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2015年1月31日

第18回新潟哲学思想セミナーが開催されました 【イベントの記録】

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 第18回新潟哲学思想セミナーでは、講師に立命館大学の千葉雅也先生をお迎えし、「文化現象としての思弁的実在論(序説)」というテーマのもと、いわゆる「ポスト構造主義」以降広まっている「思弁的実在論」という思想についてお話しいただきました。
 2000年代後半から英国を中心に広まっているこの思想は、人間にとって事物がどう在るか、ではなく、「もの」それ自体についての在り方について語ろうとする哲学です。これまでは、我々がものを認識するとき、私からそれがどう見えているのか、というように、私の主観抜きでは語りえないとされてきました。このような相関主義の立場を批判し、我々にとっての世界ではなく、ものそれ自体における世界にアクセス可能な哲学を構想するというのが思弁的実在論です。
chiba2.jpg  思弁的実在論のひとつには「オブジェクト指向存在論」というものもあります。これは存在者を一般的に「オブジェクト」として平等に扱い、オブジェクト同士の関係を原理的に考察しようという存在論です。存在はすべて同一平面上にあり、言ってしまえば私も机も神もすべて対等な関係にあります。ものを言わば野生の状態に帰すことによって、本来の力を引き出そうとする考え方です。
 デリダやドゥルーズなどいわゆる「ポスト構造主義」の哲学者によって、我々にとって真の他者とは「遠くて捉えきれないもの」「把握・同化不可能」という位置づけがなされてきました。しかしこの「思弁論的実在論」は、遠い他者の「認識不可能性」が、我々の認識可能性に相関する不可能性である、という立場をとっています。つまり、認識不可能、というのは我々から見て認識不可能なのであり、それは結局、我々人間と相関的であるということになります。そうではなく「我々にとって不可能ではない遠さ」を明らかにすることもまた、思弁的実在論の課題です。
 chiba3.jpg  他者の不可能性をフロイトの「不気味なもの」という言葉を使って表すとするならば、我々がものを認識する際の三通りの仕方があると千葉先生はおっしゃっています。
 一つ目は「なじみのもの」という仕方です。これは相関主義の立場でのものの捉え方と言えます。二つ目は「不気味なもの」という仕方であり、これはものから完全に意味が排除された状態です。三つ目は「不気味ではないもの」という仕方です。これは「なじみのもの」とも異なり、文字通りそこに在る「もの」です。これこそが「もの」の即自的な在り方であり、思弁的実在論が目指すものの捉え方だと言えます。
 従来の相関主義的なものの見方を批判し、ものそれ自体について考える「思弁的実在論」という思潮がこれからどのように展開してゆくのか、とても興味深く感じました。千葉先生、どうもありがとうございました。

[文責=新潟大学人文学部 心理人間学主専攻プログラム人間学分野3年・小島瑶子]