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卒論・修論の紹介 アーカイブ


2013年10月21日

卒論中間発表会が開かれました  【卒論・修論の紹介】

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2013年3月14日

【卒業論文】関連性理論における推論のはたらき  【卒論・修論の紹介】

【概要】渋木航「関連性理論における推論のはたらき」

 私たちは普段、ことばを用いて意思を伝達し、他者とコミュニケーションをとっている。その具体的な形式は多種多様で、それこそ無数の形式が用いられているにも関わらず、大抵の場合私たちの伝達は成功し、時折失敗する。私たちの伝達はいかにして成功へと導かれ、またいかなる場合において失敗するのだろう。
 伝達が成功あるいは失敗するということは、話し手の言語表現の解釈に聞き手が成功あるいは失敗するということであるとも言えるだろう。そこで、本論文では発話解釈のしくみに注目し、発話解釈において推論が重要な役割を果たすとしている関連性理論の考え方を手掛かりに、発話が解釈される仕組みや、解釈が失敗する要因を発話解釈における推論のはたらきに注目して分析した。
 関連性理論では発話解釈を、関連性の原則に基づいた、コード解釈と演繹的推論の相互作用によるものだとしている。発話のコード解読によって引き出した論理形式に推論を加えることで表意を派生し、その表意や既存の想定を前提とした推論によって推意を引き出す。この発話解釈においては推論のはたらきが必要不可欠なものとして位置づけられている。
 この理論を手掛かりに、発話解釈に聞き手が成功した場合と失敗した場合について、具体例を通して分析を行った。発話の解釈は推論によって表意と推意が算定されるが、ここでいう推論とは、前提とする想定次第で帰結も変化するという性質のものである。したがって、あらゆる発話は文脈次第で様々な想定を伝達しうるが、関連性の原則に基づいて正しい文脈が選ばれ、推論が行われさえすれば、関連性を満たす解釈が可能である。そしてこのとき、解釈は成功しうる。
 一方、発話解釈に失敗する場合については、誤解の場合と解釈が停止した場合を区別して考察した。両者の違いは、推論による表意算定の結果、聞き手自身が妥当だと思える表意に行きあたったかどうかということである。しかし、両者で起きている問題やその要因にあまり差異はなく、解釈失敗の要因は、適切な文脈が選べなかったために表意を算定する推論に問題が生じたことであると考えられる。
 また、多様な言語表現の一例として、非字義的表現を含む発話にも注目した。慣用句や諺は、それらが使われている発話の中の他の要素と類似性をもっている場合がある。例えば、「水を得た魚のよう」という慣用句が「水泳選手」のような要素を含む発話の中で使われている場合である。このとき、その発話表現は言語の解釈的用法の一種である慣習的メタファーと同様、慣用句や諺の辞書的意味を強い推意として伝達するが、それに加えて、当該の非字義的表現が持つ周辺的イメージの一部もまた強い推意として伝達すると考えられる。この周辺的イメージは、前提推意を引き出す過程で、当該の非字義的発話表現に用いられている要素の百科事典的知識にアクセスすることで引き出されると考えられる。慣用句や諺と発話に含まれる他の要素との類似性が高い場合に、それらを前提推意として推論が行われ、辞書的意味とは別の強い推意がさらに引き出される。これはおそらく発話の関連性に貢献するものである。また、このような非字義的発話表現が字義的な表現よりも効果的なものとして感じられるのは、少ない発話で多くの思考を伝達する経済的な伝達表現であり、解釈に成功した場合、より大きな関連性を得やすいためである。創造的メタファーは一つの発話で弱い推意の束を伝達するが、慣習的なメタファーや慣用句、諺も、引き合いに出された要素の百科事典的イメージを強い推意と同時に伝達していると考えられる。

→渋木航「関連性理論における推論のはたらき」全文(PDF)

2012年3月28日

【卒業論文】ライプニッツにおける自由と偶然性  【卒論・修論の紹介】

【概要】今井蕗子「ライプニッツにおける自由と偶然性」

本論文では、ライプニッツ(Gottfried Willhelm Leibniz, 1646-1716)の『ライプニッツ・アルノー往復書簡』、『形而上学叙説』、『弁神論』を用いて、そこに述べられている自由(liberté)に関する議論を見ていく。これらのテキストの中で、ライプニッツは偶然性、自発性、叡智を自由に必要な条件として挙げている。この三つの中でも特に多くの議論がなされている偶然性に焦点を当て自由について考察した。

自由は偶然性と密接に関わるとライプニッツは考えている。ライプニッツによると、偶然性があることによって自由論を脅かす議論である運命論が覆され、自由が保障される。『ライプニッツ・アルノー往復書簡』では、『形而上学叙説』第13節の「個体的実体の概念が、それに起こり得るすべてのことを一度に合わせて含んでいる」という記述が議論の的になる。この記述が真ならば、人間の行為や世界で起こる出来事は予め決まっていることになり、自由が失われる。しかしライプニッツは運命論を支持しているのではない。ライプニッツは上記の記述を主張しながらも、個体的実体の偶然性を持ちだすことで自由を確保した。個体的実体は個体概念によって構成されており、この個体概念は神の偶然的な選択によって選ばれ個体的実体に内在している。偶然性と対立し自由を妨げるものは、何らかの選択をする余地を与えない形而上学的な必然性だが、偶然性には、このような絶対的必然を排除する働きがある。そのため、偶然性があることによって自由が可能になる。

個体的実体が集まると世界ができるとライプニッツは考えていた。個体的実体の組み合わせは無限に考えられ、その数だけ可能世界がある。ライプニッツによると、可能世界と現実世界の違いは実際に存在するかどうかの違いだけである。神がある個体的実体を選択するとき、その個体的実体そのものだけでなく、同じ世界に属するほかの個体的実体との関係にも配慮して選択をするため、神は結果的に一つの最善の世界を選択することになる。可能世界に属する個体的実体の選択は、個体的実体に属する個体概念の選択と同様に、偶然的になされるので、自由が入り込む余地がある。

個体的実体を選択したり世界で起こる出来事を決定しているのが神であっても、人間に自由はある。ライプニッツの考えでは、人間の自由と神の自由は対立しない。なぜなら人間と神はどちらも理性を持っており、理性的に考えることで最も善い行為を選択することができるからである。ライプニッツは主知主義的な自由論を主張し、理性を用いて最善の選択をすることが自由だと見なした。理性を持つ人間と神は、自由や道徳において同じ価値観を共有しているため、神と人間の自由は両立する。

ライプニッツの自由論においては、世界やその構成員である個体的実体を支配する形而上学的な秩序よりも、道徳的な枠組みの方が優位に立つことが最終的にわかった。ライプニッツは調和や秩序を重んじる一方で、理性を伴う道徳的、実践的な判断や決定をするときに人間の自由が発揮されると考えていたことが明らかになった。


今井蕗子「ライプニッツにおける自由と偶然性」全文 (PDF)

2011年9月14日

【修士論文】カント倫理学における嘘の問題  【卒論・修論の紹介】

 大学の4年間で勉強したりない人は、大学院の修士課程(博士前期2年課程)でさらに研究を深めることができる。学部の卒業論文は、初めての研究論文への挑戦でもあり、「当たって砕けろ」という気合いでまっすぐに挑めばよい。しかし修士論文は、やはり「研究」としての一定の「成果」が要求される。自分の研究課題と範囲を把握し、方法論を自覚しながら、先行研究を調査し、テクストと深く向き合って思索を重ね、最終的に論文として成果をまとめなければならない。ときにはその研究成果は、ひろく世に問うだけの意味をもつことになろう。

 そこで哲学・倫理学の修士論文のなかから、まずは第一弾として保坂希美さんの修士論文「カント倫理学における嘘の問題」を公開しよう。
 カントの「嘘」といえば、1797年の論文『人間愛から嘘をつく権利と称されるものについて』が、行き過ぎた厳格主義のカリカチュアとして悪名高い。人殺しに追われる友人を匿っているとき、人殺しが友人はこの家にいるかと尋ねたとしても、友人の所在について嘘をついてはならない、とカントは言い放つ。この『嘘論文』の主張をどう解釈するかは、カント倫理学研究の一つの鬼門である。
 じつはカントは『嘘論文』のほかにも、生涯にわたって「嘘」の問題に取り組み、さまざまな角度から検討を重ねていた。保坂さんは、公刊著作、講義、遺稿などにのこされたそれらの思索の記録を丹念にたどり、「嘘」をめぐるカントの多面的な思索を整理することに成功した。そしてその成果に基づいて、『嘘論文』の解釈へと踏み込み、さらには先行研究に対する批判をも試みている。

→保坂希美「カント倫理学における嘘の問題」(PDF)

2011年3月29日

卒業論文を紹介します  【お知らせ】

大学4年生にとって一番の大仕事は卒業論文の執筆である。なにしろ4年間の学業の成果を一本の論文という形にまとめなければならない。はじめての挑戦にはいつも波乱がまっている。学生も大変だが、われわれ教員のほうも毎年はらはらしている。

卒論は完成にまで至るプロセスも長い。人間学履修コースでは、3年生の冬にテーマを決め、4年生の春から初夏の構想発表会で頭だし、10月には中間発表会と題目提出を経て、秋から冬にかけて怒濤の追いこみ、晴れて1月に提出、1月か2月に卒業論文発表会と口頭試問、という次第である。

当然3年生には来年の卒論は大きなプレッシャーだろうし、また大学1・2年生やさらには高校生のみなさんにとっても、人間学ではいったいどんな卒論が提出されているのか、興味のあるところだろう。ところが、じっさいに提出された卒論をみる機会はなかなかない。過去の卒論の一部は人間学PSや言語学実験室に保管してあって見学できるし、オープンキャンパスなどでも展示しているが、やはり機会に恵まれない人もいるだろう。

そこで今回こころみに、今年度に指導した卒業論文から一篇をインターネット上で公開することを思いたち、このたび卒業する佐藤茉莉さんにお願いしたところ快諾を得た。先の記事に、人文学部のHPの履修コース紹介に公開されている卒業論文の概要を再掲載するとともに、執筆者(著作者)である佐藤さんの同意を得て、卒業論文『アウグスティヌス『告白』の時間論──人間学的側面からの再構成』全文のPDFへとリンクを張ってある。

【卒論】アウグスティヌス『告白』の時間論  【卒論・修論の紹介】

アウグスティヌス『告白』の時間論──人間学的側面からの再構成(概要)
                       佐藤 茉莉

 『告白』は、397 年から翌年にかけて書かれたアウグスティヌスの自伝である。彼は、この著書の中で時間について探求した。我々にとって時間は、大変身近なものであり、熟知されていると思われるかもしれない。しかし、「時間とは何か」と問われたとき、我々は誰もその本質を容易に答えることはできない。アウグスティヌスが考える時間を、人間の魂の内部に注目し、人間学的立場から考察することで、彼が、人間の存在と時間の関係性についてどのように考えていたのかを明らかにする。
 第一章では、「物体の運動=時間」の否定の証明のために、二つの議論を持ち出して論じた。一つは、アウグスティヌスと対照的な立場として知られるアリストテレスの時間論を持ち出し、比較して考察した。アリストテレスの時間論と比較しても、アウグスティヌスの時間論は人間存在に多分に依存している。二つ目は、「天体の運動=時間」であるという哲学者に対するアウグスティヌスの批判が、壁にぶつかりながらも成功していることを証明した。よって物体の運動は時間ではない。
 第二章ではまず、過去・未来の非存在、現在中心主義について論じた。しかし、過去になった途端に次々消えていくなら、我々はどのようにして持続した知覚を持つのだろうか。また、過去・未来の非存在、幅のない現在により、時間の計測が不可能となった。ここではアウグスティヌスの時間の計測の条件の一つが、物体の運動こそが実在的であるとした、アリストテレスの時間の経過を感じるための条件に酷似していることが問題となった。計測の不可能の解決策として、過去・未来は記憶(memoria)、期待(expectatio)として現に存在し、これらの働きによって、我々は持続した知覚を持つことができる。ここで忘れた過去について、そして期待と未来の食い違いについての二つの疑問にぶつかる。
 第三章では、魂(anima)のうちに印象(impressio)を刻み込むことにより時間を測っているというアウグスティヌスの結論を扱った。このことで時間は計測できないとされていた様々な問題が解決された。さらにこのことから、魂のうちで時間を測るということは、アウグスティヌスは外的時間は存在しない、内的時間だけが真の時間であると考えていることが見えてきた。最後は、魂のうちで時間を測る問題点を挙げ、魂のうちで時間を測るとは、具体的にどのようなことをさすのか、アウグスティヌスのテキストや、その他の論文から見出すことを試みた。アウグスティヌスは、外的なものである時間を、自分の中で時間がどのように体験されるかという内的な時間にすり替えてしまったという批判を想定し、その批判は妥当であるか、これまでのアウグスティヌスの議論を追って検証した。また、時間を計測するには、基準が必要であるが、内的時間の基準の問題についても、過去と未来に魂が現在的に拡がっている魂の拡がり(distentio animi)を基準の時間とすることで、魂のうちで時間を測るとは、具体的にどのようなことを言っているのか輪郭が見えてきた。第二章で出てきた過去や未来の問題についても、アウグスティヌスの考えを受けて、どのような解決がなされるか論じた。

→『アウグスティヌス『告白』の時間論』PDF全文