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2014年8月17日

第17回新潟哲学思想セミナーが開催されました 【NiiPhiS】

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 第17回新潟哲学思想セミナーでは、講師に神戸女学院大学の大橋完太郎先生をお迎えし、「啓蒙の盲点、啓蒙批判の盲点」というテーマでお話いただきました。
 第二次大戦後にアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』によって、18世紀以来の啓蒙思想は批判を受けました。しかし18世紀のフランス、ひいてはヨーロッパの知識人たちによる啓蒙の活動と、アドルノらによって告発された啓蒙の姿には差異があるのではないか、そしてその差異はいかなるものか。お話しでは主にこの問いが扱われました。
 啓蒙というと理性によって不合理な伝統・偏見を打破し、人々を無知の状態から解放する運動であると言われます。しかしアドルノらは啓蒙によってむしろ人類は一種の新しい野蛮状態に落ち込んでいくと述べています。
ohashi2.jpg 啓蒙時代に先立ち「知は力なり」と言ったベーコンは科学的方法の先駆者ですが、啓蒙は近代科学としてこれを押し進め、人間は自然を支配するために自然からその方法を学び取っていきました。そして合理的な思考によって世界から霊的なものを排除し、自然を客体化するとともに他ならぬ人間自身をも客体化、支配・操作の対象として把握していったのです。
 同時に啓蒙は合理化によって神話を解体しました。この試みは成功したように見えます。しかし啓蒙は思考を理性の限界内に押し込んだにすぎず、当の理性の限界を不問に付しているかぎりは神話がその有効範囲で力を持つという点で、啓蒙は完全に神話から分離していないのだ、と、アドルノとホルクハイマーは批判を投げかけました。
 こうした啓蒙批判を念頭に置きながら、大橋先生はそもそも啓蒙は統一的な思想運動ではなく、国・言語圏・共同体ごとに異なる「啓蒙」の姿があったのではないかと指摘しています。
 とくに大橋先生の専門であるディドロは、技術・工学の発展により増大した知識をとりまとめ、人間の認識の限界を規定ないし拡張することに哲学的な合理性の本質を置いていました。一部の天才によって生み出された技術を新たな革新に向けて人々に還元し、理性の進歩を諦めることなく押し進めることにディドロの哲学の理念があった。この哲学的営為の最たるものが彼を中心として刊行された『百科全書』です。
 ohashi3.jpg ディドロはみずから「百科全書」の項目を担当し、ここには、彼が知というものを山や川、動物など彩りに満ちた野のような存在として描こうとしていることが読み取れます。このように鮮やかに描写された、総合的な知の風景において、欠いてはならないものをディドロは挙げています。それは思惟し観察する存在、すなわち人間のパースペクティヴです。もしそれの存在が禁じられたならば、自然に例えられる感動的な知の風景は悲しく閑散とした光景となるほかはありません。そうではなく、逆に人間という中心を置くならば、事物から人間へ、そして人間から事物への生き生きとした快い作用・反作用の往還が生まれることになるのです。
 こうしてみると、ディドロにおける啓蒙の姿はアドルノらが批判した啓蒙に見られる、人間による人間支配の原理でも、人間を主体から客体へ転落させ疎外へ追い込むものではありません。むしろ天才の認識を人々へ繋ぎ、美しく広がる知の世界を生き生きと歩く人間の新たな姿を映し出しているように感じました。こうした知の在り方は現代を取り巻く空虚さなどを考える際に大いに参考になるのではないかと思います。大橋先生、有意義なお話をありがとうございました。

[文責=新潟大学心理・人間学主専攻プログラム人間学分野三年・阿部 司]