の文献が以下に確定しました。


2009年4月16日

人文総合演習A 第1回

部屋は去年の前期と同じところだけど、人数が3割減くらいなので、寒い。というか声が響く・・・

ただ学生の皆さんは、結構積極的で、2回報告を希望する人が続出。出席者全員分の、1回目の対象文献はすべて確定。ただ、司会者を決めるのを忘れてしまった。



期日は未定だが、やることが暫定的に決まっている文献。

以下、レスポンスカードより。

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2009年2月 5日

人文総合演習B 第16回


さあ、最終回です。しかも2本撮りの2本目というやつですね(?)。テンションもちょっとアレな感じに・・・

わからないところは無視しろ! わかるところだけ自分なりに広げろ! それだけが発見への道だ! (発見のない報告なんて迷惑なだけだ!)というのがこのゼミの「教え」なわけですが、今回の報告者は、本書のうち、精神分析なところは全部切り捨ててくれました。うん、賢明な判断です。

で、報告者は、自分のアニメ視聴行動の特徴を、また自分がアニメ(やアニメキャラやアニソン)に向けている嗜好を、ある程度細かく記述してくれました。おそらく報告者本人は、(外見上はそれほどアニメ好きそうに見えない)自分のアニメ好きを暴露することでの盛り上げ機能を結構狙っていたのだと思いますが、そしてその狙いはなかなかうまくいったわけですが、その記述の中には様々な発見と、さらなる問いのための基礎が、いくつも含まれていました。

頻繁に、長時間にわたって観るという報告者が、アニメ視聴に使っているメディアは、テレビではなくパソコンだ、というところが特に重要でしょう。もちろんパソコンでDVDを再生しているのではなく、有料のストリーミングを観ているわけでもなく、様々な動画共有サイトに(違法に)アップされてあるアニメを無料で観ている。だからこそ、自分の好きなときに長時間、何話でも観ることができるわけです。これは、数年前まではまったく存在しなかった視聴形態です。もちろん対象本も想定していません。また、それと関連することとして、アニメをニコ動のMADで二次的に(そしてそこにつけられたコメントも含めるなら三次的に)楽しむというのも、非常に最近の現象です。

嗜好については、私自身の嗜好に関する事実関係はあえて語りませんが(笑)、報告者がアニメキャラは性的志向の対象にはならず、それゆえそれに特化した18禁アニメは全然観ないというのは、まあ後者の方はともかくとして結構違和感です。ちなみに報告者は男性です。うーん、あれですかね、代替メディアの数とアクセシビリティの向上とかが関わっているんですかね・・・などと、ちょっとヤバい方向に行きそうなのでこのくらいに。

そうした細かい事実の積み重ねの価値に較べて、オタクかどうか、という点は、ちょっと大雑把すぎて、これが議論の主軸になっていったのはちょっと残念感があります。ただ逆にいうと、オタクかどうかがあまり意味をもたない世の中になってきたのかなという感じもあります(自分が中高生の頃はそれは死活問題でした・・・)。

あ、大事なことを書き忘れるところでした。えー、今日の司会者は現役コスプレイヤーでした。写真が回りました。新潟にもいるんですね・・・というか東京でも遭ったことないです・・・。まあ、それも含め、司会者自身がいろいろ資料を提供してくれて盛り上がったというか、栄養過多になったというか・・・(笑)


以下、出席者のコメント。

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人文総合演習B 第15回


2コマ連続の1つめです。単位取得に必要な回数はすでに終わっているので、教員も学生もいろんな意味でサービスタイムに突入しています。

さて、対象書はなんかエッセイ集(というか雑文集)みたいな感じで、なかなかどうしていいか難しいところだったのですが、とりあえず報告者の姿勢は明確です。つまり、日本は東アジア文明圏には入っていないのだという「別亜」論に共感したうえで、「霊魂観」の違いは、重大かつ克服不可能なので、理解を求めるのではなく冷めた姿勢で戦略的に応対せよ、というものです(レジュメにはそこまで明示してはなかったけど)。

しかしまあ、いかんせんレジュメの分量が少なすぎました。そのためもあって、「霊魂観」というのが何であって、ある国の「霊魂観」がどういうものであるのかは、どこを見ればわかるのか、どうなっていれば~な霊魂観だといえるのか、といったことについての、報告者の見解が不明すぎました。つまり、自分がよくわかっていないものを最大の論拠にしてしまう、という失敗です。

他方で、レジュメには報告者自身の、中国人に対する見解の変遷が具体例を伴って紹介されていました。中学校の同級生にいた中国人留学生から得た印象、その後2ちゃんねるを見る中で形成されていった悪い印象、両者の齟齬についての戸惑い・・・・・・。報告者は結局、本書を読んでにわかに得た「霊魂観」というキャッチワードで、自分の現在の(つまり2ちゃん的)見解を擁護する方向に話を進めたわけですが、前述のとおり、それがいかにも「にわか」であることは、出席者との議論の中での報告者のしどろもどろ化によって暴露されてしまいました。

さて、報告者の見解は、ポリティカリーにはインコレクトな方面に足を踏み入れているといえるでしょう。また、一国内の文化的同一性をあまりにも簡単に想定してしまっているという面で社会科学的に素朴すぎるともいえるでしょう。しかし、報告者が2ちゃんを見ていて嫌中的感情を強めたということ自体は事実なわけです。ならば、それがどういう感情であり、どういう変化であるのかということを、ものすごく緻密に記述していくことには、非常に高い学問的価値があると私は思います(報告準備段階での打ち合わせ時には、そうした趣旨のことを言ったつもりでした)。

一般に、若い人は未熟です。頭の中身も大したことないでしょう(!)。しかし、そういう若い人が、未熟ながらも経験し、また強く思ったり感じたりしていることというのは、成熟し、また頭のいい年長世代には、決して直接アクセスはできないデータの宝庫なのです。若いうちは、というか若いがゆえに、武器となるのは自分の経験がほとんどです。しかしそれは同時に、示し方によっては非常に強い武器になる経験なんだということを、知っておくとよいと思います。


以下、出席者のコメント。

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2009年1月29日

人文総合演習B 第14回


この演習は人文学部の1年生の必修なのですが、今回の報告者はうちでは唯一、他学部から遠征に来ている学生です(工学部1年生)。

報告は、自己も時間も「もの」ではなくて「こと」だという著者の主張を正確に理解・感得したうえで、それをさらに自分になじんだ例で敷衍していくというものでした。たとえば三角関数の記号(sinとかcos)から受けるイメージ、トイレの照明の自動点灯装置におけるCPUの認識のあり方、認識することと自己であるということの違い、さらには自己であることと自己が自己を自己として認識するということの関係、などなど、報告者の見解を呈示するよりも、聞いている各人にそれぞれ考えるべき課題を与えるといった意義をもった報告だったと思います。

私としては、「こと」について論じる際に用いる「ことば」というもの(!)が、「~とは○○である」みたいな、「もの」化的傾向をもつがゆえの、「こと」についての論じにくさ、そして、にもかかわらず、報告者がいうとおり、「ことば」から我々が読み取るのは「もの」ではなくて「こと」なのだという事実、そしてさらに、このメタ的議論をやはり「ことば」でやらなければならないという、まあなんというかこのややこしさをどうしたらいいか、ということを自分なりの課題として受け取りました。


以下、出席者のコメント。

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2009年1月22日

人文総合演習B 第13回


いきなり私見を書くけど、本書は、なぜ働くかについて直観的に知っているがゆえに「なぜ働くのか」などと疑問に思わない人が、自分の直観を分節化して、疑問に思う人に教えてあげる、という感じの本だと思います。ところが、上記のような疑問は、問う人にとって問いそれ自体の意味が様々なはずなのであって、一般的な問いに対する一般解を与えようとする本書の議論は、ほんとうに疑問を抱く人にはまったく届かない。報告者が著者の議論に対して納得がいかなかったのもそのためだと思います。

さて報告者は自分の納得のいかなさの原因を探っていきますが、それは、自分にとっての「なぜ働くのか」の問いの意味を探るプロセスにもなっていたはずです。そうやって、死の瞬間における人生全体の肯定的評価、という基準に至り、この基準から、「お金のため」「他人のため」といった既存の回答案を点検していき、(当然ですが)否定的な結論を下していきます。

私見が続いて申し訳ないですが、これが哲学だ、というのが私の考えです(そして本書のごときは哲学ではないというのも)。もちろん、報告者はまだ知識も議論の展開も未熟なので、自分にとって本当に意義のある結論を導くことはできていないし、ましてや他の出席者にとって意味がある形で呈示することにも成功しているとは言い難いとは思います。成功の見込みがあるのかどうかもよくわかりません。が、それだけが哲学的探究の道であることも事実でしょう。既存の哲学書が、自分の問いを明確にし、他人に伝達可能なものにするための指針となる方法論を与えてくれる可能性はあるでしょう。要するにまだまだ勉強すべきことは(というか、とりあえず勉強してみる価値のあることは)たくさんあるということです。

ただ、急いで付け加えると、社会学者としては、哲学的に問いを深めることだけが、問いから解放される道ではないということも言っておきたいと思います。演習の中で何人かが言っていましたが、一時的に「なぜ~?」と問う人も、一晩寝たり、酔っぱらったり、風呂に入ったり、運動したり、テレビ見て笑ったり、忙しくて死にそうになったり、ぽかぽか陽気であったかくなったり、恋人ができたり、コーヒー飲んだり、資格試験にのめりこんでみたり、とかとかしているうちに、問い自体が自分にとって無意味化することもあるわけです。ま、そういう(頻度としてはきわめて多い)可能性も頭の片隅に置いて考えていくのも一つの手でしょうという感じで。

司会者は、報告者が来るまでの場つなぎ、議論が停滞したときのまとめと再開、など、たいへん工夫してがんばっていたと思います。ただ、(今回に限らず)いいことを言おうとしすぎて時々つまってしまうのはあまりよくないです。司会者の仕事は、いいことを言うよりも、場を成り立たせること、つまり「お座成り」であることだと思います。次回以降の人は、その辺にも注意してみてください。


以下、出席者のコメント

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