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三谷武司

2009年1月 8日

人文総合演習B 第12回


今回の報告では、貧困国に対する富裕国の責任、という点に注目して、報告者独自の分析と判断を見せてくれました。報告は、国際関係における貧困の問題は、仮に公正な自由貿易をしたとしても構造的に貧困が放置されるような体制になっていて、そのこと自体が不正であるということに加えて、そのような体制が現在の富裕国による過去の不正の結果であるという洞察に基づき、現在の富裕国は、現在の状況が不正であるがゆえにそれを正す責任を負うだけでなく、過去の不正の清算をするという責任も負う、という二重の責任追及によって、富裕国に根本的な再配分を迫る、というものでした。議論の構成としてはなかなか手が込んでいて面白いので、今後は(?)、この枠組みを具体化する議論を精密に組み立てることが課題になるでしょう。

ところで報告者は独自の正義の基準として「等価交換」を呈示し、それをアニメ『鋼の錬金術師』に由来するものとしていたのですが、不勉強ながらわたくし未見なのでいまいちわかりませんでした。『ガンダム』(ただし富野もののみ)ならわかるんだが(笑)。

何人か書いてますが、司会うまかったですね。あのやり方は今後の人の参考になると思います。


以下、出席者のコメント。

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2008年12月18日

人文総合演習B 第11回


今日は、一足早く冬休みに入った人が数人いましたね。怪しからん! ただ議論は結構盛り上がりました。

日本に古代はなかった、日本の歴史は最初から中世として始まる、という著者に対して、報告者は真っ向勝負を挑みます。いや、やっぱり日本史は古代から始めるべきだと。報告者の考えは、要するに、支配者の属性の推移によって時代区分をすべきであり、それでいくとやはり武士の擡頭によって中世の始まりとすべきであると。

しかしやはり、なぜ政治体制のあり方を(他の様々な領域における変化を差し置いて)時代区分の基準としなければならないのか、なぜ天皇時代、武士時代等と報告者の主張する時代区分をそのまま時代の名称にするのではなく、古代・中世・近代という西洋史由来の分類を用いなければならないのか、等々の疑問はおさえられませんね。

とはいえ、そういう批判を受けつつ、時代区分というものが、現在の視点から過去に切れ目を入れることで(「その時歴史が動いた!」)、過去の出来事の集まりの中に秩序を見出し(そうやって見出された秩序が「歴史」と呼ばれるわけです)、そうすることで(ある種の)理解が可能になる(ことで別の種類の理解が排除される)という仕組みは、なんとなく感得できたのではないでしょうか。

司会者は、たいへん工夫していましたね。まとめ方もよかったし、鎌倉で採った(刀の原料になる)という砂鉄をもってきてくれたり、楽しめました。あんな大量の砂鉄は初めて見ました(小学校の砂場でU型磁石にくっつけたのしか見たことなかった)。


以下、出席者のコメント。

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2008年12月11日

人文総合演習B 第10回


著者が、大人側からの対策としての加害者処罰を強調しているのに対して、報告者は、その有効性を認めたうえで、いじめられている人、中立的な人がどう振る舞うべきかについて、実体験を踏まえて論じてくれました。具体的には、いじめられている人は、本来の性格を隠して中立的グループに参加すること、それができない場合は、孤高を貫くことだと。また中立的な人は、著者のいうように「見て見ぬフリ」でよいのだが、そのやり方に良し悪しがあって、(以下は私の言葉でのまとめですが)いじめの中の悪の要素だけ見ないフリをする(ので正義感から止めることをしない)のが悪い見て見ぬフリであるのに対して、良い見て見ぬフリは、いじめそれ自体の存在を無視し、あたかもそれがないかのように被害者とも加害者とも普通に接する(ことによって被害者を助け、加害者にその行為の愚かさを気づかせる)とのことでした。

オーディエンスからはやはり実体験に基づいて、報告者の提案の困難性が様々な角度から指摘されました。

大人の側の対応、制度のあり方や運用の変革を求める著者には、私も賛成ですが、しかし今まさにこの瞬間にも全国の非常に多くの生徒が「いじめ」に逢っているわけで、そういう人たちは制度変革を待っている暇はないともいえます。そういう意味で、報告者のような観点からの提案も、著者の提案と並んでやはり重要だといえるでしょう。

司会者は謙遜していますが、最初の振り方とか、結構うまかったと思います。もう少し大きな声出せばもっといいですね。(声が大きいだけでいろいろごまかせます(笑))


以下、出席者のコメント。

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2008年12月 4日

人文総合演習B 第9回


報告は、うつ病と診断された後の社会的環境の変化のあり方によって「うつ病セレブ」とか「うつ病難民」を分けたり、うつ病になった原因も診断に組み込もうという著者に対して、症状として患者本人が苦しんでいるのは変わりないのだから、そういう比較をすること自体が精神科医として不適切だと批判するものでした。

いきおい、精神科医の倫理の話になり、臨床以外に、本書自体がそうですが、テレビなどのメディアにおいて精神科医が発言することの是非が話題になりました。コメントのところでメディアリテラシー云々が触れらているのはその話です。

他にも、心の病気と脳内の病変の関係(いわゆる心脳問題)や、精神の問題を薬による治療の対象と見ることの是非など、展開の可能性を秘めた論点を出してくれたのですが、全体の一貫性がちょっと弱かったですかね。

司会者はがんばってましたが、(特に前半)ちょっとコントロールが強かったですね。他の人が発言しやすい「間」も、工夫のしどころです。


以下、出席者のコメント

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2008年11月20日

人文総合演習B 第8回


報告は、報告者自身が集めた事件に関するデータと比較して、本書に載っている様々な「説明」が、いかに限定的な情報にのみ注目し、単純化したものであるかを指摘したうえで、そうした単純な「説明」に甘んじないで、自ら情報収集をして「真実」を知ることが、つまりある種の「メディアリテラシー」を身につけることが、はたして善いことなのかどうかと問い、「真実」を知ることで「不幸」になる可能性がある以上、必ずしも善いことではないと結論づける、というなかなかひねったものでした。

この話には、片付けなければならない哲学的問題が複数含まれています。我々の倫理的判断の基礎となる最終的基準は一つなのか複数なのか、一つなら何なのか、複数ならば何と何と何・・・なのか、そこに幸福は含まれるのか、真実(を知ること)は含まれるのか、幸福とか真実というのは客観的に存在するのか、それとも我々が主観的に体験する幸福感・真実感以上のものではないのか、幸福や真実に上位する価値はないのか、などなど。

さらに、「真実」を知ることがどういう場合に「幸福」を減じるのか、それを防ぐ手立てはないのか、「真実」が隠蔽されることで「幸福」が減じられる場合はないのか、等々の、社会科学的な問題もあります。

これらの問題を、ひとつひとつクリアして議論を組み立てるには、レジュメの議論は薄すぎたといえるでしょう。議論の流れは明確でしたが、流れがスムーズすぎて(=記述が簡単すぎて)多くの出席者がついていけなかったように思いました。今回の報告のように、我々の「常識」に挑戦するような議論の場合、少し〈よどみ〉があった方が――そこで聞く側が立ち止まって自分の思い込みを反省できるので――わかりやすいです。

司会者は、報告内容の複雑さと、出席者の理解度との板挟みになって大変そうでした。そういう場合は、とりあえず流れを無視して、議題設定自体を出席者に丸投げしちゃうというのも一つの手かなと思います。


以下、出席者のコメント。

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2008年11月13日

人文総合演習B 第7回


報告は、女子が自分の外見を気にするのは、いつか現れるはずの王子様に見つけてもらえるため、という他力本願志向(シンデレラ・コンプレックス)の表れ、という著者の議論に対する直観的な違和感に基づき、自分の経験を反省しつつ、より複雑な分類を呈示してくれました。つまり、女性に限っても、外見を気にする相手にも様々あり、気にする外見にも様々あり、外見で気にする効果にも様々あり、とても著者がいうような単純な現象ではないのだということを示したわけです。さらに、香山リカの議論を引きつつ、シンデレラ・コンプレックスに限っても、男女問わず、また恋愛以外の領域(就職など)でも見られるということを示してくれました。

著者の議論に違和感を覚えた場合、著者が自分の直観に制約されて過剰に単純な議論にしてしまっている可能性があります。そういうときには、それに違和感を覚える自分の直観を反省して分析していき、著者の議論を一部に含むようなより一般的で複雑な議論を組み立てることが有効です。今回の報告はまさにその形式でしたね。構成も、分類がわかりやすくよくできていたと思います。

コメントに出てくる「ラピュタコンプレックス」というのは、「ある日、少女が空から降ってきた」を待つ男子のメンタリティについて、私が適当にでっち上げた言葉です。この現象自体についてはその方面でたぶんさんざん論じられて別の名前がついているのではないかと思います。

司会はがんばってる感が伝わってきてよかったですよ(笑)。ちょっと計画に縛られてる感じがしないでもなかったですが、でも展開を計画しておくことは大切です。


以下、出席者のコメント。

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2008年11月 6日

人文総合演習B 第6回


レジュメは打ち合わせのときのから全面書き直しですね。分量少ないかと思ったけど、問題点の指摘と対策案は明確でした。そのせいかどうかはよくわからないですが、今回も活発な議論でしたね。時間足りないです。

報告者の基本的な立場は(本人がどのくらい明確に自覚しているかはともかく)、我々の感じる幸福とか、我々が認識する自分の状況、我々の身に付いた行動様式といったものは、それ自体として絶対的なものではなく、それらを規定する下部構造によっては虚偽意識であるから(うわ、マルクス主義!)、真の幸福、真の状況認識、真の行動様式を手に入れられるよう、教育してやらなければならない、というものでした。

これは倫理学の適応的選好形成論とか、前期でやったアーキテクチャ型権力論の問題圏と関わるものです。いずれも、主観的に感じる幸福感や自由感を相対化する議論です。

出席者から、いや、主観的な幸福感こそが倫理的に尊重されるべきデータであり、「真の幸福」などという、あるのかないのかわからないものに基づいて介入するのはお節介だからやめるべきだ、というやはり明確な意見が出されたため、そこに立場選択の可能性があること、対立点があることが明らかになりました。

――というのが、私の興味関心から見たまとめですが、というかそういう関心から議論の方向性に影響を与えてしまいましたが、それでよかったのかどうか(笑)。

議論の展開については、ちょっと最近窮屈かなと感じています。前回書いたこと(司会者に御奉公しよう!)とはちょっと矛盾するかもしれませんが、各人が、全体で一つの流れとか結論を出そうとしすぎなのかなと思います。もっと自分が言いたいことや聞きたいことを自由に発言してしまっていいと思います。報告者と司会者と教員は事前に打ち合わせをしているので、問題設定などが共通しているかもしれません。全員がそれにのってしまうと、大切な論点が忘れられてしまうかもしれず、そうなると全体にとって損ですよね。前回は司会者からの目線で書きましたが、出席者の目線で書くなら、自分の発言は好きなことを言い、流れとか結論とか議論の意義みたいなものは司会者にお任せ、という態度でいいと思います。


以下、出席者のコメント。

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2008年10月30日

人文総合演習B 第5回


えーと、打ち合わせ時点のヴァージョンを知っている身からいうと、話をまとめようとして削りすぎたという感じですね。まとめる努力はすべきですし、報告の一貫性は重要ですが、ネタの多様さも重要です(出席者はどこに喰いついてくるかわからないですからね)。レジュメを見て、あ、あのネタ削っちゃったんだ・・・と思いました。

報告者の主張は、学校のクラス編成を習熟度別にすべきだというものでした。これは、打ち合わせ時の、勉強は塾・予備校に、それ以外の人間的成長は学校に、というラディカルな分業提案と較べると、ちょっと穏当すぎる常識的な提案で、出席者にショックを与えるには弱すぎました。発想が穏当なために、議論がすぐに、提案を実現するための具体的な調整の話になってしまったように思います。要するに人件費がなんだとか、教師の負担がなんだとかいう話ですね。もちろん報告者としてはそこまで詰めて考えてはいないわけで(というかそこまで詰めた議論があの場でできるわけはないわけで)、それで議論が停滞したり「木を見て森を見ない」になってしまったというのが私の観測です。

われわれは議会のように、なにか責任ある決定を下すために議論をしているわけではありません。なので、問題提起の性質によっては、細かい実現可能性などは無視して、極端な提案を極端なままで検討し、その帰結をひとまず確認するという流れが有意義だったりします。学問はそういう無責任(であるがゆえに自由)なものであっていいのです。むしろそういうものであるべきでしょう。今日の議論でいえば、負担や費用の増加などはとりあえず無視して、学校の授業を面白くするにはどういう手立てがあるかということだけを論じていくのが先決だったでしょう。この論点だけでも、授業が面白いとはどういうことか、授業にとって大切なのは面白いことだけか、などなど、詰めないといけない点がたくさん含まれています。負担や費用の話と同時に行うのは実質的に不可能な大きな話なのです。そういう意味では、私も含めて、議論の場が詰め論に傾いていったのはよくなかったですね。

えー、感想を見たら司会者が気落ちしているようなのですが(笑)、どう言おうかな。えーと、まあ今回だけに限りませんが、前期も含めて、司会者が遠慮しすぎだなと感じています。一般論として何度も言いますが、主役は司会者です。会を司る者なんだから。司会者が、報告者に報告をさせ、出席者に発言をさせるのです。だから報告作成途中の打ち合わせ時でも、報告者にもっと要求をしていいです。漫画雑誌の鬼編集者のように、容赦なくボツを出していいのです。そうやって、自分が司会をしやすいような報告を作らせましょう。また演習の場においても、自分にとってつまらない展開になってきたら強制的に打ち切って、新しい話題を振ればいいのです。朝生の田原総一朗を見習いましょう。司会者は王様です神様です。

そういう意味では、私も含めて、出席者はもっと「しもべ」としての自覚をもたないといけませんね。どうも船頭が多くて船が山に上っている感がちょっとあります。

というわけで、今回は議論運営の仕方について多くコメントしましたが、私としては大学の授業のあり方についての悪口(?)がききたかったですね。時間がなくて残念です(笑)。


以下、出席者のコメント。

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2008年10月23日

人文総合演習B 第4回


今回の報告は、著者が「勝ち組」「負け組」等と評価語を用いているにもかかわらず明示していない、自治体の勝ち負けを判断するための評価基準を、報告者自らが自分の立場として明示的に定式化し、それに基づいて、本書から3つの事例を取り上げ、追加情報を補足しつつ、事例ごとに評価をくだしていき、最後に自分の出身自治体の事例を紹介する、という趣旨のものでした。

報告者は、自治体の存在意義は「産業」にこそある(のであって住民の福祉にではない)という極端な立場を打ち出しました。極端な立場をあえてとるのは、それでどこまでいけるのか、どこで破綻するのか(なぜ「極端」なのか)を測るという点では、なかなか有意義な戦略です。

ただそのためには、その立場選択に由来する結論、それを聞いたオーディエンスの強い反応、これらに耐えうるだけの強靭さが必要です。今回報告者には、自分の立場選択に見合うだけの強靭さが欠けていましたね。(しかしそれにしても他の出席者の反応は、far from 遠慮会釈、って感じでしたね・・・自分の番がまだなのにあえてハードルを上げるその心意気に感服しました(笑))。

さて、何人かの出席者が触れている最後の方の議論ですが。自治体がそこに生きる住民の福祉・厚生・幸福の維持・増進を目的とするとして(これは報告者の立場からは完全に離れた前提ですが)、はたして「ここで暮らしたい」という住民の希望は、他の人の「権利として保護されない幸福」を減じてでも保護すべき不可侵の「権利」であるのか、それとも全体の幸福量の維持・増加のためには減じられてもよい相対的な価値にすぎないのか、これが出席者の間で先鋭に対立したのでした。正義論的にきわめて重要な論点です。この問題はつきつめていくと、人間の幸福は、育った地域や文化と切り離して捉えることのできる抽象的なものなのか、それともそういう切断は(概念的に)不可能なのか、というさらに基礎的な問題へとつながっていきます。今後の演習の中で、また各人それぞれ、考えていってくれたらと思います。

司会者には、混迷を深めていく議論の舵とりを多少無理めでお願いしてしまって申し訳ない、と思いますが、でもまあそれが仕事だから(笑)。

以下、出席者のコメント。

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2008年10月22日

人文総合演習B 文献一覧

すでに報告は始まっていますが、ようやく今期のスケジュールが決まりました。

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