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2021年3月 5日

カントにおける法哲学  【NiiPhiS】

第40回 新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS) 

カントにおける法哲学


講師 石田京子(慶應義塾大学)

日時 2021年3月4日(木)16:30~18:00
場所 新潟大学 五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F棟5階 人間学プロジェクト・スペース

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◎ 登壇者プロフィール:石田京子(いしだ・きょうこ)慶應義塾大学文学部准教授。専門は、カントの法哲学。カント哲学体系の内部における法と道徳のつながりや、それがカントの法理解にどのような影響を与えるのかを中心に研究している。主要業績として、著書に『カント自律と法──理性批判から法哲学へ』(晃洋書房、2019年)、共著に『新・カント読本』(法政大学出版局、2018年)、『入門・倫理学の歴史──24人の思想家』(梓出版社、2016年)、共訳書に『自由の秩序──カントの法および国家の哲学』(ミネルヴァ書房、2013年)他。


◎ 新潟哲学思想セミナー(Niigata Philosophy Seminar:通称 NiiPhiS[ニーフィス])とは 
2009年に新潟大学を中心に立ちあがった公開セミナーです。新潟における知の交流の場となるよう、毎回、精力的にご活躍の講師をお招きして、哲学・思想にまつわる諸問題に積極的に取り組んでいきます。参加費、予約等は不要です。どなたでもご自由にご参加ください。

主催:新潟哲学思想セミナー
共催:新潟大学間主観的感性論研究推進センター/同 人間学研究交流費

お問い合せは阿部まで
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→ポスターはこちら

2021年1月 8日

第39回新潟哲学思想セミナーが開催されました  【NiiPhiS】

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第39新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に早稲田大学の星野太先生をお招きし、「概念のアトリエ──ジャン゠フランソワ・リオタールの講義録から見るフランス現代思想」というテーマのもと開催されました。講演はタイトルにもある「アトリエ」という言葉についての解説から始まりました。リオタールは『漂流の思想』において、美学を「もっとも判別力のある批判的概念を鍛えるための仕事場」であると述べています。

リオタールは1954年に最初の著書『現象学』を出版した後、長らく社会主義運動(「社会主義か野蛮か」、「労働者の権力」)に身を捧げていました。次に著作を発表したのは1971年『言説、形象』です。政治運動を経て発表された『言説、形象』でリオタールが一貫して対象としていたのは「美学」でした。ここでしばしば言われるのは「政治」から「美学」への転向ということです。しかしリオタールにとっては両者が独立した分野として存在するのではなく、美学の問題は同時に政治の問題にほかなりませんでした。「判別力のある批判的概念を鍛えるための仕事場」としての美学と言ったとき背景にあるのは、リオタールの思想における政治から美学への「転向」ではなく、政治と美学が地続きになった領域であったと星野先生は主張されます。

1971年に『言説、形象』を発表して以降、リオタールは自身のキャリアにおいて「概念のアトリエとしての美学」を理論的な著作や展覧会といった実践的な形を通じて明らかにしていこうとします。『言説、形象』は哲学者としての最初の主著と言えます。リオタールを一躍有名にした『ポストモダンの条件』や『文の抗争』、さらには1985年にポンピドゥー・センターで行なわれた展覧会「非物質的なものたち(Les Immatériaux)」(以下「非物質」展)などもリオタールの主要な仕事として挙げられます。

149F6655-C36B-408F-8099-20C172B84E35.jpg星野先生は、続いて今日のリオタール研究について紹介してくださいました。日本語圏でのリオタール研究が進展しない一方、英語圏においてはリオタールの読み直しが盛んに行なわれています。例えば、加速主義の一種として、リオタールの『リビドー経済』をはじめとする著作が加速主義のプロトタイプとして読み直されているといった状況や、リオタールの「非物質」展についての論集(30 Years after Les Immatériaux, 2015の出版、さらには2019年に中国美術学院にて企画された、『ポスト・モダンの条件』の40周年を記念したシンポジウムなどがあります。

 次に、リオタールの『崇高の分析論──カント『判断力批判』についての講義録』(以下『崇高の分析論』)の紹介へと移ります。リオタールが80年代において最も力を入れていたプロジェクトの一つが、「崇高」の美学の再検討でした。なかでも『崇高の分析論』はリオタールの崇高論を最も包括的に扱った書物です。しかし、だからといって『崇高の分析論』においてリオタール独自の崇高論のアイデアが存分に込められているわけではない、という点に注意が必要であると星野先生はおっしゃいます。本書は書物というよりは、リオタールが80年代に行なったカント『判断力批判』の第23節から29節に相当する「崇高の分析論」の講義ノートと言った方が適切かもしれないとのことです。本書で採用されているのは、フランスの高等教育における伝統的な精読の作法「エクスプリカシオン・ド・テクスト(explication de texte)」と呼ばれているものです。それはリオタールが自身のアイデアを込めたり、関連資料を外部から持ち込んで読解するというのではなく、あくまで当のテクストに即してそのなかに説明を見出そうとする態度であると言えます。

リオタールを『ポスト・モダンの条件』の名のもとに知る読者にとって、近代(モダン)を代表する哲学者であるカントの名前が登場することに多少の驚きを覚えるかもしれません。しかし『文の抗争』や『熱狂──カントの歴史批判』といった80年代に発表されたリオタールの書物に通じていれば、そこでカントの名前が挙がることは妥当であると言えるでしょう。

 20世紀後半の「フランス現代思想」において、カントはもっとも盛んに論じられた哲学者の一人でした。リオタールだけではなく、同時代に活躍した、フーコー、ドゥルーズ、デリダといったフランスの哲学者たちもカントについての書物を残しています。では彼らはどのような視点からカントに取り組んだのか。それは、カント哲学の体系(建築術)を崩しうる「穴」はどこなのか、といった点から読み直されました。そのときに哲学者が焦点を定めたのが、『判断力批判』における「崇高なものの分析論」でした。

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次に 星野先生は、リオタールの崇高論の具体的な内容に話しを移されました。リオタールの崇高論を考える際にカントと並んで重要になるのが、エドマンド・バークの崇高論です。リオタールが自身の崇高論において「呈示しえないものの否定的呈示」と言うときには、カントの崇高論をモデルとしています。カントは純粋なる〈理念〉や無限の力、絶対的な大きさ、などを空間や時間において呈示することはできないと述べています。しかし、カントが「否定的呈示」と名付けるものによって、それらが呈示不可能である、というそのこと自体を間接的に「喚起する」ことはできます。いささか込み入った記述ですが、リオタールはこの「否定的呈示」のモデルを、自身の前衛芸術論において取り入れています。他方で、リオタールがアメリカの美術家バーネット・ニューマンの絵画を論じる際には、カントの否定的呈示の崇高論ではなく、バークの崇高論が採用されています。バークの崇高論は間接的な暗示ではなく、直接的な「呈示゠現前」に基づくものです。リオタールの崇高論には、「呈示しえないものの否定的呈示」(カント)と「呈示そのもの」(バーク)の二つのモデルが混在しているのです。こうしたリオタール独自の視点から展開された崇高論は、80年代の著作『子どもたちに語るポストモダン』や『非人間的なもの』において積極的に扱われています。

しかしこれらの書物が「リオタールの」崇高論であるのに対して、『崇高の分析論』は少し性格が異なります。『崇高の分析論』はリオタール独自の視点が前面的に打ち出された書物というよりも、リオタールによるカントの哲学の綿密な注釈書、つまり「エクスプリカシオン・ド・テクスト」〔゠精読〕としての側面が強い書物です。しかし、そういった性質の違いがあるにもかかわらず、『非人間的なもの』をはじめとする80年代の著作群で展開されているリオタール独自の崇高論と、カントの綿密な読解である『崇高の分析論』はしばしば同列に扱われてきました。前者では抽象表現主義や前衛芸術との関連で崇高を論じているのに対して、後者はカントのテクストに沿った読解であり、文脈や目指す方向がそもそも異なります。星野先生のご講演では、この点が強調されました。最後に、『非人間的なもの』におけるリオタール独自の崇高論の展開と、リオタールのカント読解、すなわちカントの概念がどのように翻訳され、リオタールの著作に反映されているのか、といった点についてそれぞれケーススタディが紹介されました。

 未だ「ポストモダン」という言葉との関連で語られることが多いリオタールについて、これまであまり紹介がなされてこなかったリオタールの哲学や、近年のリオタール研究の動向についてお話し頂き、大変貴重な時間となりました。最後になりますが、ご講演いただいた星野太先生に深く感謝申し上げ、第39回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学現代社会文化研究科博士前期課程 長谷川祐輔]

 

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2020年11月26日

第38回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【NiiPhiS】

第38回哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に京都大学の武田宙也先生と松本卓也先生をお招きし、本学からは阿部ふく子先生が登壇し、「小さなことのコレクティフ──ジャン・ウリ「制度を使う精神療法」を考える」というテーマのもと開催されました。

武田先生からは、フランスの精神分析家ジャン・ウリの思想において統合失調症者の創造行為がどのような意味を持つのか、またそれと関連するかたちで精神治療の場の構造についてお話しいただきました。

ウリによると、統合失調症者は自己と世界の境界をうまく画定することができず、自らが作り出す作品と自分自身を切り離すことができません。そのため、統合失調症者の創造行為においては、外的なオブジェクトと同時に自己に形を与えることが問題となります。この、自己の再構築と不可分な創造のプロセスをウリは「形態化」と呼び、統合失調症者の「生き延び」に必要不可欠なものであるとみなします。というのも、統合失調症者は何らかの要因によって自己という単一性が損なわれている、と考えるウリにとって、その創造行為によって形作られた作品は、欠損した彼らの単一性の代用物であるように思われるからです。このような作品は概して、生活の中にある雑多ながらくた(糸くずや布切れ、鏡の破片など)を収集しブリコラージュすることによって構築されます。武田先生によると、「ブリコラージュ」という語にレヴィ゠ストロースが与えた含みに着目するならば、ウリが統合失調症者の自己に持っていたイメージを次のように言い表すことができます。すなわち、統合失調症者の自己とは、ありあわせの雑多ながらくたを使いその時々の状況に応じて仮説的に構築されるものである、と。

スクリーンショット 2020-12-07 23.19.07.pngそのためウリは、精神病者の治療には彼らを取り巻く環境に働きかける必要があると考えました。その際、環境はできるだけ多くの差異化された要素によって構成されることが重要となります。なぜなら、ウリの考えでは、そうした多様な帯域を横断することによって患者は、複数の場所にリビードを充当させ、様々な人やモノと結びつき、一つの集合体、すなわち「コレクティフ」を形態化させるからです。

この集合体(コレクティフ)としての自己のイメージは、共同性の問題系にも開かれています。というのは、安定した自己に立脚して他者と関係するといったような共同性の支配的なモデルとは異なるものをコレクティフは想起させるからです。「他なる共同性」の具体例の一として、武田先生はフェルナン・ドゥリニィの「地図の実践」を提示します。地図の実践とは、自閉症の子どもたちとの共同生活において、一日の移動の軌跡を描くことで、特異な地図を作製する試みです。ドゥリニィは、子どもたちの軌跡にみられる特徴に着目することによって非言語的なしるしを導入し彼らとのコミュニケーションを構築しました。

松本先生からは、〈思想・臨床・政治〉のかたちが、1968年前後の世界規模での運動を経験する中でどのように変化したのか、いわば68年からポスト68年への〈思想・臨床・政治〉の変化の見取り図を、中井久夫、上野千鶴子、当事者研究といったトピックに即してお話していただきました。

松本先生によると、権力構造の非対称性に対抗する政治的運動が盛り上がりを見せた60年代後半、精神医療の領域においても医師―患者関係の是正をめぐって激しい運動が展開されました。そのさなかにあって、著書で医局制度を痛烈に批判したことでも知られる中井久夫は特異な位置を占めます。というのは、中井は最前線に患者を絶たせるような運動のあり方に批判的だったからです。中井はむしろ、運動後に病が悪化する患者を診る「翌日の医者」でした。運動に対するこのような距離の置き方や、単に医局を否定するのではなく、その有用性を巧みに利用する必要があるという趣旨の医局制度批判を展開させた中井の態度は、とりわけ統合失調症の治療の捉え方に見られます。中井の考えるところでは、患者の治療のために重要なのは、社会の多数派に患者を同一化させることではなく少数者として巧みに生きていくための方途を探ることでした。

松本先生は、こうした中井の姿勢と上野千鶴子の思想との類似性を指摘します。『生き延びるための思想』のなかで、死地に赴くテロリストの革命的な思想に対置させる形で、自身を「生き延びるための思想」に位置付ける上野は、万人に共通する普遍解という虚構をくずすことによって、マイノリティがマイノリティのまま尊重され、生き延びていくことを目指しました。そのためには、ゲームのルール(普遍解)に従うのではなく、個々人でバラバラのニーズを満たすためにゲームのルールを作りかえ続ける作業が必要となります。

次いで松本先生は、当事者研究の一例として「べてるの家」という場所での精神障害等を抱えた人々の活動を取り上げました。松本先生によると、障害者のニーズが当事者によって研究されるこの場所において特に重要なのは、研究が一人で行われるわけではないということです。というのも、この場合のニーズとはもともとあるものではなく、仲間たちとの関係のなかからダイナミックに生まれるものだからです。他者に開かれることによって自身のニーズを見出すことが可能となるという当事者研究の考えには、個体的なものでありながら集合的でもある自己というウリのコレクティフとの類似を指摘することができるでしょう。


スクリーンショット 2020-12-07 23.10.01.png阿部先生からは、実践とは何かという問いのもとで、実践と理論との関係の複雑さ、実践と理論を行き来するウリの身振り、また、ブルデューとウリの文章を比較することによって見えてくる実践と理論の閾についてお話していただきました。

この二つの領域のあいだを全くの断絶として考えるフランスの社会学者ピエール・ブルデューは、実践には理論に還元することのできないものが含まれていると述べています。実践を反省的に振り返るという行為は、実践の持つアクチュアルな面を縮減してしまうというわけです。実践を語りえないものと捉えるこのようなブルデューの実践感覚の純粋な境地においては、実践と理論とが結び付くことはありません。ウリの実践感覚はブルデューのそれと好対照をなすものです。というのも、実践の正当性について問われたウリは、それを、超越論的なものと経験的なものの領域のあいだ、すなわち実践と理論の閾の分節と接合にもとめるからです。また、ウリは実践と理論を単なる二項対立として捉えず、理論を実践に包摂させます。実践の中で理論化が試み続けられなければならないというのです。

このウリの実践感覚について、阿部先生はウリのとあるエピソードを取り上げます。それは「コレクティフ」の理論に関するものです。「コレクティフの弁証法的(dialectique)機能」という発表タイトルが「識別(diacritique)機能」と間違った状態で印刷された用紙を見たウリは、とある患者とのやり取りを回顧しながら、コレクティフには識別機能があることを認識します。つまりウリは偶然の誤植を契機にコレクティフの理論に変更を加えたのです。ウリにとっては、実践と理論の関係を考えるときに、実践の中での人々との偶然の関わり合いが非常に重要なものとなっていると言えるでしょう。

他者に開かれている場や自己としての「コレクティフ」の概念が様々な具体例のもとで明快なものとなり、非常に勉強になりました。最後になりますが、ご講演いただいた武田宙也先生、松本卓也先生、そして阿部ふく子先生に深く感謝申し上げ、第38回新潟思想哲学セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学現代社会文化研究科博士前期課程 髙橋 駿]

2020年2月14日

人間学共有スペースを掃除しました。  【イベントの記録】

2月10日に、卒業する4年生が中心となって、年度末の大掃除を行ないました。今年は、掃除道具の買い出しから人間学資料室のPC台の撤去・機材の配置換えまで、学生主導のもと行われました。
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2019年度 人間学分野 卒業論文発表会(口頭試問)  【イベントの記録】

2020年2月6日(木)に、人間学分野の卒業論文発表会(口頭試問)が行われました。
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口頭試問のあとは、第一食堂で恒例の追いコンがありました。
4年生はもちろん、今年は2年生や3年生も多く参加し、賑やかで楽しい会となりました。

第37回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

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第37回哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に東北大学の佐藤駿氏と小原拓磨氏をお招きし、本学からは高畑菜子氏が登壇し、「他者への問い――〈あなた〉は私にとって何者なのか?」というテーマのもと開催されました。

初めに、高畑氏からカントの良心論についてお話をいただきました。一般的には、カントの倫理学において「他者」の入り込む余地はないように思われています。どのようにしてカント倫理学で「他者」が自己と関わるのでしょうか。そこでカントの「他者」概念に関わるものとして、カントの良心論の解説をして頂きました。

カントの良心についての一つの叙述として、『人倫の形而上学』の第二部「徳論の形而上学的定礎」いわゆる「徳論」が挙げられます。ここでは良心は誤ることがないという議論を法廷モデルにおいて説明しています。こうした良心の法廷モデルにおいて主観の中に「他者」が現われるとしました。

そしてこのような良心の法廷モデルにおいて審判を正確に行なうために「誠実さ」を必要とします。この「誠実さ」という概念は、カント倫理学において特定の立ち位置が確立されてはいませんでした。このような「誠実さ」は自己から他者へ汎通する徳であり、カント倫理学における「他者」概念の把握の根底的な位置を占めていると考えることができるとし、カントの良心論の解説を締めくくっています。

IMG_0349.jpg次に、佐藤氏にフッサール現象学の立場から、他者についてお話しいただきました。佐藤氏は、自己を否定するものとして他者を捉えます。

現象学は、その性格上「自我論(エゴロギー)」として始めなければなりません。けれども、まさにそのために自己とは異なる主体である他者が問題になってくるのです。私が経験する世界は、私だけのものではなく他者の世界でもあり、〈万人にとってそこにある〉ということが前提とされているとフッサールは考えます。このことが意味するのは、他者経験を現象学的に考察することが、「客観性」の問題を考えることにもなるということです。

他者は、どのように私に現われてくるのでしょうか。純粋に私固有な世界、すなわち原初的(primordial / primordinal)世界には、他者はまず身体(Leib)として現われます。そうなると私は、身体を持つ他者を見ると同時に、それにもよって見られていることを意識せざるをえません。原初的世界は私固有な世界であるにもかかわらず、私の身体及び他者の身体が属しているために〈私たち〉の世界と言えます。けれども、そこには語りかける「私」も、語りかけられる「あなた」も存在しません。原初的世界には人称性がないのです。 

「私」と「あなた」がはっきりと現われてくるのは、二人が話し合いにおいて意見が対立しているときではないかと佐藤氏は考えます。つまり、他者、そして私自身が、自分が述べたことが否定されるという経験を通じて、それぞれ相互に現象するのではないかということです。私は他者による否定を通じて世界をよりよく知るという可能性を有しているとも言えます。 佐藤氏はフッサールの他者分析をもとにして、身体的な現象として他者が経験されることをまず示しました。そのあとで、会話での意見の対立を通して、〈私〉を否定しうる者としての他者が経験されると述べられました。

 最後に、小原氏にデリダの他者論について発表していただきました。デリダの考える「他者」は、通常想定される「他の人間」という意味だけではありません。デリダによれば、autre(他者、他なるもの)が語るのは、消え去るもの、あるいは現象しないものなのです。 

IoGcNC4q43RiCpD1581612733_1581612888.jpgデリダは、フッサールの他者論に言及します。フッサールが述べているのは、他者が自我(エゴ)に還元不可能なものとして現われてくるということだとデリダは言います。レヴィナスは、フッサールが他者を「エゴの現象」として自我に同化していると解釈しました。けれどもデリダによれば、フッサールは他者を自我に還元不可能なものとして考えていたのです。

フッサールやレヴィナスを手掛かりにしつつ、そもそも現れないものとしての他性についてデリダは思考します。そもそも、私(自同者)にとって他者が他者として現われる事象、あるいは自同者が他者とともに現われる事象とは何なのでしょうか。まずそのように自と他が問題とされるためには何よりもまず両者がそれとして現れなければなりませんが、そのように自と他を区別して空間化し、差異ある者として現われさせる働きが「差延」なのです。

デリダは、西洋哲学は音声中心主義であったと言います。声が、主体の自己現前、意識、精神、ロゴス、真理を表現してきたものなのです。デリダはこれらの「音声(phoné) 」としての声とは別種の声として、ハイデガーの「存在の声」を採り上げます。存在の根源的な意味は、言葉にならず、したがって声にもなりません。ハイデガーによれば、 「存在の声」を聴くことができるのは詩人なのです。詩人は「存在の声」を聴き取り、それを自らのうちに、自己の傍らに(bei sich)、 ひとつの無言の声として携え(tragen)、 この声に応答する責任を引き受けます。

往々にして、詩人の言葉は理解されません。ハイデガーは詩人を初物(Erstlinge)とも表現し、初物は供され犠牲になってしまうと言います。デリダは Erstlinge を les initiateur(創始者、先駆者)と仏訳し、新たに創設する者あるいは真理を最初に語る者は、体系に属さず、常に排除されていると述べます。この意味で、創設者である他者は現われません。体系の創設者は排除され、痕跡しか残っていません。起源において排除された他者の声、痕跡としての声に耳を傾け、友の声に耳を開くことのできることが、「脱構築」なのです。

 長くなってしまいましたが、それだけ内容が濃く、実りあるセミナーでした。最後に、ご講演いただいた佐藤駿氏、小原拓磨氏、そして高畑菜子氏に深く感謝申し上げ、第37回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学人文学部 心理・人間学プログラム 人間学主専攻 山田太朗、横田剛志]

2019年11月 5日

第36回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

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第36回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に山形大学の柿並良佑先生と立命館大学の山本圭先生をお招きし、「情の時代のポピュリズム──情動とカリスマから考える」というテーマのもと開催されました。

はじめに、柿並先生から「情動(の政治)」について考えるとはどのようなことかについてお話して頂きました。柿並先生によると、情動と政治の両者は切り離されない関係性にあります。情動と政治の関係性について、多くの思想家がわれわれの情動・感情をいかに動員し組織するのかを問うています。しかし、そもそも情動とは何でしょうか。柿並先生はこの根本的な問いについて、さまざまな思想家の考察を用いながら解説して下さいました。4400.jpgたとえばフロイトによれば、情動(affect)とは同一化(個人の心理は常に集団との関係の中で決定すること)の本質であり、情動の本質は両価性(ambivalence)です。ただしジャン=リュック・ナンシーは、フロイトが情動の本質を両価性としながらも、両価性の単純な論理を成立させるには至っていないと指摘しています。つまり情動とは、ある対象に向ける愛と憎悪という相反する単純な感情ではないということです。ナンシーは、情動について「情動は、あると言えるとすれば、ソレ〔ça〕でしかありえない」と述べています。ソレとは何か。柿並先生はフロイトでいうところのエス、英語で表現するならば It だと説明し、「私」を駆り立てる何かなのだと解説して下さいました。情動とは何かについて解説して頂いたのち、次に情動論的転回について情動とメディアの関係性を題材にお話しして下さいました。柿並先生によれば、われわれの情動はミクロレヴェルで社会に管理されているといいます。たとえば Twitter がこれにあてはまります。 Twitter の「いいね」は反射的な情動だと柿並先生は仰いました。なぜなら、Twitter の「いいね」は「「いいね」の数が多いから」、「なんとなくおもしろい」といったその場のノリからくるものだからです。この「いいね」という情動には何の深みも無く、非常に動物的だと柿並先生は指摘しました。柿並先生のお話から、われわれの情動はインターネットが発展した現代社会において、ミクロレヴェルで管理された結果、もはや「私」を駆り立てる人間的な何かではなく、流され飼い慣らされた動物的なものへと変化しつつあるのではないかと考えられました。

次に、山本先生からポピュリストと政治的カリスマについて、指導者という観点から解説して頂きました。山本先生はまず導入として、シャンタル・ムフが強調する左派ポピュリズムについて紹介することによって、衆愚政治などと揶揄されてきたポピュリズムのポジティヴな面を紹介してくださいました。IMG_1223.jpgムフによれば、新自由主義的な緊縮政策によって、大多数の人々は政治的に無力化されています。そして左派にとっての唯一の対抗手段が左派ポピュリズムだといいます。左派はポピュリズム戦略に訴えることで、エスタブリッシュメントに対抗する勢力をまとめあげ、自由民主主義を回復しなければならないというのがムフの主張です。左派ポピュリズムの勢力をまとめ上げるには指導者が必要です。山本先生はマックス・ウェーバーの指導者民主主義を踏まえながら、官僚制に対抗する指導者による民主主義の必要性について説明してくださいました。それではどのような指導者が必要なのでしょうか。そして、そもそも指導者とは何なのでしょうか。この問いへの大きなヒントとなるのがカリスマです。山本先生によれば、政治指導者は大衆の票を集める能力だけでなく、政治のために生きるカリスマを備えた人物です。では、カリスマとは何でしょうか。山本先生は思想家によるカリスマ論の射程を紹介しながら、カリスマ論についてお話してくださいました。ウェーバーは『権力と支配』のなかで、カリスマとは「「信奉者」によって、じっさいにどのように評価されるか」が重要だと述べています。つまり、ウェーバーによるカリスマにとって重要なこととは、何より従う側からの評価ということです。ロジェ・カイヨワは『聖なるものの社会学』のなかで「カリスマ的権力は、いぜん夢遊的・催眠的・眩暈的・法悦的な力として存在している」と述べています。カイヨワはカリスマの力を非現実的なものとして捉えているのがわかります。ウェーバーがカリスマを民主主義と結び付けて、カイヨワがカリスマを非現実的な巨大な力と結び付けて評価しているなかで、ハンナ・アレントはカリスマを全体主義と絡めて論じており、『全体主義の起源』のなかで、全体主義の指導者は「いつでも取り替えがきく」と述べています。そして、カリスマとはその人物が持つ唯一性であるといった、ヴァルター・ベンヤミンのアウラ論とカリスマ論を結びつけた主張もあります。

カリスマとは何かについて知ることは、政治指導者が本当に指導者にふさわしい人物なのかを冷静に判断する大きな材料になるのではと思いました。

柿並先生と山本先生のお話は、民主主義とも衆愚政治とも呼べない、曖昧なポピュリズムが蔓延している現代社会について考え直す良い機会となりました。メディアやインターネットの情報や指導者の過激な発言に魅せられた情動によってポピュリズムを形成していくのではなく、自分の意志と理性をもって判断することがポピュリズムの重要な要素であるのではないかと感じました。

最後になりましたが、今回のセミナーでご講演頂いた柿並良佑先生と山本圭先生に感謝申し上げ、第36回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学現代社会文化研究科修士課程 田中宥多

2019年9月18日

第35回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

第35回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に東京大学の古田徹也先生をお招きし、先生の著書である『不道徳的倫理学講義──人生にとって運とは何か』の刊行に合わせ、「運とともに/運に抗して──古田徹也著『不道徳的倫理学講義』を読む」というテーマのもと、本書の合評会というかたちで行われました。

AD198309-3EB8-43B2-A8BC-D0AFC59AF7F7.jpeg始めに私から、大雑把にではありますが、本書の紹介とコメントをさせていただきました。本書はまず、「運」がもつ多様な奥行きを明らかにしつつ、「運」の変遷を歴史的に探っていきます。古田先生によれば、「運」は(私たちが通常イメージするような)「偶然」という意味のほかに、それとは相反するような「必然」、さらには「幸福」といった意味をも合わせもっています。こうした多層的な意味をそなえる「運」が、歴史的にどのように扱われてきたのか──本書の醍醐味の一つとして、このことを古田先生の丁寧な論述と共に辿り直していく点が挙げられるでしょう。

「運」の歴史を捉え直す中で、本書の議論は、次第に「運」と「道徳」の関わりへと移っていきます。飛び出してきた人をトラックで轢いてしまった、という「不運」な出来事は、いわゆる「道徳」の枠内では、本来責任を取る必要のないものです。というのも、「人が飛び出してくる」という予想外の出来事(すなわち、「運」が絡む出来事)は、私たちがコントロールできるようなものではないからです。ですが、仮にこういう出来事が起きた場合、私たちは後悔に苛まれたり、誠意を込めて謝罪をしたりするでしょう。「道徳」に反するこうした行為を、私たちはどのように考えればよいのでしょうか。本書のクライマックスにて、タイトルにもなっている「不道徳的倫理学」がどのようなものであるかを、私たちは目撃することとなります。

614BBA89-DB36-405E-8C29-5CC1085F8FB0.jpeg以上のように内容を概観したのち、本学の宮﨑裕助先生からコメントをしていただきました。宮﨑先生はまず、想定外の出来事(すなわち、「運」が入り込む出来事)に対して私たちが必要以上に敏感になっている、という現代の状況を確認することで、「運」を問うことの重要性をあらためて指摘します。加えて、例えばスミスによるストア派への批判について、あるいは「運」がもつ「幸福」の要素についてなど、本書の内容に関するコメントがありました。

そうしたコメントの一つに、「倫理学」の内部における葛藤をどのように捉えるべきか、というものがありました。古田先生によれば、「倫理学」は本来、「人一般にとって正しい行為」を問うのみならず、「この私はどういう生き方を選び取るべきか」という問いも含むといいます。普通はこうすべきなのだが、私はこうしたい──このような葛藤を、宮﨑先生は「遵守すべき倫理」と「現実を創り出す倫理」との葛藤と捉えます。後者の「倫理」をどのように考えるべきか、という本書に残された問いを、宮﨑先生はキルケゴールのイサク奉献の例などを用いて、さまざまな視点から考察していました。

47045BFA-405D-446C-A0D6-824F66CA088A.jpegその後、古田先生からはいくつかの応答が成されました。そもそも本書の試みは、歴史の中で埋もれてしまった「運」についての主張を、「生きた言葉」として蘇らせるものであったということ(この点は先生の著書、『言葉の魂の哲学』の議論とも関わるでしょう)。また、倫理学が問題とするのは主として「不運」な出来事であって、「幸運」と「不運」には非対称性があるということ。こうしたことが、重要な論点として挙げられました。

宮﨑先生のコメントに対しては、カントの思想や言語行為論などをも巻き込みつつ、本書のさらなる拡がりに向けて議論が交わされました。また、とりわけ重要な論点として、「倫理学」という学問の「可能性」(ないし「取り柄」)はどこにあるのか、というものがありました。古田先生の考えは、世界に対する「見方」を変えること、あるいは「見方」を創り出すこと、そうしたことが挙げられるのではないか、というものでした。このような意味では、先述の「生きた言葉」との論点とも関わりますが、本書は「倫理学」に対する新たな「見方」を提供する、という役割も担っているのではないでしょうか。

また、フロアに議論を開いたあとでも、多種多様な論点が見受けられました。そもそも「運」が入り込む出来事はどのように分類できるのか。本書の冒頭にあるように、人生はやはりすべて「運」なのではないか。いずれも重要なものでしたが、考えれば考えるほどに、ますます「運」という概念の複雑さが明るみとなり、このテーマの奥深さを痛感させられることとなりました。

最後になりますが、今回新たに考える素材を提供してくださった古田先生、本学から登壇していただいた宮﨑先生、そして私事ではありますが、卒業生である私にこのような機会を設けてくださった方々に感謝を申し上げ、第35回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

【文責=東京大学総合文化研究科博士前期課程 渡邉京一郎】

2019年9月14日

第34回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

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第34回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に熊本大学の佐藤岳詩先生をお招きし、「倫理学における真理と誠実さ――バーナード・ウィリアムズTruth and Truthfulnessによせて」というテーマのもと開催されました。

unnamed-4.jpg佐藤先生はまず導入として、ポスト・トゥルースと呼ばれる現代の状況では「客観的な事実」と「個人にとって大切なこと」の折り合いの悪さというものがある、とお話されました。そして佐藤先生はこの問題を考えた哲学者としてバーナード・ウィリアムズを紹介され、彼の最後の著作であるTruth and Truthfulnessについて解説して下さいました。

ウィリアムズによると、現代社会には「真理に対する誠実さへの要求」と「真理それ自体への疑いのまなざし」があり、これらを調停することが現代の哲学の課題であるといいます。誠実であることは「正直さ」と「正確さ」という2つの徳によって成り立っていて、また人が誠実であるためには、現実を歪めるような幻想や願望に抵抗する必要があるのです。「正直さ」に関して、ウィリアムズは嘘をついたときの罪悪感や後悔といった感情に着目し、カント倫理学を批判したと佐藤先生は解説されました。

unnamed-2.jpgしかし真理をめぐる話はここで終わるわけではなく、ウィリアムズによると、現代では真理の実在そのものが信じられなくなってきているために、「真正さ」という理想が出てきているそうです。「真正さ」とは「本当のわたし」が存在しているとする考え方に基づいていますが、それはときにエゴイズムやナルシシズムに陥ってしまうものでもあるといいます。「真正さ」について理解を深めるために、佐藤先生はアメリカの哲学者テイラーを紹介されました。テイラーを踏まえてウィリアムズの主張を読み解くと、自己理解は他者との関係の中でしか育まれないからこそ、人は「真正さ」を貶めてしまわないようにするために「正確さ」と「正直さ」を失ってはいけないのだといいます。

Truth and Truthfulnessの最後でウィリアムズは真理の実在について書いていますが、佐藤先生はウィリアムズの論点の掘り下げの甘さに対して批判をしつつも、ウィリアムズの中心にはアイデンティティを巡る思索があったのではないかと考察をされました。しかしまた同時に、佐藤先生はそこがウィリアムズの限界であり、彼が現代倫理学の枠組みから抜け出せないことの事由なのではないか、ということも示唆されて発表を閉じられました。その後は時間を目一杯使っての質疑応答も行なわれ、興味深い議論が展開されました。ポスト・トゥルースという言葉もすでに目新しいものではなくなってしまった現代ですが、真理というものを取り巻く人間の態度について、改めて深く考えるよい機会となりました。

最後になりましたが、今回のセミナーでご講演頂いた佐藤岳詩先生に感謝申し上げ、第34回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学人文学部人文学科 心理・人間学プログラム主専攻 牛澤啓]

2019年7月16日

人間学合宿2019  【イベントの記録】

2019年6月29日~30日、2日間にわたって南魚沼市で人間学合宿を行いました。今年度は、天気予報により合宿当日には高確率で雨が降ることが予想されていました。その予報は残念なことに見事的中し、今回はあいにくの悪天候の中での合宿となりました。

29日の朝10時、新潟大学西門に全員で集合した後、シャトルバス1台と生徒の自家用車1台に分かれて南魚沼へと出発しました。今年は総勢28名と参加人数が比較的多かっため、2台に分かれての移動となりました。

まず初めに立ち寄ったのは「アグリコア越後ワイナリー」です。ここではワインを寝かせる特製の雪室を見学させていただいた後に、ワインの試飲をさせて頂きました。気に入った1本があった人は、お土産用に買ったりもしていました。特にみんなに好評だったのは梅のスパークリングワインでした。

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次に立ち寄ったのは「牧之通り」です。古くは宿場町として栄えた町であり、その景観を残している美しい街並みの通りです。ここには昼食休憩としても立ち寄っており、各々思い思いに昼食をとっていました。バスの集合場所近くの公園で、小さな子たちと交流しているアクティブ(?)な学生達も見られました。

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そして最終的には、今回の宿泊先である「五十沢キャンプ場」に到着しました。今年は例年にない「キャンプ」という形の合宿スタイルをとりました!当初予定していたBBQは、雨のため室内での焼肉となってしまいました。それでもみんなでわいわい下ごしらえをしたり、焼きそばを作ったりして、楽しんでもらえたのではないかなと思います。また翌日の朝ごはんになるカレーも、その際合わせて作りました。みんなで指示を出し合って素早く、適切に調理するというすばらしい団結力を見せてくれました。

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腹ごしらえをした後は、お待ちかねのレクリエーションを行いました(買っておいたほとんどのお酒を焼き肉の時に飲んでしまい、レクの前にお酒を買い足していることは秘密です笑)。今回は5つの班に分かれて、イラストで伝言ゲームをしたり、ヘキサゴン形式でクイズをしたりしました。今回の合宿におけるMVP回答は、やはり「TGC」(正解:Tokyo Girl's Collection)への回答として出た「(T)とっても(G)ガーリック(C)チャーハン」でしょう。

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2日目は、前日に仕込んでおいたカレーを食べることから始まりました。作りすぎてしまい、何人かの学生には朝からヘビーな量を食べてもらいました。

その後、お昼少し前から「八海醸造 魚沼の里」へお邪魔しました。魚沼の里はレストランやお土産屋さん、お酒を寝かせる雪室など複数の施設から成っています。それぞれが思い思いに施設内を回り、クラフトビールを飲んだり、日本酒を試飲したり、お土産に悩むなどしていました。

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魚沼の里が本合宿での最後の観光先であり、そこを出発してからの帰りのバスでは皆疲れている様子でしたが、その中でも一部の学生と教授はワードウルフに盛り上がっていたようです。

今回は異例のキャンプという形での合宿でした。参加してくれた皆さんが少しでも楽しめたなら嬉しいです。人間学内での親睦を深める、充実した時間を過ごせることができたのかなと思います。来年度は天候に恵まれた中、人間学合宿が盛大に敢行されることを祈っています。

[新潟大学人文学部人文学科 心理・人間学主専攻プログラム(人間学分野)4年 渡部諒]