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2010年2月15日

人間学講座回想録(5) 【】

1989年から推薦入学制度が始まったため、学年人数が数名から20名前後の大所帯となる。最初の年は、課外の授業を私と山内先生とでもって、木曜の夜に自主的に集まってもらった。専門の講義が始まるまでに志望の気持ちが萎えないように、という配慮からだが、むしろ見合いをした相手に早く会いたくなるように心持ちで、何かと旧資料室に集まる機会を設けていた。やがて推薦入学生が大半を占めるようになり、初夏に合宿をする慣行が生まれた。第一回は、巻町にある金仙寺の仏堂で、恒例となる「読書クイズ」(初期は私が問題をつくり、やがて山内先生、城戸先生、そして現在の宮崎先生へと継承する)だけが唯一のイベントで、あとは釈迦像の面前で飲みあかすというだけの質素な合宿であった。翌日、角田山に登って鬼ごっこをした記憶がある。佐藤徹郎先生が真剣に学生を追いかけていて、その俊敏さに瞠目した。第二回以降は点々と合宿先を変える。金仙寺が廃寺となったこともある。よく覚えていないので年代順ではないが、過去に選んだ宿泊地を思い出す順に書いてみよう。新発田の青年の家(そんなような名前)。ここは五十公野公園に隣接した施設で、新発田駅からの徒歩は辛かったが、翌日は野球場でソフトボール大会となった。五頭山麓の少年の家。県の施設でユースホステルなみのやっかいな規則があった。このときは教官ごとに即席のセミナーを設定して班に分かれ、自然のなかで読書したり議論をしたりした。冷蔵庫に隠したビールが事務員にバレてしまい、ずいぶんと叱られた。「もう来ないでください」とも言われた(こちらも行く気はなかったけれど)。咲花温泉の旅館で開催したときもある。温泉旅館なので、硫黄臭のある濃厚な湯を堪能できて教官は満足。翌日、阿賀の里という観光施設に歩いていって、希望者は阿賀野川を船で下った。やたらと饒舌な船頭は、しかしながら、他県の人間でよくよそ見をするために、ずいぶんと水しぶきを浴びた。柏崎の南方、高柳町のじょんのび温泉で合宿をしたこともある。ここは手作り豆腐の美味な場所で、湯も淡褐色で木造りの立派な湯船で、すばらしいものであった。夜はトリヴィアル・パスートというクイズゲーム(生協で展示してあったものを、宣伝用にと借りてきてあった。一般常識問題を、地理・歴史・科学・芸能・スポーツのジャンルに分けて解いて、双六のような形式でゴールをめざすもの)にほぼ全員参加して楽しんだ。経過は忘れたが、ダントツで優勝したのが栗原隆先生だったことはよく覚えている。いやはや、よく知っておりました。
21世紀になってからは、大抵は、上川村あるいは鹿瀬の施設がよく使われた。上川温泉は四度ほど利用した。はじめてのときはやたらと歓迎してくれて、追加の宴会料理も山菜を中心に豪華なものであった。鹿瀬ではやはり温泉の亀田郷山荘を利用した。この頃から卒論の構想発表を兼ねるようになり、遊び中心だった合宿がすこしまともなものになりつつあった。磐越西線を週末走る蒸気機関車を利用することも何度かあった。六日町の「いろり庵」は最近利用した。雲洞庵、トミオカホワイトなど周辺の寺社、美術館に立ち寄り好評を博した。六日町駅前にネパールカレーの店があり、私は早めに到着して賞味したが、これを聞いた佐藤徹郎先生が敏感に反応し、持ち前の早食いで数分で平らげてきた。余興の新企画として、「ほぼ100円ショップ」を開催。100円ショップで購入した商品に、高額商品をまぜてそれをあてさせるゲームで、なかなか的中せず楽しい時間だった。このゲームには「高額商品」の所有者が必要で、佐藤先生がいないと実行できない。
昨年(2009年)は十数年ぶりに合宿が中止になった。マンネリ化したことへの反省もある。今年は準備も早く、すでに栗原先生に赤崎荘(鹿瀬)を確保していただき、新しいスタッフの青柳かおる先生も加えて合宿の新時代を迎えようとしている。今後は、OBも気軽に参加できる行事になればと願っている。

だいぶ記憶があやふやになっていまして、OBの方で追加すべき出来事がありましたら、ご一報ください。