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2015年7月26日

第19回新潟哲学思想セミナーが開催されました 【イベントの記録】

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 第19回新潟哲学思想セミナーは、講師に高千穂大学の齋藤元紀先生をお招きし、「ハイデガーの『黒ノート』と20世紀の《神話の哲学》をめぐって」というテーマのもと開催されました。当日はあいにくな空模様でしたが、大学内外から多くの方が足を運んでくださいました。
 20世紀最大の哲学者と称されるマルティン・ハイデガーがナチズムに一時期関与したことは、周知のこととされています。今回のセミナーでは、昨年ドイツ語原版が刊行されたハイデガーの『黒ノート(Schwarze Hefte)』に記されている反ユダヤ主義的な表現について、またその由来と刊行される際の騒動などの一連の流れについて、齋藤先生に講演していただきました。講演の内容は、ハイデガーや哲学に馴染みのない方にも親しみやすく、とても明快でした。以下に、今回のセミナーの内容をご紹介します。

 齋藤先生によれば、ノートの表紙が黒色であったことから名がついた『黒ノート』は、1930年代頃からハイデガーが生涯にわたって書き続けた哲学的手記です。このノートは、「思索日記」とも呼ばれています。この手記は、現時点ですでに1700頁以上になり、全体で30冊以上残されています。この手記は単なる個人的なメモではなく、ハイデガーが自覚的に用意していた哲学的テキストと考えることができます。ハイデガーは、これを全集の最後に出版するように言い付けていたそうですが、これをめぐってある騒動が起こります。
 この騒動は、『黒ノート』の刊行前に遡ります。『黒ノート』の編者であるペーター・トラヴニー氏(ドイツ・ヴッパータール大学教授)は、そこに記されていたハイデガーの反ユダヤ主義的文言を問題視し、これにより最終巻刊行の予定を早めたうえで『黒ノート』を刊行します。しかしトラヴニー氏は、ハイデガーの親族や遺産管財人たちが『黒ノート』の反ユダヤ主義的文言を外部に漏らさないために意図的に改竄、抹消したことを明らかにしました。このことにより、ハイデガー全集の信憑性が根幹から問われる状況にあります。
saito2.JPG  続けて議題に挙がったのは、ハイデガーと神話の哲学をめぐる問題です。先生によればハイデガーの思考には、ある種の神話的思考が潜んでいるため、神話という観点からハイデガー哲学を読み解く必要があります。『存在と時間』が執筆された時代は、神話研究が活発な頃でした。これまでの哲学は、理性すなわち合理性を中心とした思考でしたが、20世紀初頭の時代背景にあってこのような思考の訴求力が失われます。これにより理性の外部へと目が向けられるようになりました。
 これに関する一例として斎藤先生が挙げられた哲学者は、カッシーラーです。カッシーラーは、神話が世界認識の一つのあり方であり、人間が世界を認識する根底には神話的な象徴が働いていると指摘しました。これに対してハイデガーの『存在と時間』は、論理性に重きを置いた、神話的思考を完全に排除した著作です。
 ところが『存在と時間』から数年後に刊行された『黒ノート』には、神話的思考が多数現れます。『存在と時間』と『黒ノート』では、存在者や無に関する問いはほぼ共通しています。ここで注目すべき点は、ハイデガーが1931年秋頃から『存在と時間』をはじめとする自身の著作に対して失敗作と評し、批判および反省を表しているにもかかわらず、『存在と時間』の試みを続けなければならないと宣言している点です。存在の意味を時間として究明することが目的である『存在と時間』において、時間への問いは『黒ノート』で拡張されることになったのです。
 『黒ノート』では、『存在と時間』においてすでに扱われていた歴史への問いに加えて空間への問い、さらには空間を作る際に浮上する言語・民族への問いが提起されています。ハイデガーは、言語と存在を密接なものとして捉えていました。言語の論理性を端緒とした問いは、「私たちは何者か」という人間の在り方の問題へと掘り下げられます。さらに「私たち」への問いは、民族の問いへと展開し、引き続き民族を決定・決断する領域へと到達します。ここで問われるのが、「私たち民族はどこから来たのか」という歴史への問いです。
 saito3.JPG今回のセミナーの核である『黒ノート』における反ユダヤ主義的文言については、次のような説明がありました。ハイデガーは、地に足のついた思考をしなければならないことを明言しますが、ユダヤ人は地に足のつかない思考、すなわち計算的思考をします。これによりハイデガーは、ユダヤ人の無世界性、つまり根なし草であることを批判し、これを世界ユダヤ人組織と呼びます。まるで陰謀論扱いであるにもかかわらずハイデガーは、人間が自分の住まう場所や思考が根ざす場所を失うことを重大な問題として把握することから、この問いが人種的な問いではなく、むしろ形而上学的な問いであると主張します。民族に対するステレオタイプが蔓延し、民族への問いを立てることを禁じ手とする傾向が強いなか、ハイデガーが取り組んだのは、このような問いだったと言えるでしょう。
 たしかに前述のハイデガーの見解より土着性と無世界性は、対立関係にあるように思えます。しかしながら齋藤先生が提起するのは、土着性と無世界性の思考が表裏一体なのではないかということです。故郷を想っていながら、故郷に帰りたいと思いながらも帰ることができない──ハイデガーには、このように戻りゆく場所を求めているにもかかわらず、戻りたくても戻れないと分かっているというような表現が各所に見受けられるそうです。この点にこそ、ハイデガーの問題があるのではないでしょうか。
 講演後に行われた質疑応答では、ハイデガーが捉えていた「神話」という言葉に関する質問をはじめ、盛んな討議がなされました。
 今回のセミナーでは、ハイデガーの『黒ノート』をめぐって、世界中の哲学界を震撼させたと言われるハイデガーのナチズム問題だけではなく、『存在と時間』が残した諸問題やハイデガー哲学と神話の関係性を垣間見ることのできた貴重な機会になりました。
 最後になりましたが、今回のセミナーのために遠方からお越しいただいた齋藤先生に感謝を申し上げるとともに、NiiPhiSを運営進行してくださる先生方、ご出席をいただいた皆さまに感謝を申し上げ、第19回哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。
[新潟大学大学院現代社会文化研究科修士課程・宮川真美]