第9回新潟哲学思想セミナーが開催されました 【NiiPhiS】
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第9回セミナーでは、講師に関西大学の門林岳史先生をお迎えして、「メディアの消滅──マクルーハンからポストメディアへ」というテーマのもと、私たちの生活において欠かせない情報伝達の、あるいは情報収集の手段(後に、このセミナーによってメディアはたんなる情報伝達の手段ではなくメッセージそのものであるということが理解できたのだが)であるメディアの概念について、そしてそのメディアの行方について詳細にお話していただきました。
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第8回の新潟哲学思想セミナーでは、講師に山形大学の清塚邦彦先生をお迎えし、「フィクションとは何か:フィクションと現実という対比について」というテーマでお話しいただいたあと、新潟大学の井山弘幸先より「お笑いにおけるリアルとは何か」についてお話しいただきました。セミナーには30名ほどの参加者があり、多くの学生や教員のほか、3年前に新潟大学を退官された佐藤徹郎先生もお越しくださいました。
清塚先生は、まず最初に、ご自身の著書『フィクションの哲学』のおおよその内容について紹介されました。清塚先生は、フィクションをひとまず「想像による物語」として捉えて、その基本的な特徴を「作者と語り手の不一致」という点に求めておられます。その上で清塚先生は、フィクションにも現実と符合するものがあったり、フィクションではない語りのなかにも実在しない対象や出来事に言及することがあるなど、フィクションと現実の違いについて、あらためて捉えなおされます。そして、フィクションはリアリティの対義語ではなく、むしろリアルなフィクションがあると清塚先生は仰い、その特徴について分析的に議論を展開されました。
つぎに井山先生が、笑いにおけるフィクションとリアリティについて、落語や漫才から豊富な例をとりあげて、お話しくださいました。落語とはフィクションのなかで人間の業を肯定するものであるという立川談志のテーゼをめぐって、さらには漫才というフィクションにおいて、わざと漫才師が現実世界のことを話して笑いをとる、いわゆる「リアルぼけ」の方法をめぐって、落語や漫才ではリアリティとフィクションの関係がとても重要になることをお話しいただきました。
その後の質疑応答の時間では、特に清塚先生と新潟大学の先生方との間に、ふだんは見られることのない、白熱した議論が行われました。
今回はお二人の先生による講演でしたが、フィクションとリアリティという、いっけん相反する概念についてさまざまな議論が交わされ、あらためてその関係を考えなおすことができました。清塚先生ならびに井山先生、ありがとうございました。
[文責=新潟大学大学院現代社会文化研究科生 中川 祐樹]第7回セミナーでは、講師に南山大学の大竹弘二先生をお迎えし、「カール・シュミットのアクチュアリティ――近代主権国家の歴史的使命とその終焉」というテーマのもとお話しいただきました。当日は、悪天候にもかかわらず約二十名の方が足を運んでくださいました。
大竹先生は、ご自身の『正戦と内戦──カール・シュミットの国際秩序思想』の内容を踏まえた上で、シュミットの考える「近代主権国家概念の誕生と没落」についてお話しされました。
シュミットによれば、近代主権国家は、16世紀の宗教戦争を克服する使命を負って生まれ、したがって歴史的・地域的にヨーロッパに固有のものという性格をもっていました。しかし19世紀後半以降、主権国家概念が全世界に広まり、その固有性を失い没落していきます。その背景には、ホッブズの政治的自由主義という近代国家概念に内在する要因と、イギリスによる海洋進出という外在的要因がありました。そうしてもたらされた産業・技術が、主権国家にとっての新たな課題になっていきます。
シュミットは、一方でマキァヴェッリらの唱える技術的国家観の無規範性を批判しながら、他方で評価してもいました。そこから着想を得、彼は例外状況における行政府の「措置(Maßnahme)」に規範性を与えた上で法律に優先させるという主張を展開するに至ります。しかし、戦後の経済発達に伴い行政措置の対象が「生存配慮」へと変わったために、シュミットの技術国家への見方は再び否定的なものになっていった、と大竹先生は考えていらっしゃいます。
講演の後は、多くの教員・学生から、それぞれの研究分野に関連した質問が出され、議論に幅のある質疑応答が行われました。
大竹先生は、シュミットの思想の変遷を、歴史的状況を踏まえてわかりやすく説明してくださったので、シュミットの思想が、行政機能がますます肥大化する現代政治に対する鋭い批判になりうるということを理解することができました。あらためて、大竹先生ありがとうございました。
第6回のNiiPhiSでは、講師に小田部胤久先生をお招きし、 「カール・レーヴィットと「二階建て」の日本──間文化性への一つの寄与」という表題でお話しいただきました。参加者は、新潟大学の学生・教員を中心に、学外からの方も含めて30名近くとなりました。
東北大学での教師時代、アメリカ時代、晩年というレーヴィットの遍歴に沿って、日本の近代化、東洋と西洋、古いヨーロッパと新しいヨーロッパといった問題に関する彼の思考が跡づけられました。
東北大学時代のレーヴィットは、近代化を目指した日本が西洋の思考を受容しようとしたことについて、それは「真の習得」とはみなしえないと断じます。真の習得のためには、異質なものの異質さを認めたうえでそれを自己化すること(他者の自己化)が必要なのに、日本(東洋)にはこのような態度が欠けているというのです。
表題にもある「二階建ての日本」という有名な言葉は、西洋的なものが、日本的なものとは別の階にあるかのように日本化されないままに上積みされているという矛盾的な状況を表わしています。
しかしレーヴィットはのちに、こうした見方を西洋自身にも向けました。つまり、西洋の思考はそもそもギリシア異教とキリスト教という二重性をもつ。そのうえ近代科学技術による変化も被ることで成立したのです。さらにアメリカについては、アメリカはヨーロッパの古代・中世という異質な伝統からいかに学ぶことができるのか、という問題があります。
今回の小田部先生のお話を通じて、他者の自己化という問題が、現代の日本の学生である私にとっても依然として重要な問題であることがわかりました。とくに私自身、西洋哲学を専攻しているため、その点をいっそう痛感した次第です。小田部先生、どうもありがとうございました。
哲学への権利について、人文学の未来について、 私たちはいま何を信じることができるのか。収益性や効率性が追求される現在のグローバル資本主義下において、哲学や文学、芸術などの人文学的なものの可能性を私たちはいかなる現場として構想し実践すればよいだろうか──1983年、ジャック・デリダらフランスの哲学者たちは、パリに半官半民の独創的な研究教育機関「国際哲学コレージュ」を創設した。これは、この機関をめぐる初のドキュメンタリー映画である。
第5回新潟哲学思想セミナーは、講師に西山雄二氏をお迎えし、映画『哲学への権利──国際哲学コレージュの軌跡』を上映します。西山氏は20世紀のフランス文学・思想を専門としながら、本映画を完成させ、現在世界各地で上映会を開催しつつ、また、大学論や教養論、知識人論、人文学論といった分野でも幅広く発言し、精力的に活躍されています。
今回のセミナーでは、本編上映の後、本学人文学部より、逸見龍生、番場俊、城戸淳の諸氏が参加し、西山氏を囲んで本映画を出発点とした大学・人文学・哲学・教養等々のさまざまな問題について自由に討議を行う予定です。多くのみなさまのご来場をお待ちしています。