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2009年5月18日

【哲学ノート】「批判の謎」をめぐって 【】

先日の日本哲学会の研究発表のひとつに、宮村悠介氏の「「純粋悟性概念の演繹」の倫理学的射程──学と智慧」があった。氏によれば、カント『純粋理性批判』第二版の超越論的演繹論は、第一版のそれとは異なって、カテゴリー(純粋悟性概念)の「起源」を明らかにすることを課題としており、これによってはじめて『実践理性批判』におけるカテゴリーの超感性的な実践的使用への道がひらかれるのである。

わたしはこれまで、『純粋理性批判』第二版における改訂は、基本的には「理性批判の先鋭化」として理解できると考えてきた。「フェノメナとヌーメナ」章や弁証論の誤謬推理章における改訂は、純粋なカテゴリーによる悟性的思考の権限を限定する方向へとむかっているように思われるからである。しかし氏のいわれるように、超越論的演繹論ではむしろ実践哲学への展開を睨みながら、感性的経験の足枷からカテゴリーを解放するような方向へとすすんでいる。第二版への改訂は、このような一見すると対立するような二方向を孕み、せめぎあっているのである。

たしかにこのような問題は、それ自体としては周知の学説的事項の一局面にすぎない。よく知られるように、理論理性(思弁理性)を批判的に限定することと、それによって空地となった領野に実践理性を解きはなつこととは、カント哲学の「体系形式」においては表裏一体である。しかしそれはたんに、これまで漠然と考えられてきたように、『純粋理性批判』の弁証論における思弁理性の批判から、『実践理性批判』における純粋実践理性の確立へ、というしかたで段階的に展開されるというのではない。むしろすでに『純粋理性批判』において、理論理性の実効性を保証すべき分析論の、まさにその核心をなす超越論的演繹論の課題のなかに、第二版のカントはあらたに実践理性への進展の出発点を刻みこんだのである。

第一批判から第二批判へのこのような歩みは、カントそのひとの言う「批判の謎」(AA V 5)であり、これまで多くの研究者をのみこんできた深淵である。宮村悠介氏の研究発表は、その深淵を照らしだす一条の光となるもののように思われた。