第14回新潟哲学思想セミナーは、講師に山形大学の松本大理先生をお迎えして、「ヴェルマーにおける参加者の視点」というテーマで開催されました。ご講演は、討議倫理学への入門に始まり、フランクフルト学派の第2.5世代ともいえるヴェルマーについて、とくにアーペルに対する批判や、アーペルと共通する問題意識など、両者の関係について焦点を当ててお話し下さいました。以下、松本先生のご講演のなかから個人的に興味をもった主題についてご紹介いたします。
まずご講演のなかで松本先生は、アーペルについて、カントや分析哲学的な認識論においては認識の言語的・遂行的・解釈的次元や主体性の次元が欠如しているということに対する批判から、アーペルは「超越論的遂行論」という構想にいたった、と指摘されました。アーペルによれば、言語ゲームにおける認識主体は言論による論証の超越論的な条件であり、それはその背後にまわって根拠をさらに問うことは原理的に不可能であるような「背後遡及不可能なもの」です。相互主観的な了解や真理の合意は、この言語ゲームにおいてなされるため、了解や真理の場として「理想的コミュニケーション共同体」が想定されるのであり、私たちは現実社会においてこの理想が実現されることを求めなければならない、ということになります。
言語をたんなる道具としてではなく生きた言語として捉え、その働きによって世界が解釈され構成されるということを洞察しつつ、その洞察を近代ヨーロッパの超越論的哲学と結びつけ、さらにその結合をいわば逆向きに転回させるような道を見出したという点が、アーペルが評価される所以なのではないかと思います。しかしながらこれに対しては(ヴェルマーも同様の批判をしていると思われますが)、理想的コミュニケーション共同体が、歴史的な現実のなかでいかにして可能なのかという疑問がただちに生じてきます。さらに、「理想的」というのであれば、それはカントのいう超越論的な意識とさして変わらないのではないかという疑問も感じられるところです。
またアーペルは、哲学的言語ゲームにおいても明証性が前提とされなければならないとしつつ、「私は考える、ゆえに私はある」の確実性はたんに意識のうちで直観されるにすぎない明証性ではない、といいます。この確実性はむしろ、「厳密な反省」としての遂行的な(無)矛盾の原理に立脚する確実性であると考えられるのです。「私は、今この発言によって、私が現実に存在することを疑う」という自己言及的な命題において、表現されている命題の意味を、この命題を発話する遂行的行為そのものが否定している、ということが遂行的な矛盾であって、これを超越論的遂行論において反省的に洞察することに基づく確実性が「コギト・エルゴ・スム」の確実性なのです。
さらにいえば、ここでは、自己自身が自己自身にとって他者であるかのように、自己自身について自己自身が理解しあうという、隠された公共的な対話がなされているともいえます。このような言語ゲームこそが、相互主観的な明証性をとおして、理想的コミュニケーション共同体において「合意」が成り立つ、という哲学的論証の範型ともいうべきものを含んでいる、と考えられるのです。
アーペルらの構想する討議倫理学に対するヴェルマーの批判は、おもに真理の合意説に対して向けられていると松本先生は総括されます。理想的コミュニケーション共同体や理想的発話状況のもとでの討議によって、すべての人がある言明に同意する(すなわち合意が成立する)ときに、その言明は真理である、というのが真理の合意説です。これに対してヴェルマーの考えかたは、合意の形式的な合理性によって真理が示されるのではなく、それが十分に説得的な根拠に基礎づけられていると私が承認することによって真理が示されるのだ、ということだといえるでしょう。しかしながら、可謬主義の立場からヴェルマーはさらに、この一人称的な承認という根拠もまた原理的には可謬的であると批判しています。
ヴェルマーは、現実的な道徳的問題を、理想的ではない了解関係における現実的合意によって解決することはできないが、しかしまたその困難は討議倫理学における真理の合意説を前提したところで払拭されるものではない、と判断しています。松本先生によれば、ヴェルマーは、パースペクティブの相違が除去された理想的な状況によって保証されるような不変的な合意ではなく、他者との議論を永続的に必要とする無限にくりかえされる合意を、真理の源として捉えているとのことです。真理は、他者との永続的な論争を背後にもつ必要性があり、本質的に論争されるものです。そして、ヴェルマーにおいては、つねに論争をくりかえすことで、真理を死んだものにしないことが必要なのである、と松本先生は説明されました。
日本におけるヴェルマーに対する評価は、欧米におけるほど確固たるものとはいえず、著作の翻訳がなされていないことも相まって、まだあまり手がつけられていないという印象がこれまでありました。しかしながら、松本先生も翻訳に携わった『倫理学と対話――道徳的判断をめぐるカントと討議倫理学』が先ごろ出版され、これを機に討議倫理学について少し学んでみようと思いました。また、関連して言語哲学についても、これまでは、構造主義を除けばあとは分析的な言語哲学が主流であるという印象があったのですが、ドイツ系の言語哲学にはさらにさまざまな哲学的含蓄があるように感じられ、これについても興味が湧いてきました。
今回の講演では、入門的なことから順を追って説明してくださったので、私たちにとってはあまり馴染みのない討議倫理学について基礎から学ぶよい機会となりました。最後になりましたが、今回のセミナーのために遠方よりおいで下さいました松本先生に感謝申しあげ、今回のセミナーの報告といたします。