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2009年3月 5日

【哲学ノート】カントの観念論 【】

2007年度に定年退職された佐藤徹郎先生は、形而上学的な実在論の哲学者であって、その確固たる思考にはわたしも強い印象をうけた。存在するものはその知られかたにかかわらずそのように存在する、というのが先生の確信であった。観念論に対しては、終始、批判的な議論を展開されたものである。観念論者によれば、物のありかたは知られかた次第で変わり、その意味では精神に依存するのであるが、先生はその点を認めず、存在の同一性を事実として確信しているといって譲らなかった。ときには、超越論的観念論を標榜するカントの研究者であるわたしにも、批判の矢が向けられた。

ここでは、遅ればせながら先生のカント批判に対する応答のつもりで、すこしカントの観念論について考えてみたい。

たしかにカントはわれわれに知られているこの「現象」の世界の観念性を主張するが、それは同時にその背後に横たわる不可知の「物自体」の存在を容認することでもあった。カントがいわゆる観念論者であったならば、物自体のようなものの存在を残したはずがなかろう。じっさい、つづくドイツ観念論の哲学者たちは、このような物自体の残存にカント哲学の不整合をみとめ、これを消去することで観念論を徹底化する道を歩むことになる。しかしわたしには、この悪評だかい「物自体」には、むしろカントのある洞察がこめられているように思われるのである。

カントのねらいは、物体を観念化することによって精神のなかに呑みこむことではなかった。それをねらっているのであれば、どうしてわれわれに対する知られかたに依存せずに端的に存在する物自体を、物体現象とは別に温存するというような不徹底を容認することができたであろうか。カントによれば、物自体は不可知のなにものかとして、現象の背後にたしかに存在する。しかしながら物自体は、知られざるものであるから、われわれの知の外側にあり、いわば沈黙したまま、暗く横たわっているにすぎない。ここで問題は、そのような沈黙の存在そのものが、いかにしていまわれわれが体験しているこのような日常世界として現われてくるか、ということなのである。

われわれの日常世界は、ここには自転車、あそこにはブナの木、というように、それがそのように存在しているということが(暗黙裏にでも)意識されながら、立ち現われてくる。われわれの周囲では、諸物の存在は沈黙せず、むしろ「自分たちはこのように存在している!」という覚醒の歓声をあげて、みずからの輪郭線を光らせながら、われわれに迫ってくるのである。

カントの分析論によれば、そのような現われ(=現象)は、表象(イメージ)を範疇(カテゴリー=知性概念)のもとで思考することによって可能になる。物自体から来る感覚の束について、(無意識的にでも)「あれは自転車だ」などと思考することで、感覚ははじめて意識化され、知られざる暗闇ではなく、このように現われてくる物体現象となるのである。

物自体と現象との二元論は、カント哲学の核心的テーゼのひとつである。それが意味するのは、沈黙のうちに存在する物自体そのものが、われわれの知にかたどられることによって現象として立ち現われ、このようなわれわれの世界として光り輝くようになる、という構造である。カントの観念論は、知られざる彼方の存在を肯定すると同時に、いまここにある現われの奇跡を言祝ぐものなのである。