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2012年7月27日

第12回新潟哲学思想セミナーが開催されました 【イベントの記録】

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 第12回セミナーでは、講師に高崎経済大学の國分功一郎先生をお迎えして、「スピノザの異物性」というテーマでお話いただきました。國分先生は大学における専門の研究のみならず、論壇や各種メディアにおいても非常に活躍されておられる気鋭の研究者であり、その注目の國分先生の講義を聴くためにさまざまな人々が集まり、会場は想像を上回るほどの聴講者で溢れました。人文学部の学生や教員だけではなく、他の学部の学生や地域の人々、県外在住の学生など多様な方々が参加してくださいました。
 國分先生の語り口は非常に明快で、語られる内容も具体例やスピノザに関する物語(=歴史)などに基づき、どのような人でも、哲学をあまり知らない人でも分かりやすいものでした。講義の構成も、誰もがこの講義を聴けば(体験すれば)、スピノザの哲学を初歩レベルであっても理解することができるほど明証的なものでした。この國分先生の声、語り口、言説の明晰さが、哲学の分野を越えて、さまざまな人々からの注目と期待を集めている所以なのだと実感することができました。
IMG_3779.JPG  講義の肝心の内容を要約してみます。スピノザを理解しようとするとき、近代哲学の側面から理解しようとすることは不可能である。つまり、従来のデカルト主義的な観点、すなわち従来の近代哲学的な「認識の仕方」や「真理のとらえ方」からスピノザを理解することは不可能である。むしろ、スピノザを近代哲学とは異なった見方で、近代哲学の異物として理解することが重要である。真理であることが確かになるためには、デカルトが言うような明晰・判明などの標識を一切必要とせず、ただ真の観念を持つだけでよいと主張するのである。したがって、真の観念を持っている人だけが真の観念が何であるかを知っており、持っていない人に真の観念が何であるかを説明することができないことになる。この真理の認識の仕方のズレ、近代哲学からのズレこそがスピノザ(の異物性)の理解を妨げていた。また、スピノザのような考え方(「真理の到達」と「主体そのものの存在の変容」とのつながり)は古代のギリシャ哲学の脈絡の中にあり、むしろデカルトによってその脈絡が断たれてしまった──以上が簡単な要約です。
 この講義に対して、さまざまな質問が出ました。その質問の中には、スピノザは本当に近代哲学の異物であったのか、つまりスピノザの哲学はまさしくドイツ観念論そのものではないのか、あるいはスピノザの哲学は一見抑圧され、忘却されてきたように見えるが、地下においてラディカルに継承され、多様化されてきたのではないかなど鋭い意見が飛び交いました。スペースの関係上、これ以上長々と報告できないのですが、スピノザを知らない者にとっても非常にわかりやすく、有益な新たな認識の仕方を手に入れることができるような講義であり、哲学を研究する者にとっても非常に思慮に富むような、そして多様な分野に派生するような、私自身にとって今後の研究に影響を与えるような貴重な講義でした。

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 最後になりましたが、このセミナーに遠方よりおいでくださった國分先生に感謝するとともに、議論を盛り上げてくださいました先生方や、ご来場していただきました地域の皆さま、新潟大学の学生の皆さまにも感謝したいと思います。また、NiiPhiSを運営してくださっている先生方にも感謝をして、長くなりましたが、第12回新潟哲学思想セミナーの報告を終わります。 

[文責=新潟大学大学院現代社会文化研究科修士課程・内山 友彰]