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人間学の紹介 アーカイブ


2015年2月19日

人間学大掃除の敢行!  【人間学の紹介】

 人間学共有スペースの掃除を行いました.これからもきれいに使いましょう!

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2010年3月31日

心理・人間学プログラム 人間学分野 とは  【人間学の紹介】

心理・人間学 プログラム
Psychology and Human Studies
──ひとは何を思い、生きるのか? 人間という謎に挑む──

私たちにとって、人間という存在ほど不思議なものはありません。ひとの心はどのように働き、何を生み出すのでしょうか。このプログラムでは、実験や調査によって心のしくみを実証的に解明するとともに、ひとの心が作り出してきた思想的文献を読み解くことで、人間という謎にせまります。

心理・人間学主専攻プログラムは、人間とその心の解明をめざして、心理学と人間学の分野を学ぶプログラムです。〔中略〕 このプログラムは、人間が直面する様々な課題に対して、人間についての深い理解に裏づけられた科学的分析と思考ができるような人材の育成をめざします。


人 間 学 分 野
Human Studies

人間学分野には、哲学・西洋哲学史倫理学宗教思想史科学思想史言語学の学問領域があります。人間の心(精神)は、日常的な言語活動から哲学的な思考や科学的な探究にいたるまで、そして道徳的な善悪の判断から宗教的な信仰にいたるまで、じつに多様な精神的所産を生み出してきました。人間学分野では、主として外国語で書かれた原典文献の読解をつうじて、これら哲学、宗教、科学、言語などの人間の知的な営みの原理を解き明かし、人間性について理解を深めていきます。


人間学で学べること
人間とは何か?
哲学的に思考し、議論する
人類の思想的遺産を読む
宗教を思想的に理解する
科学的な方法論とは何か?
哲学や思想の歴史を学ぶ
生命と環境の倫理学へ
人間の言語の仕組みを解明する
言語と行動の関係を知る
古典語(ラテン語など)を学ぶ

(新潟大学人文学部 GUIDE BOOK 2010 より)

人間学の教員を紹介します。

2010年2月15日

人間学講座回想録(5)  【井山 弘幸】

1989年から推薦入学制度が始まったため、学年人数が数名から20名前後の大所帯となる。最初の年は、課外の授業を私と山内先生とでもって、木曜の夜に自主的に集まってもらった。専門の講義が始まるまでに志望の気持ちが萎えないように、という配慮からだが、むしろ見合いをした相手に早く会いたくなるように心持ちで、何かと旧資料室に集まる機会を設けていた。やがて推薦入学生が大半を占めるようになり、初夏に合宿をする慣行が生まれた。第一回は、巻町にある金仙寺の仏堂で、恒例となる「読書クイズ」(初期は私が問題をつくり、やがて山内先生、城戸先生、そして現在の宮崎先生へと継承する)だけが唯一のイベントで、あとは釈迦像の面前で飲みあかすというだけの質素な合宿であった。翌日、角田山に登って鬼ごっこをした記憶がある。佐藤徹郎先生が真剣に学生を追いかけていて、その俊敏さに瞠目した。第二回以降は点々と合宿先を変える。金仙寺が廃寺となったこともある。よく覚えていないので年代順ではないが、過去に選んだ宿泊地を思い出す順に書いてみよう。新発田の青年の家(そんなような名前)。ここは五十公野公園に隣接した施設で、新発田駅からの徒歩は辛かったが、翌日は野球場でソフトボール大会となった。五頭山麓の少年の家。県の施設でユースホステルなみのやっかいな規則があった。このときは教官ごとに即席のセミナーを設定して班に分かれ、自然のなかで読書したり議論をしたりした。冷蔵庫に隠したビールが事務員にバレてしまい、ずいぶんと叱られた。「もう来ないでください」とも言われた(こちらも行く気はなかったけれど)。咲花温泉の旅館で開催したときもある。温泉旅館なので、硫黄臭のある濃厚な湯を堪能できて教官は満足。翌日、阿賀の里という観光施設に歩いていって、希望者は阿賀野川を船で下った。やたらと饒舌な船頭は、しかしながら、他県の人間でよくよそ見をするために、ずいぶんと水しぶきを浴びた。柏崎の南方、高柳町のじょんのび温泉で合宿をしたこともある。ここは手作り豆腐の美味な場所で、湯も淡褐色で木造りの立派な湯船で、すばらしいものであった。夜はトリヴィアル・パスートというクイズゲーム(生協で展示してあったものを、宣伝用にと借りてきてあった。一般常識問題を、地理・歴史・科学・芸能・スポーツのジャンルに分けて解いて、双六のような形式でゴールをめざすもの)にほぼ全員参加して楽しんだ。経過は忘れたが、ダントツで優勝したのが栗原隆先生だったことはよく覚えている。いやはや、よく知っておりました。
21世紀になってからは、大抵は、上川村あるいは鹿瀬の施設がよく使われた。上川温泉は四度ほど利用した。はじめてのときはやたらと歓迎してくれて、追加の宴会料理も山菜を中心に豪華なものであった。鹿瀬ではやはり温泉の亀田郷山荘を利用した。この頃から卒論の構想発表を兼ねるようになり、遊び中心だった合宿がすこしまともなものになりつつあった。磐越西線を週末走る蒸気機関車を利用することも何度かあった。六日町の「いろり庵」は最近利用した。雲洞庵、トミオカホワイトなど周辺の寺社、美術館に立ち寄り好評を博した。六日町駅前にネパールカレーの店があり、私は早めに到着して賞味したが、これを聞いた佐藤徹郎先生が敏感に反応し、持ち前の早食いで数分で平らげてきた。余興の新企画として、「ほぼ100円ショップ」を開催。100円ショップで購入した商品に、高額商品をまぜてそれをあてさせるゲームで、なかなか的中せず楽しい時間だった。このゲームには「高額商品」の所有者が必要で、佐藤先生がいないと実行できない。
昨年(2009年)は十数年ぶりに合宿が中止になった。マンネリ化したことへの反省もある。今年は準備も早く、すでに栗原先生に赤崎荘(鹿瀬)を確保していただき、新しいスタッフの青柳かおる先生も加えて合宿の新時代を迎えようとしている。今後は、OBも気軽に参加できる行事になればと願っている。

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2010年2月 3日

人間学講座回想録(4)  【井山 弘幸】

学生と旅行した思い出を記す。年代順でなく北から書くと、平成元年あたりに入学した学生と北海道ドライブ旅行に行ったことがある。フェリーで小樽に出て(三角市場を物色して)早朝に札幌を通過(クラーク博士像に一礼)、富良野の「北の国から」のセット近くで宿泊(一泊千円弱のライダーハウスが中心)、帯広で豚丼を食べ(ご当地出身の学生推薦)、釧路泊。客車を開放した宿(300円)で寝袋にくるまり、翌日、支笏湖と川湯温泉経由で網走で一泊。旧刑務所を見学すると女子学生が「私たちよりいいところで寝ている」と感嘆の声をあげたのが印象的。水族館を見てから旭川に向かう。ここで初めて旅館(一泊2000円)に泊まる。翌日層雲峡経由で小樽に戻り、一夜波止場であかしてフェリーで新潟にもどった。
青森県に行ったのは恐山参詣のときだ。人間学資料室に深夜集まって出発した。仙台あたりのSAでテントを張って一泊し、翌日にはむつ市の民宿に到着。イタコさんに降霊してもらう予定だったが、命日が分からないと呼べないということで断念。宇曽利湖の神秘的でぞっとする光景、水子供養の参詣客が岩間に置き去った無数の風車が妖しく印象的であった。もちろん、境内の温泉には浸かった。三途の川をわたったところに「霊場アイス」の旗があったのをなぜか覚えている。帰路八幡台の温泉で宿泊し四日目にもどった。1989年(珍しく年号を覚えている)には、冬に東北旅行をした。人間学に8年在籍した山之内君、天才シェフとして紹介した大井君、寡黙な土屋君、酔っぱらうとやたらと言い寄る癖のある一倉女史、現在、現代社会研で助教をしている、当時はオーケストラの一員だった石田さん、いつでも誘いを断らなかったナビ役の山内先生と私が全メンバー。車は二台。一日目が平泉の中尊寺近くの民宿で、毛通寺とか厳美渓(ロープを伝って名物団子が運ばれる)を見て最後に中尊寺を参詣。翌日、花巻の宮沢賢治記念館でたっぷり時間をとった。会館となりの山猫軒でデクノボーランチとか賢治ゆかり?のメニューを楽しんだ。夜に盛岡にでてわんこ蕎麦を「直利庵」で堪能。私は95杯食べて死ぬ思いをした。夜間に小岩井牧場に到着、寝台車スタイルの宿で一泊。朝食が美味。翌日は乳頭温泉郷に向かう。国民宿舎で宿泊したが、付近の湯を梯子した。帰路は田沢湖で雪合戦をし、羽後本荘駅前の「薫」で休憩をとり、一気に新潟にもどり泥のように疲れて眠った。
会津若松は何度も行った。平成6年には一緒に芝居をした学生と、平成8年には1年生のゼミで行った。通称「旅ゼミ」を始めたのもそのころで、大阪、京都、東京、横浜、能登(お目当ては輪島の朝市ではなく、ランプの宿「蒒ヶ浦温泉」と珠洲ハーブ園)を学生と回った。こう思い返してみると、何か教える-教わるという関係ではなく、学生とはよく一緒に遊んでいたものだ。
旅先の南下を続けると、長野県の御代田(浅間山南麓、軽井沢の西)にある別荘には、何度も行った。ここを拠点として、荒船牧場とか、八ヶ岳登山(赤岳山頂に公衆電話があって絶句した)、飛騨高山(朝市は大したことがなかったが、朴葉味噌は最高で大量に買って帰り、資料室で酒のツマミにした)、松本(古本屋街、ちきりや、古風な喫茶店「まるも」)、別所温泉(前山寺のおはぎ)各地に飛び回った。
長く在籍した山之内君の引っ越しも、平賀源内で卒論を書いた佐藤東州君、大井君をつれて知人から借りたトラックで広島まで遠征した。大井君との帰路は高速道路を避けて日本海沿いにもどってきた。城崎温泉の飲み屋でマダムが松本清張そっくりだったことは今でも忘れない。金沢で立ち寄ったおでん屋「赤玉」の品揃えの豊富さも旅のよい思い出の一つだ。
最後に九州旅行の思い出。平成5年頃だと思う。メンバーは、絶対つきあってくれる山内先生、石田さん、独文の木村先生(昨年末、悲しいことに、逝去された)と姪御さん。佐藤東州君に犬飼君(最近になって石田さんに「あのときいたでしょ」と指摘されて発覚)、そして推薦入学で入った柏木さん。新潟から福井に出て温泉センターで一泊。鯖江の眼鏡会館(プレゼンが故障だらけで滑稽だった)とアイスクリームの問屋に立ち寄って一路神戸へ。三宮や中華街を散策し夜にフェリーに乗って別府へ。地獄めぐりは実に楽しく、地獄と無関係なグッズの多角的販売に驚かされながら、突如ワニに出会ったりした。湯布院で露天風呂に浸かり、やまなみハイウェー経由で阿蘇山の地獄温泉の湯治棟で宿泊。翌日阿蘇山火口と牧場へ。木村先生がポニーに乗って喜んでいた。山頂でオニキスのグラスを買ったが、同じものを山口県で売っていて後でショックを受ける。熊本へ下山して熊本城へ。私は商店街で緑と白の縞々パジャマを買う。夕方平戸方面に向かい民宿で一泊し、フェリーで島原に出て雲仙経由で長崎のユースホステルで一泊。犬飼君が南京玉簾を執拗に探していた。グラバー亭やシーボルト記念館を見て、翌日、秋吉台を見て京都まで一気にいたる。木村先生の学生時代の下宿で一泊し、最後の日に明治村を見学して新潟にもどった。東北旅行はマツダのルーチェと山之内君のサニーだったが、その後、私は9人乗りのボンゴに乗り換えていた。七年で13万㎞乗った。

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2009年9月10日

人間学講座回想録(3)  【井山 弘幸】

コンパの思い出を綴ってみる。六月の夕暮れ時に行なわれた「浜コン」は、新潟に来て初めて体験した行事の一つであった。「資料室」 (図書室であると同時に学生の勉強場所であり、夜間はコンパ会場にもなった共通スペース。現在、総合教育研究棟に移転してからも存続している) から鍋釜や食材を運び、学生と一緒にキャンプファイヤー用の廃材や枯木を収集し、授業を終えた教官 (必ずしも人間学講座に限らず、文化課程の先生方や集中講義で来られている他大学の先生も含む) をまじえて宴会が始まる。沈みゆく夕陽を見ながらビールを飲み、鍋をつっつく。どんな鍋だったか忘れたが、「砂を噛むような味」とも言える、実際に砂が混じった鍋だったことは鮮明に記憶している。談笑する時間よりも、四六時中歌っていたようだ。旧制高校時代の寮歌とか、戦中の歌謡曲とか、とにかく昭和59年~62年に在籍した学生たちはやたらと歌が好きだった。東京でいえば歌声喫茶とか新宿の「どん底」や銀座の「ミュンヘン」などのビアホールで昭和30年代に好んで歌われた曲が多かった。浜コンらしいところは、水着をつけずに海水にはまる者がいたり、投げ込まれる輩がいたことだ。きわめつけは最後に見ることのできる「深沢先生の火渡り」で、これはもの凄い迫力であった。

もちろん資料室では毎週のように宴会があったし、学期の切れ目や卒論構想発表会の夜には自然発生的に誰ということなく集まってきた。酒・ビールが中心でつまみ・料理の類はさほど凝ることはなかったが、大井学君という天才シェフが加わってからは、宴会の食料事情は大幅に改善された。大井君は定年最後の年の児嶋洋先生の単身生活の慰めるため、毎週晩餐会の料理をつくったほどだ。包丁捌きも器用だし、なんといっても食材を一つ一つ大切にした。玉葱の尖端を切り落として捨てようとした私を咎めたこともある。大根の葉だけで乙なツマミを作ったり、「女房に欲しい」とよく言われていた。

資料室のコンパも基本は歌謡合戦であり、山内志朗先生が赴任した直後 (1988年) は「人間学専用歌集」を印刷したこともある。深沢先生が「ステンカ・ラージン」を歌い始めると一堂の注目は先生とほとんど毎回参加していた山影先生に集中する。コサック・ダンスが始まるからである。コサックよりも韃靼人よりも強壮で迫力のある踊りで、わが講座の文化遺産とでもいうべき芸術でもあった、と思う。他の先生もそれぞれ味のある芸を披露していた。山崎先生がラテン語の唄を歌ったり、佐藤徹郎先生が井上陽水を歌ったり、山内先生が花笠音頭をと、資料室の宴は大抵は夜明けまで続いた。私は声の方はからきしダメで、会場にピアノがあるときは即興変奏曲「人間学教官の歩き方」を演奏した。(大分メンバーが変わったので、新しいバージョンを考えている)。(続)

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2009年9月 9日

人間学講座回想録(2)  【井山 弘幸】

赴任した最初の年(1984年)は、その後二十年近く続く「人間学合宿」は始まっておらず、旧・哲学科時代のハードな合宿が存続していた。場所は妙高にある「好山荘」(管理人の不始末から失火し、後に廃業)で夏休みの4日間ほど。(その前に、佐渡島の寺で開催されたときのことを、伝説として、佐藤先生から聞いたことがある。地元の差し入れで、大量の魚、カワハギをもらったが、毎日が同じメニューで難儀したとのこと)。この年の夏、私は数名の学生とラテン語、ドイツ語など辞典類を車で運搬した。学生よりも辞典の方が重かったのではないか? 合宿所での夜は原書講読で、私はその頃熱中していたアナトール・フランスを読んでいた。中日には妙高山登山があり、山頂で撮影した往時の写真をみると学生よりも教官の方が多い。英文科の山影隆先生(故人)も元気な姿で(登山中は私と最下位争いをしたのに)写っている。深沢先生が隊長で、山頂に達すると黙々とラテン語の原書を読んでいた。 登山の習慣はその後「人間学登山」として5月期の二王子山(標高1450mほど)、夏のアルプス登山へと継承されていき、夏合宿は推薦入試の始まった1989年に復活し、昨年2008年まで続いた。(続)

2009年9月 1日

人間学講座回想録(1)  【井山 弘幸】

1984年5月に赴任した当時は、私を呼んでくれた渡辺正雄先生(科学思想史・故人)、講座主任の大野木哲先生(哲学史・故人)、猫好きでカネボウのオーデコロンのきつかった児嶋洋先生(現象学・故人)、若いころの宮沢賢治に風貌の似た深沢助雄先生(古代中世哲学)、話すときに「いや、まー」と言い出すことが多く、私のことを呼んでいるのかと誤解することの多かった佐藤徹郎先生(英米哲学、一昨年退官)、すぐにシャーロッキアンであることが判明した山崎幸雄先生(言語学)と私(助手)の七人が人間学講座を構成していた。学生は一学年に4人前後で、まだ存続していた専攻科の学生が資料室に夜遅くまで屯していた。初めてのコンパはよし半でおこなわれ、昭和30~40年代のフォークソングをやたらと唄っていた。終電で帰る学生がいないため、深更まで宴会は続き、その間、佐藤先生と山崎先生は必ず一度は熟睡した。助手の仕事は4年続いたが、思い出してみると仕事らしい仕事をしたことはなかった。一応図書の管理が主たる仕事だったが、人間学の先生方は他人に任せることに慣れていなかったらしく、自分のことは自分でされていた。したがって4年間まったく干渉されずに自由な時間を過ごすことができたわけだ。この年に富士通のオアシス(ワープロ専用機)が初めて講座に装備され、朝日出版の科学の名著シリーズの仕事は、覚えたての親指シフト方式でその原稿を仕上げた。(続く)

2009年2月24日

人間学履修コースとは  【人間学の紹介】

人 間 学
哲学・倫理学・宗教思想史・科学思想史・言語学
Language, Science, Religion, and Philosophy

~ひとはなぜ思い、知り、考え、伝え、創るのか~
人間学履修コースでは、人間の知的な活動や文化を、「思想」を手掛かりにして解明します。古典から現代まで、哲学倫理学宗教思想史科学思想史言語学などの「文献」に基づいて、限りある人間の営みの、無限に輝く人間性を探究します。

人間学履修コースには、哲学・西洋哲学史倫理学・応用倫理学宗教思想史、中国思想科学史・科学基礎論言語学といった、さまざまな学問分野があります。論理的思考の根拠から科学の歴史にいたるまで、道徳的判断や宗教的信仰から日常的な言語活動にいたるまで、人間学の研究対象は多彩です。しかしこれらの学問諸分野に共通するのは、このような人間の知的活動や文化について、思想や言語のレベルに焦点を当てて、その本質を徹底的に突きつめて解明しようとする方法です。人間学履修コースでの学習・研究は、主として文献の解読によって進められますので、外国語の学習が重要になります。外国語で書かれた「原典」を読み解く苦しさと喜びは、なにものにも代え難いものです。易きにつかず、低きに流れず、この混迷の時代のなかで、大きく長い展望をもってこれからの自分の道を切りひらこうとする人を、人間学履修コースでは待っています。
(新潟大学人文学部 GUIDE BOOK 2009 より)

人間学履修コースの教員を紹介します。

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