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2020年2月14日

第37回新潟哲学思想セミナーが開催されました。 【イベントの記録】

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第37回哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に東北大学の佐藤駿氏と小原拓磨氏をお招きし、本学からは高畑菜子氏が登壇し、「他者への問い――〈あなた〉は私にとって何者なのか?」というテーマのもと開催されました。

初めに、高畑氏からカントの良心論についてお話をいただきました。一般的には、カントの倫理学において「他者」の入り込む余地はないように思われています。どのようにしてカント倫理学で「他者」が自己と関わるのでしょうか。そこでカントの「他者」概念に関わるものとして、カントの良心論の解説をして頂きました。

カントの良心についての一つの叙述として、『人倫の形而上学』の第二部「徳論の形而上学的定礎」いわゆる「徳論」が挙げられます。ここでは良心は誤ることがないという議論を法廷モデルにおいて説明しています。こうした良心の法廷モデルにおいて主観の中に「他者」が現われるとしました。

そしてこのような良心の法廷モデルにおいて審判を正確に行なうために「誠実さ」を必要とします。この「誠実さ」という概念は、カント倫理学において特定の立ち位置が確立されてはいませんでした。このような「誠実さ」は自己から他者へ汎通する徳であり、カント倫理学における「他者」概念の把握の根底的な位置を占めていると考えることができるとし、カントの良心論の解説を締めくくっています。

IMG_0349.jpg次に、佐藤氏にフッサール現象学の立場から、他者についてお話しいただきました。佐藤氏は、自己を否定するものとして他者を捉えます。

現象学は、その性格上「自我論(エゴロギー)」として始めなければなりません。けれども、まさにそのために自己とは異なる主体である他者が問題になってくるのです。私が経験する世界は、私だけのものではなく他者の世界でもあり、〈万人にとってそこにある〉ということが前提とされているとフッサールは考えます。このことが意味するのは、他者経験を現象学的に考察することが、「客観性」の問題を考えることにもなるということです。

他者は、どのように私に現われてくるのでしょうか。純粋に私固有な世界、すなわち原初的(primordial / primordinal)世界には、他者はまず身体(Leib)として現われます。そうなると私は、身体を持つ他者を見ると同時に、それにもよって見られていることを意識せざるをえません。原初的世界は私固有な世界であるにもかかわらず、私の身体及び他者の身体が属しているために〈私たち〉の世界と言えます。けれども、そこには語りかける「私」も、語りかけられる「あなた」も存在しません。原初的世界には人称性がないのです。 

「私」と「あなた」がはっきりと現われてくるのは、二人が話し合いにおいて意見が対立しているときではないかと佐藤氏は考えます。つまり、他者、そして私自身が、自分が述べたことが否定されるという経験を通じて、それぞれ相互に現象するのではないかということです。私は他者による否定を通じて世界をよりよく知るという可能性を有しているとも言えます。 佐藤氏はフッサールの他者分析をもとにして、身体的な現象として他者が経験されることをまず示しました。そのあとで、会話での意見の対立を通して、〈私〉を否定しうる者としての他者が経験されると述べられました。

 最後に、小原氏にデリダの他者論について発表していただきました。デリダの考える「他者」は、通常想定される「他の人間」という意味だけではありません。デリダによれば、autre(他者、他なるもの)が語るのは、消え去るもの、あるいは現象しないものなのです。 

IoGcNC4q43RiCpD1581612733_1581612888.jpgデリダは、フッサールの他者論に言及します。フッサールが述べているのは、他者が自我(エゴ)に還元不可能なものとして現われてくるということだとデリダは言います。レヴィナスは、フッサールが他者を「エゴの現象」として自我に同化していると解釈しました。けれどもデリダによれば、フッサールは他者を自我に還元不可能なものとして考えていたのです。

フッサールやレヴィナスを手掛かりにしつつ、そもそも現れないものとしての他性についてデリダは思考します。そもそも、私(自同者)にとって他者が他者として現われる事象、あるいは自同者が他者とともに現われる事象とは何なのでしょうか。まずそのように自と他が問題とされるためには何よりもまず両者がそれとして現れなければなりませんが、そのように自と他を区別して空間化し、差異ある者として現われさせる働きが「差延」なのです。

デリダは、西洋哲学は音声中心主義であったと言います。声が、主体の自己現前、意識、精神、ロゴス、真理を表現してきたものなのです。デリダはこれらの「音声(phoné) 」としての声とは別種の声として、ハイデガーの「存在の声」を採り上げます。存在の根源的な意味は、言葉にならず、したがって声にもなりません。ハイデガーによれば、 「存在の声」を聴くことができるのは詩人なのです。詩人は「存在の声」を聴き取り、それを自らのうちに、自己の傍らに(bei sich)、 ひとつの無言の声として携え(tragen)、 この声に応答する責任を引き受けます。

往々にして、詩人の言葉は理解されません。ハイデガーは詩人を初物(Erstlinge)とも表現し、初物は供され犠牲になってしまうと言います。デリダは Erstlinge を les initiateur(創始者、先駆者)と仏訳し、新たに創設する者あるいは真理を最初に語る者は、体系に属さず、常に排除されていると述べます。この意味で、創設者である他者は現われません。体系の創設者は排除され、痕跡しか残っていません。起源において排除された他者の声、痕跡としての声に耳を傾け、友の声に耳を開くことのできることが、「脱構築」なのです。

 長くなってしまいましたが、それだけ内容が濃く、実りあるセミナーでした。最後に、ご講演いただいた佐藤駿氏、小原拓磨氏、そして高畑菜子氏に深く感謝申し上げ、第37回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学人文学部 心理・人間学プログラム 人間学主専攻 山田太朗、横田剛志]