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2021年1月 8日

第39回新潟哲学思想セミナーが開催されました 【NiiPhiS】

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第39新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に早稲田大学の星野太先生をお招きし、「概念のアトリエ──ジャン゠フランソワ・リオタールの講義録から見るフランス現代思想」というテーマのもと開催されました。講演はタイトルにもある「アトリエ」という言葉についての解説から始まりました。リオタールは『漂流の思想』において、美学を「もっとも判別力のある批判的概念を鍛えるための仕事場」であると述べています。

リオタールは1954年に最初の著書『現象学』を出版した後、長らく社会主義運動(「社会主義か野蛮か」、「労働者の権力」)に身を捧げていました。次に著作を発表したのは1971年『言説、形象』です。政治運動を経て発表された『言説、形象』でリオタールが一貫して対象としていたのは「美学」でした。ここでしばしば言われるのは「政治」から「美学」への転向ということです。しかしリオタールにとっては両者が独立した分野として存在するのではなく、美学の問題は同時に政治の問題にほかなりませんでした。「判別力のある批判的概念を鍛えるための仕事場」としての美学と言ったとき背景にあるのは、リオタールの思想における政治から美学への「転向」ではなく、政治と美学が地続きになった領域であったと星野先生は主張されます。

1971年に『言説、形象』を発表して以降、リオタールは自身のキャリアにおいて「概念のアトリエとしての美学」を理論的な著作や展覧会といった実践的な形を通じて明らかにしていこうとします。『言説、形象』は哲学者としての最初の主著と言えます。リオタールを一躍有名にした『ポストモダンの条件』や『文の抗争』、さらには1985年にポンピドゥー・センターで行なわれた展覧会「非物質的なものたち(Les Immatériaux)」(以下「非物質」展)などもリオタールの主要な仕事として挙げられます。

149F6655-C36B-408F-8099-20C172B84E35.jpg星野先生は、続いて今日のリオタール研究について紹介してくださいました。日本語圏でのリオタール研究が進展しない一方、英語圏においてはリオタールの読み直しが盛んに行なわれています。例えば、加速主義の一種として、リオタールの『リビドー経済』をはじめとする著作が加速主義のプロトタイプとして読み直されているといった状況や、リオタールの「非物質」展についての論集(30 Years after Les Immatériaux, 2015の出版、さらには2019年に中国美術学院にて企画された、『ポスト・モダンの条件』の40周年を記念したシンポジウムなどがあります。

 次に、リオタールの『崇高の分析論──カント『判断力批判』についての講義録』(以下『崇高の分析論』)の紹介へと移ります。リオタールが80年代において最も力を入れていたプロジェクトの一つが、「崇高」の美学の再検討でした。なかでも『崇高の分析論』はリオタールの崇高論を最も包括的に扱った書物です。しかし、だからといって『崇高の分析論』においてリオタール独自の崇高論のアイデアが存分に込められているわけではない、という点に注意が必要であると星野先生はおっしゃいます。本書は書物というよりは、リオタールが80年代に行なったカント『判断力批判』の第23節から29節に相当する「崇高の分析論」の講義ノートと言った方が適切かもしれないとのことです。本書で採用されているのは、フランスの高等教育における伝統的な精読の作法「エクスプリカシオン・ド・テクスト(explication de texte)」と呼ばれているものです。それはリオタールが自身のアイデアを込めたり、関連資料を外部から持ち込んで読解するというのではなく、あくまで当のテクストに即してそのなかに説明を見出そうとする態度であると言えます。

リオタールを『ポスト・モダンの条件』の名のもとに知る読者にとって、近代(モダン)を代表する哲学者であるカントの名前が登場することに多少の驚きを覚えるかもしれません。しかし『文の抗争』や『熱狂──カントの歴史批判』といった80年代に発表されたリオタールの書物に通じていれば、そこでカントの名前が挙がることは妥当であると言えるでしょう。

 20世紀後半の「フランス現代思想」において、カントはもっとも盛んに論じられた哲学者の一人でした。リオタールだけではなく、同時代に活躍した、フーコー、ドゥルーズ、デリダといったフランスの哲学者たちもカントについての書物を残しています。では彼らはどのような視点からカントに取り組んだのか。それは、カント哲学の体系(建築術)を崩しうる「穴」はどこなのか、といった点から読み直されました。そのときに哲学者が焦点を定めたのが、『判断力批判』における「崇高なものの分析論」でした。

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次に 星野先生は、リオタールの崇高論の具体的な内容に話しを移されました。リオタールの崇高論を考える際にカントと並んで重要になるのが、エドマンド・バークの崇高論です。リオタールが自身の崇高論において「呈示しえないものの否定的呈示」と言うときには、カントの崇高論をモデルとしています。カントは純粋なる〈理念〉や無限の力、絶対的な大きさ、などを空間や時間において呈示することはできないと述べています。しかし、カントが「否定的呈示」と名付けるものによって、それらが呈示不可能である、というそのこと自体を間接的に「喚起する」ことはできます。いささか込み入った記述ですが、リオタールはこの「否定的呈示」のモデルを、自身の前衛芸術論において取り入れています。他方で、リオタールがアメリカの美術家バーネット・ニューマンの絵画を論じる際には、カントの否定的呈示の崇高論ではなく、バークの崇高論が採用されています。バークの崇高論は間接的な暗示ではなく、直接的な「呈示゠現前」に基づくものです。リオタールの崇高論には、「呈示しえないものの否定的呈示」(カント)と「呈示そのもの」(バーク)の二つのモデルが混在しているのです。こうしたリオタール独自の視点から展開された崇高論は、80年代の著作『子どもたちに語るポストモダン』や『非人間的なもの』において積極的に扱われています。

しかしこれらの書物が「リオタールの」崇高論であるのに対して、『崇高の分析論』は少し性格が異なります。『崇高の分析論』はリオタール独自の視点が前面的に打ち出された書物というよりも、リオタールによるカントの哲学の綿密な注釈書、つまり「エクスプリカシオン・ド・テクスト」〔゠精読〕としての側面が強い書物です。しかし、そういった性質の違いがあるにもかかわらず、『非人間的なもの』をはじめとする80年代の著作群で展開されているリオタール独自の崇高論と、カントの綿密な読解である『崇高の分析論』はしばしば同列に扱われてきました。前者では抽象表現主義や前衛芸術との関連で崇高を論じているのに対して、後者はカントのテクストに沿った読解であり、文脈や目指す方向がそもそも異なります。星野先生のご講演では、この点が強調されました。最後に、『非人間的なもの』におけるリオタール独自の崇高論の展開と、リオタールのカント読解、すなわちカントの概念がどのように翻訳され、リオタールの著作に反映されているのか、といった点についてそれぞれケーススタディが紹介されました。

 未だ「ポストモダン」という言葉との関連で語られることが多いリオタールについて、これまであまり紹介がなされてこなかったリオタールの哲学や、近年のリオタール研究の動向についてお話し頂き、大変貴重な時間となりました。最後になりますが、ご講演いただいた星野太先生に深く感謝申し上げ、第39回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学現代社会文化研究科博士前期課程 長谷川祐輔]

 

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