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2019年11月 5日

第36回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

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第36回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に山形大学の柿並良佑先生と立命館大学の山本圭先生をお招きし、「情の時代のポピュリズム──情動とカリスマから考える」というテーマのもと開催されました。

はじめに、柿並先生から「情動(の政治)」について考えるとはどのようなことかについてお話して頂きました。柿並先生によると、情動と政治の両者は切り離されない関係性にあります。情動と政治の関係性について、多くの思想家がわれわれの情動・感情をいかに動員し組織するのかを問うています。しかし、そもそも情動とは何でしょうか。柿並先生はこの根本的な問いについて、さまざまな思想家の考察を用いながら解説して下さいました。4400.jpgたとえばフロイトによれば、情動(affect)とは同一化(個人の心理は常に集団との関係の中で決定すること)の本質であり、情動の本質は両価性(ambivalence)です。ただしジャン=リュック・ナンシーは、フロイトが情動の本質を両価性としながらも、両価性の単純な論理を成立させるには至っていないと指摘しています。つまり情動とは、ある対象に向ける愛と憎悪という相反する単純な感情ではないということです。ナンシーは、情動について「情動は、あると言えるとすれば、ソレ〔ça〕でしかありえない」と述べています。ソレとは何か。柿並先生はフロイトでいうところのエス、英語で表現するならば It だと説明し、「私」を駆り立てる何かなのだと解説して下さいました。情動とは何かについて解説して頂いたのち、次に情動論的転回について情動とメディアの関係性を題材にお話しして下さいました。柿並先生によれば、われわれの情動はミクロレヴェルで社会に管理されているといいます。たとえば Twitter がこれにあてはまります。 Twitter の「いいね」は反射的な情動だと柿並先生は仰いました。なぜなら、Twitter の「いいね」は「「いいね」の数が多いから」、「なんとなくおもしろい」といったその場のノリからくるものだからです。この「いいね」という情動には何の深みも無く、非常に動物的だと柿並先生は指摘しました。柿並先生のお話から、われわれの情動はインターネットが発展した現代社会において、ミクロレヴェルで管理された結果、もはや「私」を駆り立てる人間的な何かではなく、流され飼い慣らされた動物的なものへと変化しつつあるのではないかと考えられました。

次に、山本先生からポピュリストと政治的カリスマについて、指導者という観点から解説して頂きました。山本先生はまず導入として、シャンタル・ムフが強調する左派ポピュリズムについて紹介することによって、衆愚政治などと揶揄されてきたポピュリズムのポジティヴな面を紹介してくださいました。IMG_1223.jpgムフによれば、新自由主義的な緊縮政策によって、大多数の人々は政治的に無力化されています。そして左派にとっての唯一の対抗手段が左派ポピュリズムだといいます。左派はポピュリズム戦略に訴えることで、エスタブリッシュメントに対抗する勢力をまとめあげ、自由民主主義を回復しなければならないというのがムフの主張です。左派ポピュリズムの勢力をまとめ上げるには指導者が必要です。山本先生はマックス・ウェーバーの指導者民主主義を踏まえながら、官僚制に対抗する指導者による民主主義の必要性について説明してくださいました。それではどのような指導者が必要なのでしょうか。そして、そもそも指導者とは何なのでしょうか。この問いへの大きなヒントとなるのがカリスマです。山本先生によれば、政治指導者は大衆の票を集める能力だけでなく、政治のために生きるカリスマを備えた人物です。では、カリスマとは何でしょうか。山本先生は思想家によるカリスマ論の射程を紹介しながら、カリスマ論についてお話してくださいました。ウェーバーは『権力と支配』のなかで、カリスマとは「「信奉者」によって、じっさいにどのように評価されるか」が重要だと述べています。つまり、ウェーバーによるカリスマにとって重要なこととは、何より従う側からの評価ということです。ロジェ・カイヨワは『聖なるものの社会学』のなかで「カリスマ的権力は、いぜん夢遊的・催眠的・眩暈的・法悦的な力として存在している」と述べています。カイヨワはカリスマの力を非現実的なものとして捉えているのがわかります。ウェーバーがカリスマを民主主義と結び付けて、カイヨワがカリスマを非現実的な巨大な力と結び付けて評価しているなかで、ハンナ・アレントはカリスマを全体主義と絡めて論じており、『全体主義の起源』のなかで、全体主義の指導者は「いつでも取り替えがきく」と述べています。そして、カリスマとはその人物が持つ唯一性であるといった、ヴァルター・ベンヤミンのアウラ論とカリスマ論を結びつけた主張もあります。

カリスマとは何かについて知ることは、政治指導者が本当に指導者にふさわしい人物なのかを冷静に判断する大きな材料になるのではと思いました。

柿並先生と山本先生のお話は、民主主義とも衆愚政治とも呼べない、曖昧なポピュリズムが蔓延している現代社会について考え直す良い機会となりました。メディアやインターネットの情報や指導者の過激な発言に魅せられた情動によってポピュリズムを形成していくのではなく、自分の意志と理性をもって判断することがポピュリズムの重要な要素であるのではないかと感じました。

最後になりましたが、今回のセミナーでご講演頂いた柿並良佑先生と山本圭先生に感謝申し上げ、第36回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学現代社会文化研究科修士課程 田中宥多

2019年9月18日

第35回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

第35回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に東京大学の古田徹也先生をお招きし、先生の著書である『不道徳的倫理学講義──人生にとって運とは何か』の刊行に合わせ、「運とともに/運に抗して──古田徹也著『不道徳的倫理学講義』を読む」というテーマのもと、本書の合評会というかたちで行われました。

AD198309-3EB8-43B2-A8BC-D0AFC59AF7F7.jpeg始めに私から、大雑把にではありますが、本書の紹介とコメントをさせていただきました。本書はまず、「運」がもつ多様な奥行きを明らかにしつつ、「運」の変遷を歴史的に探っていきます。古田先生によれば、「運」は(私たちが通常イメージするような)「偶然」という意味のほかに、それとは相反するような「必然」、さらには「幸福」といった意味をも合わせもっています。こうした多層的な意味をそなえる「運」が、歴史的にどのように扱われてきたのか──本書の醍醐味の一つとして、このことを古田先生の丁寧な論述と共に辿り直していく点が挙げられるでしょう。

「運」の歴史を捉え直す中で、本書の議論は、次第に「運」と「道徳」の関わりへと移っていきます。飛び出してきた人をトラックで轢いてしまった、という「不運」な出来事は、いわゆる「道徳」の枠内では、本来責任を取る必要のないものです。というのも、「人が飛び出してくる」という予想外の出来事(すなわち、「運」が絡む出来事)は、私たちがコントロールできるようなものではないからです。ですが、仮にこういう出来事が起きた場合、私たちは後悔に苛まれたり、誠意を込めて謝罪をしたりするでしょう。「道徳」に反するこうした行為を、私たちはどのように考えればよいのでしょうか。本書のクライマックスにて、タイトルにもなっている「不道徳的倫理学」がどのようなものであるかを、私たちは目撃することとなります。

614BBA89-DB36-405E-8C29-5CC1085F8FB0.jpeg以上のように内容を概観したのち、本学の宮﨑裕助先生からコメントをしていただきました。宮﨑先生はまず、想定外の出来事(すなわち、「運」が入り込む出来事)に対して私たちが必要以上に敏感になっている、という現代の状況を確認することで、「運」を問うことの重要性をあらためて指摘します。加えて、例えばスミスによるストア派への批判について、あるいは「運」がもつ「幸福」の要素についてなど、本書の内容に関するコメントがありました。

そうしたコメントの一つに、「倫理学」の内部における葛藤をどのように捉えるべきか、というものがありました。古田先生によれば、「倫理学」は本来、「人一般にとって正しい行為」を問うのみならず、「この私はどういう生き方を選び取るべきか」という問いも含むといいます。普通はこうすべきなのだが、私はこうしたい──このような葛藤を、宮﨑先生は「遵守すべき倫理」と「現実を創り出す倫理」との葛藤と捉えます。後者の「倫理」をどのように考えるべきか、という本書に残された問いを、宮﨑先生はキルケゴールのイサク奉献の例などを用いて、さまざまな視点から考察していました。

47045BFA-405D-446C-A0D6-824F66CA088A.jpegその後、古田先生からはいくつかの応答が成されました。そもそも本書の試みは、歴史の中で埋もれてしまった「運」についての主張を、「生きた言葉」として蘇らせるものであったということ(この点は先生の著書、『言葉の魂の哲学』の議論とも関わるでしょう)。また、倫理学が問題とするのは主として「不運」な出来事であって、「幸運」と「不運」には非対称性があるということ。こうしたことが、重要な論点として挙げられました。

宮﨑先生のコメントに対しては、カントの思想や言語行為論などをも巻き込みつつ、本書のさらなる拡がりに向けて議論が交わされました。また、とりわけ重要な論点として、「倫理学」という学問の「可能性」(ないし「取り柄」)はどこにあるのか、というものがありました。古田先生の考えは、世界に対する「見方」を変えること、あるいは「見方」を創り出すこと、そうしたことが挙げられるのではないか、というものでした。このような意味では、先述の「生きた言葉」との論点とも関わりますが、本書は「倫理学」に対する新たな「見方」を提供する、という役割も担っているのではないでしょうか。

また、フロアに議論を開いたあとでも、多種多様な論点が見受けられました。そもそも「運」が入り込む出来事はどのように分類できるのか。本書の冒頭にあるように、人生はやはりすべて「運」なのではないか。いずれも重要なものでしたが、考えれば考えるほどに、ますます「運」という概念の複雑さが明るみとなり、このテーマの奥深さを痛感させられることとなりました。

最後になりますが、今回新たに考える素材を提供してくださった古田先生、本学から登壇していただいた宮﨑先生、そして私事ではありますが、卒業生である私にこのような機会を設けてくださった方々に感謝を申し上げ、第35回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

【文責=東京大学総合文化研究科博士前期課程 渡邉京一郎】

2019年9月14日

第34回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

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第34回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に熊本大学の佐藤岳詩先生をお招きし、「倫理学における真理と誠実さ――バーナード・ウィリアムズTruth and Truthfulnessによせて」というテーマのもと開催されました。

unnamed-4.jpg佐藤先生はまず導入として、ポスト・トゥルースと呼ばれる現代の状況では「客観的な事実」と「個人にとって大切なこと」の折り合いの悪さというものがある、とお話されました。そして佐藤先生はこの問題を考えた哲学者としてバーナード・ウィリアムズを紹介され、彼の最後の著作であるTruth and Truthfulnessについて解説して下さいました。

ウィリアムズによると、現代社会には「真理に対する誠実さへの要求」と「真理それ自体への疑いのまなざし」があり、これらを調停することが現代の哲学の課題であるといいます。誠実であることは「正直さ」と「正確さ」という2つの徳によって成り立っていて、また人が誠実であるためには、現実を歪めるような幻想や願望に抵抗する必要があるのです。「正直さ」に関して、ウィリアムズは嘘をついたときの罪悪感や後悔といった感情に着目し、カント倫理学を批判したと佐藤先生は解説されました。

unnamed-2.jpgしかし真理をめぐる話はここで終わるわけではなく、ウィリアムズによると、現代では真理の実在そのものが信じられなくなってきているために、「真正さ」という理想が出てきているそうです。「真正さ」とは「本当のわたし」が存在しているとする考え方に基づいていますが、それはときにエゴイズムやナルシシズムに陥ってしまうものでもあるといいます。「真正さ」について理解を深めるために、佐藤先生はアメリカの哲学者テイラーを紹介されました。テイラーを踏まえてウィリアムズの主張を読み解くと、自己理解は他者との関係の中でしか育まれないからこそ、人は「真正さ」を貶めてしまわないようにするために「正確さ」と「正直さ」を失ってはいけないのだといいます。

Truth and Truthfulnessの最後でウィリアムズは真理の実在について書いていますが、佐藤先生はウィリアムズの論点の掘り下げの甘さに対して批判をしつつも、ウィリアムズの中心にはアイデンティティを巡る思索があったのではないかと考察をされました。しかしまた同時に、佐藤先生はそこがウィリアムズの限界であり、彼が現代倫理学の枠組みから抜け出せないことの事由なのではないか、ということも示唆されて発表を閉じられました。その後は時間を目一杯使っての質疑応答も行なわれ、興味深い議論が展開されました。ポスト・トゥルースという言葉もすでに目新しいものではなくなってしまった現代ですが、真理というものを取り巻く人間の態度について、改めて深く考えるよい機会となりました。

最後になりましたが、今回のセミナーでご講演頂いた佐藤岳詩先生に感謝申し上げ、第34回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学人文学部人文学科 心理・人間学プログラム主専攻 牛澤啓]

2019年7月16日

人間学合宿2019  【イベントの記録】

2019年6月29日~30日、2日間にわたって南魚沼市で人間学合宿を行いました。今年度は、天気予報により合宿当日には高確率で雨が降ることが予想されていました。その予報は残念なことに見事的中し、今回はあいにくの悪天候の中での合宿となりました。

29日の朝10時、新潟大学西門に全員で集合した後、シャトルバス1台と生徒の自家用車1台に分かれて南魚沼へと出発しました。今年は総勢28名と参加人数が比較的多かっため、2台に分かれての移動となりました。

まず初めに立ち寄ったのは「アグリコア越後ワイナリー」です。ここではワインを寝かせる特製の雪室を見学させていただいた後に、ワインの試飲をさせて頂きました。気に入った1本があった人は、お土産用に買ったりもしていました。特にみんなに好評だったのは梅のスパークリングワインでした。

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次に立ち寄ったのは「牧之通り」です。古くは宿場町として栄えた町であり、その景観を残している美しい街並みの通りです。ここには昼食休憩としても立ち寄っており、各々思い思いに昼食をとっていました。バスの集合場所近くの公園で、小さな子たちと交流しているアクティブ(?)な学生達も見られました。

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そして最終的には、今回の宿泊先である「五十沢キャンプ場」に到着しました。今年は例年にない「キャンプ」という形の合宿スタイルをとりました!当初予定していたBBQは、雨のため室内での焼肉となってしまいました。それでもみんなでわいわい下ごしらえをしたり、焼きそばを作ったりして、楽しんでもらえたのではないかなと思います。また翌日の朝ごはんになるカレーも、その際合わせて作りました。みんなで指示を出し合って素早く、適切に調理するというすばらしい団結力を見せてくれました。

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腹ごしらえをした後は、お待ちかねのレクリエーションを行いました(買っておいたほとんどのお酒を焼き肉の時に飲んでしまい、レクの前にお酒を買い足していることは秘密です笑)。今回は5つの班に分かれて、イラストで伝言ゲームをしたり、ヘキサゴン形式でクイズをしたりしました。今回の合宿におけるMVP回答は、やはり「TGC」(正解:Tokyo Girl's Collection)への回答として出た「(T)とっても(G)ガーリック(C)チャーハン」でしょう。

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2日目は、前日に仕込んでおいたカレーを食べることから始まりました。作りすぎてしまい、何人かの学生には朝からヘビーな量を食べてもらいました。

その後、お昼少し前から「八海醸造 魚沼の里」へお邪魔しました。魚沼の里はレストランやお土産屋さん、お酒を寝かせる雪室など複数の施設から成っています。それぞれが思い思いに施設内を回り、クラフトビールを飲んだり、日本酒を試飲したり、お土産に悩むなどしていました。

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魚沼の里が本合宿での最後の観光先であり、そこを出発してからの帰りのバスでは皆疲れている様子でしたが、その中でも一部の学生と教授はワードウルフに盛り上がっていたようです。

今回は異例のキャンプという形での合宿でした。参加してくれた皆さんが少しでも楽しめたなら嬉しいです。人間学内での親睦を深める、充実した時間を過ごせることができたのかなと思います。来年度は天候に恵まれた中、人間学合宿が盛大に敢行されることを祈っています。

[新潟大学人文学部人文学科 心理・人間学主専攻プログラム(人間学分野)4年 渡部諒]

2019年3月28日

ご卒業、おめでとうございます。  【イベントの記録】

3月25日に卒業式ならびに卒業祝賀会がとりおこなわれました。卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。

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朱鷺メッセでの卒業式に引き続き、新潟グランドホテルでの人文学部の卒業祝賀会、そのあとは「おでん処じゅんちゃん新潟駅前店」で謝恩会が行なわれました。

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卒業生の皆さん、あらためて卒業おめでとうございます。新天地での皆さんの活躍をお祈りいたします。

2019年2月 7日

卒業論文発表会(口頭試問)お疲れ様でした  【イベントの記録】

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2019年3月27日

第33回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【NiiPhiS】

第33回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に明治大学の長田蔵人先生をお迎えし、本学からは人文学部の阿部ふく子先生に登壇していただき、「〈コモン・センス〉への問い──近代ドイツ哲学の発展史から」というテーマのもと開催されました。

最初に本学の院生である私の方から、「コモン・センス概念史の概略」として、コモンセンスの古代ギリシアとローマの伝統について簡単な説明を行ない、その後お二人の先生に発表していただきました。

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阿部先生は、「コモンセンスと哲学」と題して、そもそも「コモンセンス(常識)とは何か」という問いから出発してお話ししてくださいました。阿部先生は、過去に行なわれた「普通ではないことは非難されるべきことか」という問いでの哲学対話を取り上げ、何もないところからコモンセンスの定義や源泉を探ってみると、コモンセンスと哲学の間にはある種の前提や葛藤があると気づき、両者の境界がわからなくなってしまう、とおっしゃいます。阿部先生は、哲学においては常識と哲学は異なると分断されがちだが、こうした問題には近代の哲学者たちでさえ悩まされていた、と指摘されます。

阿部先生は、このように常識と哲学の関係を論じた哲学者を、近代ドイツの哲学者に絞って紹介されました。18世紀ドイツは、従来の学校哲学から脱却しよう、哲学を世俗化しようという啓蒙思想が興隆した時期であり、一般の人々の「普通の感覚」に配慮した通俗哲学が流行していたと言えます。この通俗哲学は、その後カントや、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論の哲学者に批判されることになります。阿部先生は、このような流れにコモンセンスVS哲学という対立を見ることができる、と述べられました。

さらに阿部先生は、このようにコモンセンスVS哲学という構図をもちつつも、啓蒙思想の流れのなかで、哲学は引きこもりすぎてはいけないし、通俗哲学も通俗化しすぎて骨抜きになってはいけないと使命感を抱いて、それを折衷しようとした哲学者がおり、それがニートハンマーである、と説明されました。ニートハンマーによれば、「常識とは哲学がそれと矛盾をきたさぬよう尊重するべき「至上の声」という否定的な基準」であるとされます。常識はそれ自体で普遍的に妥当することを求めますが、哲学によって否定され、しかし哲学もまた、常識の「至上の声」に矛盾することがあってはいけない、とされます。お互いに矛盾することなく両立し、かつ哲学が優位にあるべきというのが、ニートハンマーの主張です。しかし阿部先生は、こうしたニートハンマーの主張では、「常識の妥当性の要求=哲学の要求する妥当性要求」ということが結びつかず、そこを明確化したのがヘーゲルであると強調されました。

bPfsgnaFEX4uulx1553714451_1553714513.jpg阿部先生は、20世紀にコモンセンスに取り組んだドイツ哲学者としてローゼンツヴァイクなどについても言及され、最後に現段階での関心や問いに触れて、発表を閉じられました。

長田先生は、「コモン・センスの哲学と批判哲学」というタイトルのもと、コモンセンスの哲学に対するカントの問題意識を、トマス・リードの主張に照らして捉え直すことで、カントがコモンセンスの哲学に対して抱いている危惧の内実をより詳しく理解すること、そしてその理解を通じて、コモンセンスではなく理性の立場をとるべきであるとカントが考えるのはなぜなのかということについて、お話ししてくださいました。

カントにおいてコモンセンスが問題となった背景には、いわゆる「ゲッティンゲン書評」において、通俗哲学者であるガルヴェとフェーダーがコモンセンスの立場からカントを酷評していたということがあります。「ゲッティンゲン書評」は、『純粋理性批判』の「純粋理性の歴史」のなかで、カントがコモンセンスに依拠する自然主義的方法が形而上学の方法として不適切であると述べたことに対して批判しており、これを受けてカントは『プロレゴーメナ』で再批判を行なっています。とはいえ、カントはコモンセンス自体を否定していたわけではなく、コモンセンスVS哲学とは考えていない、と長田先生は指摘されます。たしかにカントは、経験的認識や道徳的判断においてはコモンセンスの役割を認めています。長田先生は、カントがしようとしていたのは、こうした経験の世界を超えるような、神や自由といった伝統的な形而上学の問題において、コモンセンスをいかに正当化できるのかということであって、コモンセンスをコモンセンスによって正当化することはできないので、カントはコモンセンスから離れていくことになった、と説明されました。

続いて長田先生は、「思考方向論文」について言及され、カントが、形而上学的問題を考察するうえで自分たちの思考を正しく導いていくのは、コモンセンスなのか理性なのかという問いを設定し、そのうえで理性の立場を取っている、ということを説明されました。メンデルスゾーンが『朝の時間』において、コモンセンスと理性を同根の能力とみなしているのに対して、カントは両者を区別しなければならない、としています。長田先生は、こうした区別の内実はどのように持たせられるのかということを考えるために、トマス・リードの議論に目を向けるべきとして、論を展開されました。

IMG_1191.jpeg哲学者は、コモンセンスが正しいものを教えてくれるにもかわらず、それをわざわざ理性の法廷にかけて、理性でもって証明しようとしており、それがそもそもの間違いである、とリードは主張します。リードによれば、私たちは物質的世界や心が存在するということを常識的に知っており、それをコモンセンスが教えてくれる信念として理解しています。リードは、そういう信念を成り立たせている原理は、経験的に得られるものでも理性によって証明できるものでもなく、「信念や知識を伴った把促が、単純把促に先行しなければならない」と主張しています。長田先生は、こうしたリードの主張は、カントが超越論的演繹論で述べている、あらかじめ知性が結合したものでなければ、私たちは分析することができないという主張に非常に近く、ヒュームの懐疑論を乗り越えようとするうえで、二人は同じようなアイディアを持っていた、と指摘されます。しかしながら、物質や心の存在といった信念の示唆を受けるというコモンセンスの原理では、自然神学の問題に直結してしまいます。こうしたことを危惧して、原理の妥当性の範囲をきちんと確定すべきだと考えていた点で、カントはリードと異なっていた、と長田先生は強調されます。

さらに長田先生は、こうしたカントの立場を理解するのに役に立つ概念として、「真理の所有」の主張がある、と指摘されます。コモンセンスの主張は、まさに真理の所有であるのに対して、カントは、真理の所有の主張をしようとするのではなく、私たちが真理を獲得できたかできないかを見極める試金石が理性に求められるべきであると考えます。つまり、理性は自分の主張が間違っているかもしれないと考えることができ、だからこそ、理性に信頼がおける、ということになるのです。長田先生は、こうしたカントの主張こそが、常識同士が衝突したときにはどうするのか、ということを考えるうえで役立つのではないか、ということを示唆されて発表を閉じられました。

フロアを交えた議論では、常識のなかにも精査されて保たなければならない常識があるのではないかといった問いや、尊属殺人重罰規定の違憲判決の話と絡めて、社会通念上という文脈の曖昧さについて議論を投げかけるようなコメントもあり、興味深い討議の場となりました。

最後になりましたが、今回のセミナーのために遠方よりお越しくださいました長田先生に感謝申し上げ、第33回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学現代社会文化研究科博士後期課程 高畑菜子]

2018年11月 2日

第32回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

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第32回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に筑波大学から佐藤嘉幸先生、龍谷大学から廣瀬純先生をお招きし、「ドゥルーズ゠ガタリと68年5月」というテーマのもと開催されました。

94BEB758-704F-42B9-8D0B-71E16E029A22.jpeg佐藤゠廣瀬先生のお話は、ドゥルーズ゠ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』「六八年五月は起こらなかった」の読解を踏まえて、68年5月とは何だったのか、ドゥルーズ゠ガタリの政治哲学を通してどのように現代日本の社会状況を読み解くことができるのか、ということを明らかにする興味深いものでした。

『アンチ・オイディプス』において、ドゥルーズ゠ガタリは服従集団と主体集団とを対比させています。服従集団では、欲望が権力に従属します。それに対して、主体集団では、権力が欲望に従属します。欲望が権力に服従しないという意味で、主体集団は分裂者的です。佐藤先生は、68年5月に自然発生的に生まれ、各地の闘争の指揮をとった講堂委員会こそ、分裂者主体集団ではないか、とおっしゃいました。

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『千のプラトー』では、マイノリティ公理闘争とマイノリティ性への生成変化が主題となります。マイノリティ性への生成変化とは、平たく言うと人々がマイノリティ性になるということです。佐藤先生は、『アンチ・オイディプス』でも『千のプラトー』でも、主体集団の実現の前には必ず、利害や法権利の水準での闘争があることを強調されました。

廣瀬先生は、「六八年五月は起こらなかった」からドゥルーズの変化を読み取ります。廣瀬先生は、ドゥルーズとともに68年5月を政治的にも経済的にも安定した「よかよか社会」で起こった純粋な出来事ととらえます。ドゥルーズにとって、もはや68年5月はマイノリティを前にしたマジョリティの闘争でした。マジョリティは、自らがマジョリティであるという現状に「恥辱」を感じて、マイノリティ性へと生成変化します。それは、新たな主体性への創造的な転換なのです。

IMG_1182.jpeg質疑応答では、生成変化するとはどのようなことであるか、グローバルな巨大資本に対するわれわれのイメージ、ドゥルーズの政治的な立場における葛藤といった事柄について活発な議論が交わされました。また、SEALDsような近年の話題に触れる場面もありました。予定していた終了時間が40分も延長になり、非常に白熱したセミナーとなりました。

最後ではありますが、今回のセミナーでご講演していただいた佐藤嘉幸先生、廣瀬純先生に感謝申し上げ、第32回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学人文学部人文学科心理・人間学プログラム専攻 金田康寛]

2018年7月19日

第31回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【NiiPhiS】

第31回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に慶應義塾大学から山内志朗先生をお招きし、「〈その後の〉普遍論争」というテーマのもと開催されました。

IMG_1150.JPG中世における最大の論争である「普遍論争」は、唯名論、概念論そして実在論という三分類図式で捉えるのが通例でしたが、これまでの研究でそれが不適切であるという理解が浸透してきています。しかしながら、そうなると、どのように普遍論争を理解すべきかということが問題となります。山内先生は、『普遍論争』(哲学書房、1992年)において普遍論争を扱ってから、多様な観点から普遍論争に取り組んできたが、その過程では中核にたどり着けずさまざまな問題に直面したとおっしゃっていました。そのなかで、本セミナーでは、『普遍論争』の出版背景の秘話を導入とし、『普遍論争』の〈その後〉の話と、ドゥンス・スコトゥスとオッカムの対比という普遍論争の中心部分が、〈その後〉どのように展開していったかについて話してくださいました。そして「存在概念」に関連したイスラム哲学、オッカムなどに拘らざるを得なかった理由と、その結果報告もなされました。

IMG_1153.JPG普遍論争での三分類図式が不適切であるという見解は浸透しているものの、そもそも「実在論」と「唯名論」の対立軸も曖昧であり、概念の分類だけが一人歩きしています。ここで確実なのは、普遍が事物の中に客観的に実在すると主張する人も、普遍は名のみのものでしかないと主張する人も存在しなかったということであるのです。つまり、普遍論争においては「実在論」VS「唯名論」という二大対立さえ消え失せてしまうのであり、複数個に区別されうるのです。ここで山内先生は、普遍論争は普遍についての論争でなかった、というねじれを示唆しています。しかし、互いを区別し判然とさせるためには、ある種のメルクマールが必要になります。山内先生は、そこで最大のポイントとなるのが「形相性」と「形相的区別」であると主張されます。つまり、形相性と形相的区別が、普遍論争を読み解くカギとなるのです。

IMG_1154.JPG今回の山内先生の講演を通じて、これまでの普遍論争の構造が大きく破壊され、普遍論争によって包まれていた中世哲学というベールがはがされていく感覚をもちました。哲学史のなかでも複雑で難解な中世哲学という分野を理解するうえで、新たな道標となる講演であり、中世哲学をより深く学ぶ必要性を感じるよい機会となりました。そして、山内先生の著書『普遍論争-近代の源流としての』(平凡社、2008年)は、研究蓄積が十分とは言い難い「普遍論争」について論じられている貴重な邦訳文献であると同時に、附録としての「中世哲学人名小辞典」によって多くの知識を与えてくれる入門書と言えます。私自身再読する必要性を感じていますし、皆様にも一読をお勧めします。

最後ではありますが、今回のセミナーでご講演していただいた山内志朗先生に感謝申し上げ、第31回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

 

[文責=新潟大学現代社会文化研究科修士課程 鈴木大次郎]

2018年7月10日

人間学合宿2018  【イベントの記録】

6月30日~7月1日、佐渡市にて人間学合宿を行いました。初日、大学周辺はゲリラ豪雨に見舞われたようですが、佐渡は良い天気に恵まれました。まず、佐渡金山にて明治期以降の坑道や設備を見学しました。男子学生たちは、純金延べ棒の取り出しに苦戦していましたね。続いて長谷寺にて、座禅体験や住職の法話、寺宝見学に参加しました。境内にはたくさんのウサギが放し飼いされていました。座禅中、なんと住職の懐から子ウサギが出てきました。ウサギが気になって座禅どころではなく、皆煩悩を抑えることの難しさを味わったのではないでしょうか。その後、尾畑酒造で佐渡の地酒を堪能し、妙宣寺、大膳神社を訪れました。
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宿泊先の「きらく」では、佐渡らしい豊富な海の幸やおけさ柿のシャーベットが振る舞われました。浴場から一望できる加茂湖は、夕日に照らされて綺麗でしたね。夕食後は、恒例のレクリエーションが行われ、優勝したグループには先生方からの景品が贈呈されました。その後の宴会では、各々自己紹介や人間学らしい談義に花を咲かせ、親睦を深めることができました。
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二日目も絶好の合宿日和でした。行程は、西三川ゴールドパークにて砂金採り、たらい舟体験、そして宿根木の街歩きと続きました。最後までなかなか砂金が採れず、やっと1、2個採れたという人がいる一方で、多い人では5個以上も採れたようです。宿根木では険しい岩礁から成る地形に興奮し、童心に返って海岸を散策しました。また北前船の寄港地と発展してきた迷路のような町並を巡り、ノスタルジックな想いに駆られました。深夜まで続いた宴会の所為か、帰りのバスやフェリーの中では、皆ぐったりして疲れ切っていました。
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今回佐渡を合宿先に選んだのは、異例の試みだったようです。ですが、佐渡やフェリーは初めてという学生が多く、また豊富な体験ができ、とても有意義な時間を過ごすことができました。来年度以降も、こうして人間学一同の親睦が深められることを祈っております。

 

新潟大学人文学部人文学科 心理・人間学主専攻プログラム(人間学分野)4年 住吉竜一]