本論文では、ライプニッツ(Gottfried Willhelm Leibniz, 1646-1716)の『ライプニッツ・アルノー往復書簡』、『形而上学叙説』、『弁神論』を用いて、そこに述べられている自由(liberté)に関する議論を見ていく。これらのテキストの中で、ライプニッツは偶然性、自発性、叡智を自由に必要な条件として挙げている。この三つの中でも特に多くの議論がなされている偶然性に焦点を当て自由について考察した。
自由は偶然性と密接に関わるとライプニッツは考えている。ライプニッツによると、偶然性があることによって自由論を脅かす議論である運命論が覆され、自由が保障される。『ライプニッツ・アルノー往復書簡』では、『形而上学叙説』第13節の「個体的実体の概念が、それに起こり得るすべてのことを一度に合わせて含んでいる」という記述が議論の的になる。この記述が真ならば、人間の行為や世界で起こる出来事は予め決まっていることになり、自由が失われる。しかしライプニッツは運命論を支持しているのではない。ライプニッツは上記の記述を主張しながらも、個体的実体の偶然性を持ちだすことで自由を確保した。個体的実体は個体概念によって構成されており、この個体概念は神の偶然的な選択によって選ばれ個体的実体に内在している。偶然性と対立し自由を妨げるものは、何らかの選択をする余地を与えない形而上学的な必然性だが、偶然性には、このような絶対的必然を排除する働きがある。そのため、偶然性があることによって自由が可能になる。
個体的実体が集まると世界ができるとライプニッツは考えていた。個体的実体の組み合わせは無限に考えられ、その数だけ可能世界がある。ライプニッツによると、可能世界と現実世界の違いは実際に存在するかどうかの違いだけである。神がある個体的実体を選択するとき、その個体的実体そのものだけでなく、同じ世界に属するほかの個体的実体との関係にも配慮して選択をするため、神は結果的に一つの最善の世界を選択することになる。可能世界に属する個体的実体の選択は、個体的実体に属する個体概念の選択と同様に、偶然的になされるので、自由が入り込む余地がある。
個体的実体を選択したり世界で起こる出来事を決定しているのが神であっても、人間に自由はある。ライプニッツの考えでは、人間の自由と神の自由は対立しない。なぜなら人間と神はどちらも理性を持っており、理性的に考えることで最も善い行為を選択することができるからである。ライプニッツは主知主義的な自由論を主張し、理性を用いて最善の選択をすることが自由だと見なした。理性を持つ人間と神は、自由や道徳において同じ価値観を共有しているため、神と人間の自由は両立する。
ライプニッツの自由論においては、世界やその構成員である個体的実体を支配する形而上学的な秩序よりも、道徳的な枠組みの方が優位に立つことが最終的にわかった。ライプニッツは調和や秩序を重んじる一方で、理性を伴う道徳的、実践的な判断や決定をするときに人間の自由が発揮されると考えていたことが明らかになった。
大学4年生にとって一番の大仕事は卒業論文の執筆である。なにしろ4年間の学業の成果を一本の論文という形にまとめなければならない。はじめての挑戦にはいつも波乱がまっている。学生も大変だが、われわれ教員のほうも毎年はらはらしている。
卒論は完成にまで至るプロセスも長い。人間学履修コースでは、3年生の冬にテーマを決め、4年生の春から初夏の構想発表会で頭だし、10月には中間発表会と題目提出を経て、秋から冬にかけて怒濤の追いこみ、晴れて1月に提出、1月か2月に卒業論文発表会と口頭試問、という次第である。
当然3年生には来年の卒論は大きなプレッシャーだろうし、また大学1・2年生やさらには高校生のみなさんにとっても、人間学ではいったいどんな卒論が提出されているのか、興味のあるところだろう。ところが、じっさいに提出された卒論をみる機会はなかなかない。過去の卒論の一部は人間学PSや言語学実験室に保管してあって見学できるし、オープンキャンパスなどでも展示しているが、やはり機会に恵まれない人もいるだろう。
そこで今回こころみに、今年度に指導した卒業論文から一篇をインターネット上で公開することを思いたち、このたび卒業する佐藤茉莉さんにお願いしたところ快諾を得た。先の記事に、人文学部のHPの履修コース紹介に公開されている卒業論文の概要を再掲載するとともに、執筆者(著作者)である佐藤さんの同意を得て、卒業論文『アウグスティヌス『告白』の時間論──人間学的側面からの再構成』全文のPDFへとリンクを張ってある。