コンパの思い出を綴ってみる。六月の夕暮れ時に行なわれた「浜コン」は、新潟に来て初めて体験した行事の一つであった。「資料室」 (図書室であると同時に学生の勉強場所であり、夜間はコンパ会場にもなった共通スペース。現在、総合教育研究棟に移転してからも存続している) から鍋釜や食材を運び、学生と一緒にキャンプファイヤー用の廃材や枯木を収集し、授業を終えた教官 (必ずしも人間学講座に限らず、文化課程の先生方や集中講義で来られている他大学の先生も含む) をまじえて宴会が始まる。沈みゆく夕陽を見ながらビールを飲み、鍋をつっつく。どんな鍋だったか忘れたが、「砂を噛むような味」とも言える、実際に砂が混じった鍋だったことは鮮明に記憶している。談笑する時間よりも、四六時中歌っていたようだ。旧制高校時代の寮歌とか、戦中の歌謡曲とか、とにかく昭和59年~62年に在籍した学生たちはやたらと歌が好きだった。東京でいえば歌声喫茶とか新宿の「どん底」や銀座の「ミュンヘン」などのビアホールで昭和30年代に好んで歌われた曲が多かった。浜コンらしいところは、水着をつけずに海水にはまる者がいたり、投げ込まれる輩がいたことだ。きわめつけは最後に見ることのできる「深沢先生の火渡り」で、これはもの凄い迫力であった。
もちろん資料室では毎週のように宴会があったし、学期の切れ目や卒論構想発表会の夜には自然発生的に誰ということなく集まってきた。酒・ビールが中心でつまみ・料理の類はさほど凝ることはなかったが、大井学君という天才シェフが加わってからは、宴会の食料事情は大幅に改善された。大井君は定年最後の年の児嶋洋先生の単身生活の慰めるため、毎週晩餐会の料理をつくったほどだ。包丁捌きも器用だし、なんといっても食材を一つ一つ大切にした。玉葱の尖端を切り落として捨てようとした私を咎めたこともある。大根の葉だけで乙なツマミを作ったり、「女房に欲しい」とよく言われていた。
資料室のコンパも基本は歌謡合戦であり、山内志朗先生が赴任した直後 (1988年) は「人間学専用歌集」を印刷したこともある。深沢先生が「ステンカ・ラージン」を歌い始めると一堂の注目は先生とほとんど毎回参加していた山影先生に集中する。コサック・ダンスが始まるからである。コサックよりも韃靼人よりも強壮で迫力のある踊りで、わが講座の文化遺産とでもいうべき芸術でもあった、と思う。他の先生もそれぞれ味のある芸を披露していた。山崎先生がラテン語の唄を歌ったり、佐藤徹郎先生が井上陽水を歌ったり、山内先生が花笠音頭をと、資料室の宴は大抵は夜明けまで続いた。私は声の方はからきしダメで、会場にピアノがあるときは即興変奏曲「人間学教官の歩き方」を演奏した。(大分メンバーが変わったので、新しいバージョンを考えている)。(続)
コンパの話以前に書くべきことはあった、と少しばかり反省。教師も学生も実はいつもよく勉強していたことは言うまでもない。