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2022年10月14日

「よそ者」に対する倫理学:現象学的倫理学の試み  【NiiPhiS】

第42回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)

 

講演:「よそ者」に対する倫理学----現象学的倫理学の試み

講師:小手川正二郎(國學院大学准教授) 

日時:2022年10月26日(水)15:30-17:30

場所:新潟大学五十嵐キャンパス 総合教育研究棟B棟5階プレゼンルーム

対面・参加無料・申込不要

                                                                                

難民や移民といった「よそ者」とされる人々に対して、私たちはいかなる責任を負っているのか。とりわけ自身もある意味で「よそ者」であり続けたエマニュエル・レヴィナスの哲学を手掛かりに、現象学的倫理学という観点から、規範倫理学の枠組みを問い直しつつ倫理的思考の可能性について考えてみたい。

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講師プロフィール

小手川正二郎(國學院大学准教授)。1983年生まれ。國學院大学文学部哲学科准教授。慶應義塾大学大学院博士課程修了、博士(哲学)。専門は、現象学・フランス哲学(とりわけレヴィナス)。現象学の観点から、性差・人種・家族・難民などの問題に取り組む。著書に『現実を解きほぐすための哲学』(トランスビュー、2020年)、『甦るレヴィナス----『全体性と無限』読解』(水声社、2015年)、共著に『フェミニスト現象学入門』(ナカニシヤ出版、2020年)など。

 

新潟哲学思想セミナー(Niigata Philosophy Seminar:通称 NiiPhiS[ニーフィス])とは2009年に新潟大学を中心に立ちあがった公開セミナーです。新潟における知の交流の場となるよう、毎回、精力的にご活躍の講師をお招きして、哲学・思想にまつわる諸問題に積極的に取り組んでいきます。参加費不要です。どなたでもご自由にご参加ください。

問い合わせ先:岡嶋隆佑(ポスター内のアドレスへメールでお問い合わせください)

 

2021年12月 8日

ベルクソン『物質と記憶』研究の最前線  【NiiPhiS】

第41回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)


ベルクソン『物質と記憶』研究の最前線

原健一(北海道大学) ベルクソンの記憶の哲学

岡嶋隆佑(新潟大学)   いかにして記憶は日付を有するか:純粋記憶理論の一側面

天野恵美理(高崎経済大学) ベルクソンの記憶論における再認の問題


日時:2021年12月29日(水)15:00~17:20

参加無料

開催方法:Zoomミーティング(要事前登録)+対面(登壇者)

事前登録先: https://zoom.us/meeting/register/tJApf-GuqTsvHdYvc4EhdqyOlYmLyULACz5L

※録画、録音はお控えください


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登壇者プロフィール

原健一:北海道大学 科学技術コミュニケーション教育研究部門(CoSTEP) 博士研究員。主な論文に「「意識の諸平面」の理論におけるベルクソンの哲学的方法について――『物質と記憶』の一般観念論をめぐって 」(日本哲学会編『哲學』第71号、2020年)、「The Origins of Presentism ― On Bergson's Concept of "My present" in Chapter 3 of Matter and Memory 」(An Anthology of Philosophical Studies, Vol. 13, 2019)がある。

岡嶋隆佑:新潟大学人文学部准教授。訳書に、ベルクソン『時間観念の歴史:コレージュ・ド・フランス講義 1902-1903年度』(平井靖史・藤田尚志・木山裕登との共訳、書肆心水、2019年)、主な論文に「初期ベルクソンにおける質と量の問題」(日本哲学会編『哲學』第71号、2020年)など。

天野恵美理:高崎経済大学非常勤講師。主な論文に、「ベルクソン『物質と記憶』における「私の知覚」の形成段階について――二章のヴァリアント との比較を通じて――」(『メタフュシカ』、大阪大学大学院文学研究科哲学講座、46 号、2015 年)、翻訳として、カミーユ・リキエ「『物質と記憶』と形而上学の直観的再興――純粋理性の第四誤謬推論と第一・第二アンチノミー」(平井靖史・藤田尚志・安孫子信編『ベルクソン『物質と記憶』を診断する』所収、書肆心水、2017年)、フレデリック・ヴォルムス「『物質と記憶』における生」(平井靖史・藤田尚志・安孫子信編『ベルクソン『物質と記憶』を再起動する』所収、書肆心水、2018年)などがある。


新潟哲学思想セミナー(Niigata Philosophy Seminar:通称 NiiPhiS[ニーフィス])とは2009年に新潟大学を中心に立ちあがった公開セミナーです。新潟における知の交流の場となるよう、毎回、精力的にご活躍の講師をお招きして、哲学・思想にまつわる諸問題に積極的に取り組んでいきます。参加費不要です。どなたでもご自由にご参加ください。
問い合わせ先:岡嶋隆佑(ポスター内のアドレスへメールでお問い合わせください)

2021年3月 5日

カントにおける法哲学  【NiiPhiS】

第40回 新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS) 

カントにおける法哲学


講師 石田京子(慶應義塾大学)

日時 2021年3月4日(木)16:30~18:00
場所 新潟大学 五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F棟5階 人間学プロジェクト・スペース

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◎ 登壇者プロフィール:石田京子(いしだ・きょうこ)慶應義塾大学文学部准教授。専門は、カントの法哲学。カント哲学体系の内部における法と道徳のつながりや、それがカントの法理解にどのような影響を与えるのかを中心に研究している。主要業績として、著書に『カント自律と法──理性批判から法哲学へ』(晃洋書房、2019年)、共著に『新・カント読本』(法政大学出版局、2018年)、『入門・倫理学の歴史──24人の思想家』(梓出版社、2016年)、共訳書に『自由の秩序──カントの法および国家の哲学』(ミネルヴァ書房、2013年)他。


◎ 新潟哲学思想セミナー(Niigata Philosophy Seminar:通称 NiiPhiS[ニーフィス])とは 
2009年に新潟大学を中心に立ちあがった公開セミナーです。新潟における知の交流の場となるよう、毎回、精力的にご活躍の講師をお招きして、哲学・思想にまつわる諸問題に積極的に取り組んでいきます。参加費、予約等は不要です。どなたでもご自由にご参加ください。

主催:新潟哲学思想セミナー
共催:新潟大学間主観的感性論研究推進センター/同 人間学研究交流費

お問い合せは阿部まで
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→ポスターはこちら

2021年1月 8日

第39回新潟哲学思想セミナーが開催されました  【NiiPhiS】

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第39新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に早稲田大学の星野太先生をお招きし、「概念のアトリエ──ジャン゠フランソワ・リオタールの講義録から見るフランス現代思想」というテーマのもと開催されました。講演はタイトルにもある「アトリエ」という言葉についての解説から始まりました。リオタールは『漂流の思想』において、美学を「もっとも判別力のある批判的概念を鍛えるための仕事場」であると述べています。

リオタールは1954年に最初の著書『現象学』を出版した後、長らく社会主義運動(「社会主義か野蛮か」、「労働者の権力」)に身を捧げていました。次に著作を発表したのは1971年『言説、形象』です。政治運動を経て発表された『言説、形象』でリオタールが一貫して対象としていたのは「美学」でした。ここでしばしば言われるのは「政治」から「美学」への転向ということです。しかしリオタールにとっては両者が独立した分野として存在するのではなく、美学の問題は同時に政治の問題にほかなりませんでした。「判別力のある批判的概念を鍛えるための仕事場」としての美学と言ったとき背景にあるのは、リオタールの思想における政治から美学への「転向」ではなく、政治と美学が地続きになった領域であったと星野先生は主張されます。

1971年に『言説、形象』を発表して以降、リオタールは自身のキャリアにおいて「概念のアトリエとしての美学」を理論的な著作や展覧会といった実践的な形を通じて明らかにしていこうとします。『言説、形象』は哲学者としての最初の主著と言えます。リオタールを一躍有名にした『ポストモダンの条件』や『文の抗争』、さらには1985年にポンピドゥー・センターで行なわれた展覧会「非物質的なものたち(Les Immatériaux)」(以下「非物質」展)などもリオタールの主要な仕事として挙げられます。

149F6655-C36B-408F-8099-20C172B84E35.jpg星野先生は、続いて今日のリオタール研究について紹介してくださいました。日本語圏でのリオタール研究が進展しない一方、英語圏においてはリオタールの読み直しが盛んに行なわれています。例えば、加速主義の一種として、リオタールの『リビドー経済』をはじめとする著作が加速主義のプロトタイプとして読み直されているといった状況や、リオタールの「非物質」展についての論集(30 Years after Les Immatériaux, 2015の出版、さらには2019年に中国美術学院にて企画された、『ポスト・モダンの条件』の40周年を記念したシンポジウムなどがあります。

 次に、リオタールの『崇高の分析論──カント『判断力批判』についての講義録』(以下『崇高の分析論』)の紹介へと移ります。リオタールが80年代において最も力を入れていたプロジェクトの一つが、「崇高」の美学の再検討でした。なかでも『崇高の分析論』はリオタールの崇高論を最も包括的に扱った書物です。しかし、だからといって『崇高の分析論』においてリオタール独自の崇高論のアイデアが存分に込められているわけではない、という点に注意が必要であると星野先生はおっしゃいます。本書は書物というよりは、リオタールが80年代に行なったカント『判断力批判』の第23節から29節に相当する「崇高の分析論」の講義ノートと言った方が適切かもしれないとのことです。本書で採用されているのは、フランスの高等教育における伝統的な精読の作法「エクスプリカシオン・ド・テクスト(explication de texte)」と呼ばれているものです。それはリオタールが自身のアイデアを込めたり、関連資料を外部から持ち込んで読解するというのではなく、あくまで当のテクストに即してそのなかに説明を見出そうとする態度であると言えます。

リオタールを『ポスト・モダンの条件』の名のもとに知る読者にとって、近代(モダン)を代表する哲学者であるカントの名前が登場することに多少の驚きを覚えるかもしれません。しかし『文の抗争』や『熱狂──カントの歴史批判』といった80年代に発表されたリオタールの書物に通じていれば、そこでカントの名前が挙がることは妥当であると言えるでしょう。

 20世紀後半の「フランス現代思想」において、カントはもっとも盛んに論じられた哲学者の一人でした。リオタールだけではなく、同時代に活躍した、フーコー、ドゥルーズ、デリダといったフランスの哲学者たちもカントについての書物を残しています。では彼らはどのような視点からカントに取り組んだのか。それは、カント哲学の体系(建築術)を崩しうる「穴」はどこなのか、といった点から読み直されました。そのときに哲学者が焦点を定めたのが、『判断力批判』における「崇高なものの分析論」でした。

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次に 星野先生は、リオタールの崇高論の具体的な内容に話しを移されました。リオタールの崇高論を考える際にカントと並んで重要になるのが、エドマンド・バークの崇高論です。リオタールが自身の崇高論において「呈示しえないものの否定的呈示」と言うときには、カントの崇高論をモデルとしています。カントは純粋なる〈理念〉や無限の力、絶対的な大きさ、などを空間や時間において呈示することはできないと述べています。しかし、カントが「否定的呈示」と名付けるものによって、それらが呈示不可能である、というそのこと自体を間接的に「喚起する」ことはできます。いささか込み入った記述ですが、リオタールはこの「否定的呈示」のモデルを、自身の前衛芸術論において取り入れています。他方で、リオタールがアメリカの美術家バーネット・ニューマンの絵画を論じる際には、カントの否定的呈示の崇高論ではなく、バークの崇高論が採用されています。バークの崇高論は間接的な暗示ではなく、直接的な「呈示゠現前」に基づくものです。リオタールの崇高論には、「呈示しえないものの否定的呈示」(カント)と「呈示そのもの」(バーク)の二つのモデルが混在しているのです。こうしたリオタール独自の視点から展開された崇高論は、80年代の著作『子どもたちに語るポストモダン』や『非人間的なもの』において積極的に扱われています。

しかしこれらの書物が「リオタールの」崇高論であるのに対して、『崇高の分析論』は少し性格が異なります。『崇高の分析論』はリオタール独自の視点が前面的に打ち出された書物というよりも、リオタールによるカントの哲学の綿密な注釈書、つまり「エクスプリカシオン・ド・テクスト」〔゠精読〕としての側面が強い書物です。しかし、そういった性質の違いがあるにもかかわらず、『非人間的なもの』をはじめとする80年代の著作群で展開されているリオタール独自の崇高論と、カントの綿密な読解である『崇高の分析論』はしばしば同列に扱われてきました。前者では抽象表現主義や前衛芸術との関連で崇高を論じているのに対して、後者はカントのテクストに沿った読解であり、文脈や目指す方向がそもそも異なります。星野先生のご講演では、この点が強調されました。最後に、『非人間的なもの』におけるリオタール独自の崇高論の展開と、リオタールのカント読解、すなわちカントの概念がどのように翻訳され、リオタールの著作に反映されているのか、といった点についてそれぞれケーススタディが紹介されました。

 未だ「ポストモダン」という言葉との関連で語られることが多いリオタールについて、これまであまり紹介がなされてこなかったリオタールの哲学や、近年のリオタール研究の動向についてお話し頂き、大変貴重な時間となりました。最後になりますが、ご講演いただいた星野太先生に深く感謝申し上げ、第39回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学現代社会文化研究科博士前期課程 長谷川祐輔]

 

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2020年11月26日

第38回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【NiiPhiS】

第38回哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に京都大学の武田宙也先生と松本卓也先生をお招きし、本学からは阿部ふく子先生が登壇し、「小さなことのコレクティフ──ジャン・ウリ「制度を使う精神療法」を考える」というテーマのもと開催されました。

武田先生からは、フランスの精神分析家ジャン・ウリの思想において統合失調症者の創造行為がどのような意味を持つのか、またそれと関連するかたちで精神治療の場の構造についてお話しいただきました。

ウリによると、統合失調症者は自己と世界の境界をうまく画定することができず、自らが作り出す作品と自分自身を切り離すことができません。そのため、統合失調症者の創造行為においては、外的なオブジェクトと同時に自己に形を与えることが問題となります。この、自己の再構築と不可分な創造のプロセスをウリは「形態化」と呼び、統合失調症者の「生き延び」に必要不可欠なものであるとみなします。というのも、統合失調症者は何らかの要因によって自己という単一性が損なわれている、と考えるウリにとって、その創造行為によって形作られた作品は、欠損した彼らの単一性の代用物であるように思われるからです。このような作品は概して、生活の中にある雑多ながらくた(糸くずや布切れ、鏡の破片など)を収集しブリコラージュすることによって構築されます。武田先生によると、「ブリコラージュ」という語にレヴィ゠ストロースが与えた含みに着目するならば、ウリが統合失調症者の自己に持っていたイメージを次のように言い表すことができます。すなわち、統合失調症者の自己とは、ありあわせの雑多ながらくたを使いその時々の状況に応じて仮説的に構築されるものである、と。

スクリーンショット 2020-12-07 23.19.07.pngそのためウリは、精神病者の治療には彼らを取り巻く環境に働きかける必要があると考えました。その際、環境はできるだけ多くの差異化された要素によって構成されることが重要となります。なぜなら、ウリの考えでは、そうした多様な帯域を横断することによって患者は、複数の場所にリビードを充当させ、様々な人やモノと結びつき、一つの集合体、すなわち「コレクティフ」を形態化させるからです。

この集合体(コレクティフ)としての自己のイメージは、共同性の問題系にも開かれています。というのは、安定した自己に立脚して他者と関係するといったような共同性の支配的なモデルとは異なるものをコレクティフは想起させるからです。「他なる共同性」の具体例の一として、武田先生はフェルナン・ドゥリニィの「地図の実践」を提示します。地図の実践とは、自閉症の子どもたちとの共同生活において、一日の移動の軌跡を描くことで、特異な地図を作製する試みです。ドゥリニィは、子どもたちの軌跡にみられる特徴に着目することによって非言語的なしるしを導入し彼らとのコミュニケーションを構築しました。

松本先生からは、〈思想・臨床・政治〉のかたちが、1968年前後の世界規模での運動を経験する中でどのように変化したのか、いわば68年からポスト68年への〈思想・臨床・政治〉の変化の見取り図を、中井久夫、上野千鶴子、当事者研究といったトピックに即してお話していただきました。

松本先生によると、権力構造の非対称性に対抗する政治的運動が盛り上がりを見せた60年代後半、精神医療の領域においても医師―患者関係の是正をめぐって激しい運動が展開されました。そのさなかにあって、著書で医局制度を痛烈に批判したことでも知られる中井久夫は特異な位置を占めます。というのは、中井は最前線に患者を絶たせるような運動のあり方に批判的だったからです。中井はむしろ、運動後に病が悪化する患者を診る「翌日の医者」でした。運動に対するこのような距離の置き方や、単に医局を否定するのではなく、その有用性を巧みに利用する必要があるという趣旨の医局制度批判を展開させた中井の態度は、とりわけ統合失調症の治療の捉え方に見られます。中井の考えるところでは、患者の治療のために重要なのは、社会の多数派に患者を同一化させることではなく少数者として巧みに生きていくための方途を探ることでした。

松本先生は、こうした中井の姿勢と上野千鶴子の思想との類似性を指摘します。『生き延びるための思想』のなかで、死地に赴くテロリストの革命的な思想に対置させる形で、自身を「生き延びるための思想」に位置付ける上野は、万人に共通する普遍解という虚構をくずすことによって、マイノリティがマイノリティのまま尊重され、生き延びていくことを目指しました。そのためには、ゲームのルール(普遍解)に従うのではなく、個々人でバラバラのニーズを満たすためにゲームのルールを作りかえ続ける作業が必要となります。

次いで松本先生は、当事者研究の一例として「べてるの家」という場所での精神障害等を抱えた人々の活動を取り上げました。松本先生によると、障害者のニーズが当事者によって研究されるこの場所において特に重要なのは、研究が一人で行われるわけではないということです。というのも、この場合のニーズとはもともとあるものではなく、仲間たちとの関係のなかからダイナミックに生まれるものだからです。他者に開かれることによって自身のニーズを見出すことが可能となるという当事者研究の考えには、個体的なものでありながら集合的でもある自己というウリのコレクティフとの類似を指摘することができるでしょう。


スクリーンショット 2020-12-07 23.10.01.png阿部先生からは、実践とは何かという問いのもとで、実践と理論との関係の複雑さ、実践と理論を行き来するウリの身振り、また、ブルデューとウリの文章を比較することによって見えてくる実践と理論の閾についてお話していただきました。

この二つの領域のあいだを全くの断絶として考えるフランスの社会学者ピエール・ブルデューは、実践には理論に還元することのできないものが含まれていると述べています。実践を反省的に振り返るという行為は、実践の持つアクチュアルな面を縮減してしまうというわけです。実践を語りえないものと捉えるこのようなブルデューの実践感覚の純粋な境地においては、実践と理論とが結び付くことはありません。ウリの実践感覚はブルデューのそれと好対照をなすものです。というのも、実践の正当性について問われたウリは、それを、超越論的なものと経験的なものの領域のあいだ、すなわち実践と理論の閾の分節と接合にもとめるからです。また、ウリは実践と理論を単なる二項対立として捉えず、理論を実践に包摂させます。実践の中で理論化が試み続けられなければならないというのです。

このウリの実践感覚について、阿部先生はウリのとあるエピソードを取り上げます。それは「コレクティフ」の理論に関するものです。「コレクティフの弁証法的(dialectique)機能」という発表タイトルが「識別(diacritique)機能」と間違った状態で印刷された用紙を見たウリは、とある患者とのやり取りを回顧しながら、コレクティフには識別機能があることを認識します。つまりウリは偶然の誤植を契機にコレクティフの理論に変更を加えたのです。ウリにとっては、実践と理論の関係を考えるときに、実践の中での人々との偶然の関わり合いが非常に重要なものとなっていると言えるでしょう。

他者に開かれている場や自己としての「コレクティフ」の概念が様々な具体例のもとで明快なものとなり、非常に勉強になりました。最後になりますが、ご講演いただいた武田宙也先生、松本卓也先生、そして阿部ふく子先生に深く感謝申し上げ、第38回新潟思想哲学セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学現代社会文化研究科博士前期課程 髙橋 駿]

2020年12月24日

概念のアトリエ──ジャン゠フランソワ・リオタールの講義録から見るフランス現代思想  【NiiPhiS】

第39回 新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS) 

概念のアトリエ
ジャン=フランソワ・リオタールの講義録
から見るフランス現代思想

講師 星野 太(早稲田大学) 


日時 2020年12月24日(木) 17:00~18:30
場所 新潟大学 五十嵐キャンパス
   総合教育研究棟 D棟1階 大会議室【会場変更しました】(オンライン配信あり)

・参加無料 

・開催方法:Zoom ミーティング(事前登録必要)+ 対面

・事前登録先 

https://zoom.us/meeting/register/tJcpdOCgqTMrHtbYTSF-H7qGMSkGSJB_Im8G

・録音、録画はお控えください。

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◎ 登壇者プロフィール星野 太(ほしの・ふとし)1983年生まれ。美学、表象文化論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。現在、早稲田大学社会科学総合学術院専任講師。著書に『崇高の修辞学』(月曜社、2017年)、共著に『コンテンポラリー・アート・セオリー』(イオスアートブックス、2013年)、『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践』(フィルムアート社、2018年)、『ことばを紡ぐための哲学』(白水社、2019年)、共訳書にカンタン・メイヤスー『有限性の後で』(人文書院、2016年)など。

◎ 新潟哲学思想セミナー(Niigata Philosophy Seminar:通称 NiiPhiS[ニーフィス])とは 
2009年に新潟大学を中心に立ちあがった公開セミナーです。新潟における知の交流の場となるよう、毎回、精力的にご活躍の講師をお招きして、哲学・思想にまつわる諸問題に積極的に取り組んでいきます。参加費不要です。どなたでもご自由にご参加ください。

主催:新潟哲学思想セミナー
共催:新潟大学間主観的感性論研究推進センター

お問い合せは宮﨑まで
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2020年11月20日

小さなことのコレクティフ──ジャン・ウリ「制度を使う精神療法」から考える  【NiiPhiS】

第38回 新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS) 

小さなことのコレクティフ
ジャン・ウリ「制度を使う精神療法」から考える

武田宙也(京都大学)「コレクティフ」と創造行為
 松本卓也(京都大学)日本の精神医療と「コレクティフ」
 阿部ふく子(新潟大学)「コレクティフ」による実践哲学 

司会:宮﨑裕助(新潟大学)


日時 2020年11月20日(金)17:00~19:30

・参加無料 

・開催方法:Zoom ミーティング(事前登録必要)+ 対面(登壇者・司会者のみ)

事前登録先 https://zoom.us/meeting/register/tJAtf-yupjMoE9drmal_ageSuTQ0Tnv3tq7A

・録音、録画はお控えください。

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◎ 登壇者プロフィール:武田宙也(たけだ・ひろなり)1980年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。専門は美学。著書に『フーコーの美学──生と芸術のあいだで』(人文書院、2014年)、訳書にジャン・ウリ『コレクティフ──サン・タンヌ病院におけるセミネール』(共訳、月曜社、2017年)他
松本卓也(まつもと・たくや)1983年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。専門は精神病理学。著書に人はみな妄想する──ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』(青土社、2015年)、『創造と狂気の歴史──プラトンからドゥルーズまで』(講談社メチエ、2019年)、『心の病気ってなんだろう』(平凡社、2020年)他
阿部ふく子(あべ・ふくこ)1981年生まれ。新潟大学人文学部准教授。専門は近代ドイツ哲学、哲学教育。著書に『思弁の律動──〈新たな啓蒙〉としてのヘーゲル思弁哲学』(知泉書館、2018年)、ヴァルター・イェシュケ『ヘーゲル・ハンドブック』(共訳、知泉書館、2016年)他。


◎ 新潟哲学思想セミナー(Niigata Philosophy Seminar:通称 NiiPhiS[ニーフィス])とは 
2009年に新潟大学を中心に立ちあがった公開セミナーです。新潟における知の交流の場となるよう、毎回、精力的にご活躍の講師をお招きして、哲学・思想にまつわる諸問題に積極的に取り組んでいきます。参加費不要です。どなたでもご自由にご参加ください。

主催:新潟哲学思想セミナー
共催:新潟大学間主観的感性論研究推進センター/同 人文学部研究交流費

お問い合せは宮﨑まで
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2020年2月14日

第37回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

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第37回哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に東北大学の佐藤駿氏と小原拓磨氏をお招きし、本学からは高畑菜子氏が登壇し、「他者への問い――〈あなた〉は私にとって何者なのか?」というテーマのもと開催されました。

初めに、高畑氏からカントの良心論についてお話をいただきました。一般的には、カントの倫理学において「他者」の入り込む余地はないように思われています。どのようにしてカント倫理学で「他者」が自己と関わるのでしょうか。そこでカントの「他者」概念に関わるものとして、カントの良心論の解説をして頂きました。

カントの良心についての一つの叙述として、『人倫の形而上学』の第二部「徳論の形而上学的定礎」いわゆる「徳論」が挙げられます。ここでは良心は誤ることがないという議論を法廷モデルにおいて説明しています。こうした良心の法廷モデルにおいて主観の中に「他者」が現われるとしました。

そしてこのような良心の法廷モデルにおいて審判を正確に行なうために「誠実さ」を必要とします。この「誠実さ」という概念は、カント倫理学において特定の立ち位置が確立されてはいませんでした。このような「誠実さ」は自己から他者へ汎通する徳であり、カント倫理学における「他者」概念の把握の根底的な位置を占めていると考えることができるとし、カントの良心論の解説を締めくくっています。

IMG_0349.jpg次に、佐藤氏にフッサール現象学の立場から、他者についてお話しいただきました。佐藤氏は、自己を否定するものとして他者を捉えます。

現象学は、その性格上「自我論(エゴロギー)」として始めなければなりません。けれども、まさにそのために自己とは異なる主体である他者が問題になってくるのです。私が経験する世界は、私だけのものではなく他者の世界でもあり、〈万人にとってそこにある〉ということが前提とされているとフッサールは考えます。このことが意味するのは、他者経験を現象学的に考察することが、「客観性」の問題を考えることにもなるということです。

他者は、どのように私に現われてくるのでしょうか。純粋に私固有な世界、すなわち原初的(primordial / primordinal)世界には、他者はまず身体(Leib)として現われます。そうなると私は、身体を持つ他者を見ると同時に、それにもよって見られていることを意識せざるをえません。原初的世界は私固有な世界であるにもかかわらず、私の身体及び他者の身体が属しているために〈私たち〉の世界と言えます。けれども、そこには語りかける「私」も、語りかけられる「あなた」も存在しません。原初的世界には人称性がないのです。 

「私」と「あなた」がはっきりと現われてくるのは、二人が話し合いにおいて意見が対立しているときではないかと佐藤氏は考えます。つまり、他者、そして私自身が、自分が述べたことが否定されるという経験を通じて、それぞれ相互に現象するのではないかということです。私は他者による否定を通じて世界をよりよく知るという可能性を有しているとも言えます。 佐藤氏はフッサールの他者分析をもとにして、身体的な現象として他者が経験されることをまず示しました。そのあとで、会話での意見の対立を通して、〈私〉を否定しうる者としての他者が経験されると述べられました。

 最後に、小原氏にデリダの他者論について発表していただきました。デリダの考える「他者」は、通常想定される「他の人間」という意味だけではありません。デリダによれば、autre(他者、他なるもの)が語るのは、消え去るもの、あるいは現象しないものなのです。 

IoGcNC4q43RiCpD1581612733_1581612888.jpgデリダは、フッサールの他者論に言及します。フッサールが述べているのは、他者が自我(エゴ)に還元不可能なものとして現われてくるということだとデリダは言います。レヴィナスは、フッサールが他者を「エゴの現象」として自我に同化していると解釈しました。けれどもデリダによれば、フッサールは他者を自我に還元不可能なものとして考えていたのです。

フッサールやレヴィナスを手掛かりにしつつ、そもそも現れないものとしての他性についてデリダは思考します。そもそも、私(自同者)にとって他者が他者として現われる事象、あるいは自同者が他者とともに現われる事象とは何なのでしょうか。まずそのように自と他が問題とされるためには何よりもまず両者がそれとして現れなければなりませんが、そのように自と他を区別して空間化し、差異ある者として現われさせる働きが「差延」なのです。

デリダは、西洋哲学は音声中心主義であったと言います。声が、主体の自己現前、意識、精神、ロゴス、真理を表現してきたものなのです。デリダはこれらの「音声(phoné) 」としての声とは別種の声として、ハイデガーの「存在の声」を採り上げます。存在の根源的な意味は、言葉にならず、したがって声にもなりません。ハイデガーによれば、 「存在の声」を聴くことができるのは詩人なのです。詩人は「存在の声」を聴き取り、それを自らのうちに、自己の傍らに(bei sich)、 ひとつの無言の声として携え(tragen)、 この声に応答する責任を引き受けます。

往々にして、詩人の言葉は理解されません。ハイデガーは詩人を初物(Erstlinge)とも表現し、初物は供され犠牲になってしまうと言います。デリダは Erstlinge を les initiateur(創始者、先駆者)と仏訳し、新たに創設する者あるいは真理を最初に語る者は、体系に属さず、常に排除されていると述べます。この意味で、創設者である他者は現われません。体系の創設者は排除され、痕跡しか残っていません。起源において排除された他者の声、痕跡としての声に耳を傾け、友の声に耳を開くことのできることが、「脱構築」なのです。

 長くなってしまいましたが、それだけ内容が濃く、実りあるセミナーでした。最後に、ご講演いただいた佐藤駿氏、小原拓磨氏、そして高畑菜子氏に深く感謝申し上げ、第37回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学人文学部 心理・人間学プログラム 人間学主専攻 山田太朗、横田剛志]

2020年1月24日

他者への問い──〈あなた〉は私にとって何者なのか?  【お知らせ】

第37回 新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS) 

他者への問い
〈あなた〉は私にとって何者なのか?


日時 2020年1月24日(金)16:30~19:00
場所 新潟大学 五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 B棟5階 プレゼンルーム


第一部 16:30〜18:00
高畑菜子 カントの良心論──内なる法廷における他者をめぐって
佐藤 駿 否定としての他者──間主観的志向性に関する一考察
小原拓磨 他者の声──デリダにおける「声」の再検討について

第二部 18:15〜19:00 
全体討議

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◎ 登壇者プロフィール:高畑菜子(たかはた・なこ)新潟大学大学院現代社会文化研究科博士課程学生。専門は、カント倫理学。主要業績としては、「カント倫理学成立史における「判定」と「執行」」(『東北哲学会年報』東北哲学会、2017年)他。

小原拓磨(おばら・たくま)東北大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。主要業績として、論文に「存在-神-論と神の死――哲学の始源をめぐるデリダのヘーゲル読解」(『哲学』第70号、日本哲学会、2019年)、「全焼への正義――『精神現象学』「光の実在」のデリダ的読解」(『倫理学年報』第69号、日本倫理学会、2020年)、翻訳に「アレクサンドル・コイレ「ヘーゲルの言語と専門用語についてのノート」」(『知のトポス』第14号、2019年)他。

佐藤駿(さとう・しゅん)東北大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。主要業績として、著書に『E・フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学――『論理学研究』から『イデーン』まで』(東北大学出版会、2015年)、論文に「現象の虚実――フッサール「理性の現象学」への一視角」(『現象学年報』第33号、日本現象学会、2017年)他。


◎ 新潟哲学思想セミナー(Niigata Philosophy Seminar:通称 NiiPhiS[ニーフィス])とは 
2009年に新潟大学を中心に立ちあがった公開セミナーです。新潟における知の交流の場となるよう、毎回、精力的にご活躍の講師をお招きして、哲学・思想にまつわる諸問題に積極的に取り組んでいきます。参加費、予約等は不要です。どなたでもご自由にご参加ください。

主催:新潟哲学思想セミナー
共催:新潟大学間主観的感性論研究推進センター/同 人文学部研究交流費

お問い合せは宮﨑まで
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→ポスターはこちら

2019年11月 5日

第36回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

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第36回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に山形大学の柿並良佑先生と立命館大学の山本圭先生をお招きし、「情の時代のポピュリズム──情動とカリスマから考える」というテーマのもと開催されました。

はじめに、柿並先生から「情動(の政治)」について考えるとはどのようなことかについてお話して頂きました。柿並先生によると、情動と政治の両者は切り離されない関係性にあります。情動と政治の関係性について、多くの思想家がわれわれの情動・感情をいかに動員し組織するのかを問うています。しかし、そもそも情動とは何でしょうか。柿並先生はこの根本的な問いについて、さまざまな思想家の考察を用いながら解説して下さいました。4400.jpgたとえばフロイトによれば、情動(affect)とは同一化(個人の心理は常に集団との関係の中で決定すること)の本質であり、情動の本質は両価性(ambivalence)です。ただしジャン=リュック・ナンシーは、フロイトが情動の本質を両価性としながらも、両価性の単純な論理を成立させるには至っていないと指摘しています。つまり情動とは、ある対象に向ける愛と憎悪という相反する単純な感情ではないということです。ナンシーは、情動について「情動は、あると言えるとすれば、ソレ〔ça〕でしかありえない」と述べています。ソレとは何か。柿並先生はフロイトでいうところのエス、英語で表現するならば It だと説明し、「私」を駆り立てる何かなのだと解説して下さいました。情動とは何かについて解説して頂いたのち、次に情動論的転回について情動とメディアの関係性を題材にお話しして下さいました。柿並先生によれば、われわれの情動はミクロレヴェルで社会に管理されているといいます。たとえば Twitter がこれにあてはまります。 Twitter の「いいね」は反射的な情動だと柿並先生は仰いました。なぜなら、Twitter の「いいね」は「「いいね」の数が多いから」、「なんとなくおもしろい」といったその場のノリからくるものだからです。この「いいね」という情動には何の深みも無く、非常に動物的だと柿並先生は指摘しました。柿並先生のお話から、われわれの情動はインターネットが発展した現代社会において、ミクロレヴェルで管理された結果、もはや「私」を駆り立てる人間的な何かではなく、流され飼い慣らされた動物的なものへと変化しつつあるのではないかと考えられました。

次に、山本先生からポピュリストと政治的カリスマについて、指導者という観点から解説して頂きました。山本先生はまず導入として、シャンタル・ムフが強調する左派ポピュリズムについて紹介することによって、衆愚政治などと揶揄されてきたポピュリズムのポジティヴな面を紹介してくださいました。IMG_1223.jpgムフによれば、新自由主義的な緊縮政策によって、大多数の人々は政治的に無力化されています。そして左派にとっての唯一の対抗手段が左派ポピュリズムだといいます。左派はポピュリズム戦略に訴えることで、エスタブリッシュメントに対抗する勢力をまとめあげ、自由民主主義を回復しなければならないというのがムフの主張です。左派ポピュリズムの勢力をまとめ上げるには指導者が必要です。山本先生はマックス・ウェーバーの指導者民主主義を踏まえながら、官僚制に対抗する指導者による民主主義の必要性について説明してくださいました。それではどのような指導者が必要なのでしょうか。そして、そもそも指導者とは何なのでしょうか。この問いへの大きなヒントとなるのがカリスマです。山本先生によれば、政治指導者は大衆の票を集める能力だけでなく、政治のために生きるカリスマを備えた人物です。では、カリスマとは何でしょうか。山本先生は思想家によるカリスマ論の射程を紹介しながら、カリスマ論についてお話してくださいました。ウェーバーは『権力と支配』のなかで、カリスマとは「「信奉者」によって、じっさいにどのように評価されるか」が重要だと述べています。つまり、ウェーバーによるカリスマにとって重要なこととは、何より従う側からの評価ということです。ロジェ・カイヨワは『聖なるものの社会学』のなかで「カリスマ的権力は、いぜん夢遊的・催眠的・眩暈的・法悦的な力として存在している」と述べています。カイヨワはカリスマの力を非現実的なものとして捉えているのがわかります。ウェーバーがカリスマを民主主義と結び付けて、カイヨワがカリスマを非現実的な巨大な力と結び付けて評価しているなかで、ハンナ・アレントはカリスマを全体主義と絡めて論じており、『全体主義の起源』のなかで、全体主義の指導者は「いつでも取り替えがきく」と述べています。そして、カリスマとはその人物が持つ唯一性であるといった、ヴァルター・ベンヤミンのアウラ論とカリスマ論を結びつけた主張もあります。

カリスマとは何かについて知ることは、政治指導者が本当に指導者にふさわしい人物なのかを冷静に判断する大きな材料になるのではと思いました。

柿並先生と山本先生のお話は、民主主義とも衆愚政治とも呼べない、曖昧なポピュリズムが蔓延している現代社会について考え直す良い機会となりました。メディアやインターネットの情報や指導者の過激な発言に魅せられた情動によってポピュリズムを形成していくのではなく、自分の意志と理性をもって判断することがポピュリズムの重要な要素であるのではないかと感じました。

最後になりましたが、今回のセミナーでご講演頂いた柿並良佑先生と山本圭先生に感謝申し上げ、第36回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学現代社会文化研究科修士課程 田中宥多