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2013年4月17日

第13回新潟哲学思想セミナーが開催されました 【イベントの記録】

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  第13回新潟哲学思想セミナーは、講師に本学の番場俊先生をお迎えして、「ドストエフスキー、作家の顔、小説の声」というタイトルのもと開催されました。ご講演では主に、昨年末に出版された先生の著書『ドストエフスキーと小説の問い』(水声社)の序章に沿ってお話しして頂きました。大学は春季休業期間でしたが、新潟大学の教員や学生のみならず県外からも多くの方にお越し頂き、会場は満員となりました。
 番場先生はまず導入として、今回のセミナーのタイトルにある「作家の顔」に触れ、次にドストエフスキーの脱神話化の試み、そして最後に「ドストエフスキーと小説の問い」についてお話しされました。以下、先生のご講演の中からいくつかの主題をご紹介いたします。
 19世紀は作家の肖像が絵画から写真へと変化していく時代であり、ドストエフスキーはちょうどその過渡期に生きた作家でした。絵画は画家がモデルをじっと見つめて像を築き上げていく一方で、写真にはそのような画家の眼が存在しません。器械を媒介することで見る側と見られる側の関係は断ち切られ、写真に撮られるということはある意味、小さな「死」の経験であったと言います。先生は1880年にパノーフの撮影したドストエフスキーの写真を取り上げ、これは器械を前にして不安を覚え、自分自身に似ることを忘れてしまった顔だと説明されました。このような特徴から、写真は絵画よりも人々の意思のずれを引き起こしやすく、そのために先生は写真に着目されたそうです。
bamba2.JPG  先生の著書のタイトルにもなっている「ドストエフスキーと小説の問い」、この両者の対置は日本においてあまりなく、「小説の問い」は従来のドストエフスキー研究において無視されてきただろうと先生は指摘します。
 ドストエフスキーは小説というジャンル、または小説の歴史を問うかのように、小説を執筆してきたといいます。18世紀の小説では一人称形式が主導的であったのが、19世紀には小説の形式は三人称へと変化します。ドストエフスキーは1846年に書簡体小説『貧しき人々』でデビューし、1866年に『罪と罰』で初めて本格的三人称を試みました。『罪と罰』の第一稿(一人称)と完成稿(三人称)を比べて見えてくるのは、小説の序盤の完成稿は、ほぼ第一稿の一人称を代名詞に置き替えただけのもので、第三者的な情報を流せる三人称形式の利点が活かされていないことです。しかしこれは彼が意図的に行ったことで、一人称的に書くことであえて盲点を残したのです。そして物語が進むと第一稿と完成稿の違いは大きくなり、三人称を最大限に活かした手法へと変わります。これは、ドストエフスキーが小説の歴史を受けて、自分はどのように小説を書いていくかに挑戦していった表れだと言えます。
 またドストエフスキーは小説を通じて、社会の全体性を描き出そうともしていました。19世紀は、かつては神のもとで統一されていた人々の価値観がばらばらになり、人々は自分がどのような社会でどのように生き、何に価値を持ちうるのかを問うていた時代でした。社会学や精神科学でも同様に社会の全体性の描出が求められており、こうした学問と同じ課題を共有しながらも、小説は学問とは違う全体性の提示を模索していたと言えます。しかしドストエフスキーは、ある種の全体性を達成したがる一方で、周到に穴をあけてその達成を避けるような、相反する態度を取っていました。ドストエフスキーはもしかしたらこの態度を通して、全体を描こうとしても結局は断片でしかないことや、いずれ崩れてしまうということを表現しようとしていたのではないか、と先生は仰いました。
 フーコーの『知の考古学』における「分散 dispersion」という言葉から着想を得て、ドストエフスキーという神話、あるいはロシア文学という神話を脱神話化し、様々な形に「分散」させてみる、これが先生の著書において試みられているということでした。講演後の質疑応答では活発に意見交換がなされ、予定時刻を過ぎても白熱した議論が展開されました。
 今回のセミナーではドストエフスキー入門のみならず、それを通じて、メディアとしての写真や小説について触れることができ、表象文化論的な洞察のアプローチを学べる有益な機会となりました。

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 最後になりましたが、ご講演してくださいました番場先生に感謝を申し上げると共に、参加して頂いた皆様、そしてセミナーを運営してくださっている先生方にも感謝申し上げ、第13回新潟哲学思想セミナーの報告を終わります。

[文責=新潟大学大学院現代社会文化研究科修士課程・重川 成美]