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2011年7月 8日

第9回新潟哲学思想セミナーが開催されました 【NiiPhiS】

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 第9回セミナーでは、講師に関西大学の門林岳史先生をお迎えして、「メディアの消滅──マクルーハンからポストメディアへ」というテーマのもと、私たちの生活において欠かせない情報伝達の、あるいは情報収集の手段(後に、このセミナーによってメディアはたんなる情報伝達の手段ではなくメッセージそのものであるということが理解できたのだが)であるメディアの概念について、そしてそのメディアの行方について詳細にお話していただきました。
CIMG1651.jpg  門林先生はこのセミナーを通して、現代社会においても、どの時代のどのような社会においても、必要不可欠な概念であるメディアについて再び考えなおし、メディア以降のメディア、ポストメディアの可能性について深く考える契機を私たちに与えて下さいました。会場は多くの学生や教員によって埋め尽くされ、予定の時間ぎりぎりまで議論が盛り上がり、たくさんの質疑応答が投げ交わされました。
CIMG1655.jpg  コメンテーターとして、新潟大学の石田美紀先生にもお越しいただき、門林先生に対峙するという形で発表していただきました。門林先生も石田先生も上手くメディアを使いこなしながら、画像などを見せてわかりやすく、具体的に発表されていました。私も人間学ブログというメディアを用いて、両先生方の発表をそっくりそのまま報告したいと思っているのですが、私の力量にも字数にも制限(=限界)があるので、全体の議論からできるだけ逸れることなく、個人的に興味深かった箇所を重点に、今回のセミナーの内容について紹介させていただきます。
 まず、門林先生はマクルーハンを通じて、現在考えられているような、技術的なコミュニケーションの手段としてのメディアではなく、本来の原意であった、二つの存在のあいだにあるもの、両者の間に介在するものとしてのメディアを考えていく必要があると主張されました。次に、門林先生はマクルーハンの思想を汲みながらも、マクルーハン以降のメディアを論じてきたジャン・ボードリヤール、ポール・ヴィリリオ、フリードリヒ・キットラーの三人を取り上げられました。
 簡単に内容をまとめると、ボードリヤールはマクルーハンの「メディアはメッセージである」を推し進めることによって、メッセージの終わりだけではなく、メディアそのものも終わりを迎えるとメディアの消滅を宣言した。ヴィリリオは瞬時性と偏在性を推し進めることによってメディアが消滅すると主張した。つまり、瞬時のうちに偏在することによって、媒介作用が消去され、あるいは、媒介作用の知覚可能な痕跡が消去されるので、媒介としてのメディアは消滅するのである。キットラーは普遍的書き込みにメディアがおり込まれることによってメディアが消滅すると主張した。つまり、デジタル技術によってすべての情報チャンネルが二進法のデータとしてコード化されることによって、個々のメディアの差異が消滅するのである。
 門林先生はこの三人のそれぞれのメディアの消滅についての理論を紹介した後、彼らの議論は異なるように見えても同じ方向に進んでおり、マクルーハン的なメディアの概念の潜在的可能性は使い果たされ、すべてを包括する全面的な媒介作用のうちに消尽すると述べられました。

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 この門林先生の議論に対して、石田先生はチェルノブイリの原発事故の写真と福島第一原発事故の写真を用いて反論されました。二つの写真を見比べることによって、メディアの一元化に抗う可能性を示されたのです。チェルノブイリの原発事故の写真はアナログのカメラを用いて撮影されたのであるが、そこに光とアナログカメラの関係!?によって放射性物質が光の帯として映し出されていた。それとは逆に、デジタルカメラによって撮影された福島第一原発事故の写真には放射性物質が映し出されていない。つまり、放射性物質というメッセージがメディアのデジタル化(一元化)によって伝達されなくなってしまったのです。そして、メディアが一元化することによって旧来のメディアが浮き彫りになると石田先生は述べられていました。
 その他にもさまざまな方から質問があり、地元住民の方の質問もあり、非常に議論が盛んになってきたところで、残念ながらセミナーの閉会の時間になってしまいました。まだまだ先生方にお伺いしたいことがありましたが、さまざまな疑問や問題はこれからの私たちの課題として、このセミナーをきっかけに大いに考えていきたいと思います。
 個人的な感想としては、私もメディアが一元化すればするほど、メディアの一元化に抗する可能性が生まれ、そのメディアの一元化からはみ出るメディアが、メッセージが出現するのではないかと思いました。セミナーの初めに門林先生がお話していたように、バーチャル(シミュラークル)が本物に近づくことを止め、あえてヴァーチャルがヴァーチャルらしさへ、ロボットがロボットらしさへ、あるいはボーカロイドがボーカロイドらしさへ向かう道もあるのではないかと思いました。つまり、ボーカロイドで言うならば、私の声をそっくりそのまま伝えるメディアとしてボーカロイドを用いるのではなく、むしろ私の声を歪めて、私の声から離れて、私の声とは違って、機械らしく声を伝える(歌わせる)メディアとして用いているのではないのかということです。そこには瞬時的に偏在的に伝える一元化されたメディアではなく、私の声を伝えない、歪めるメディアが存在するのではないだろうかと密かに疑問を抱いていました。
 最後に、このセミナーに遥々関西からおいで下さった門林先生に改めて感謝するとともに、議論を盛り上げてくださいました石田先生、吉田先生、その他ご来場していただきました地元住民の皆さま、新潟大学の学生の皆さまにも感謝したいと思います。また、NiiPhiSを運営してくださっている先生方にも感謝をして、長くなりましたが、第九回新潟哲学思想セミナーの報告を終わらせていただきます。

[文責=新潟大学大学院現代社会文化研究科修士課程・内山 友彰]